G-16 ばーか

「道大会、もう準決勝じゃん!」


終礼の直後、クラスが沸き上がる。

試合結果がネットで公開されたようだ。公欠扱いの雨龍の席に、当人はいないというのに人が集まっていく。


「すごいすごいすごいって!」

「石狩管内の代表ってことしょ!?」


石狩地方を制した東別は、ここから全道規模の戦いへと駒を進めることになる――今月の校内新聞はそんな内容だろう。俺はゆっくりと立ち上がる。


「ねぇっ。今日、クラスみんなでお祝いしない!?」


女子の甲高い声が響く。


「あり!」

「いくいくっ」


そこに続く男子たちの掛け声が教室を席巻すると、一人の女子が碧水さんのほうを向く。


「かえで、来ないの?」

「え?」


振り返る碧水さんは、少しバツが悪そうだ。


「あー……ごめんね、今日は」

「かえでちゃん、最近どったの?」


のぞき込むその顔は困ったようで。というのも今日は交通部の活動なのだ。それ以前に最近は俺たちの活動も忙しく、そもそも疲れ気味であることは察せる。


「前も来てなかったじゃん」

「ごめーん。や、私も行きたい気持ちやまやまなんだけどね」

「らしくないって。何かあったの」

「……らしくない?」

「春とか、ぐいぐいみんなを引っ張ってくれてたのに」


そのうちに、人だかりが雨龍の机から碧水さんへと向かう。


「碧水ちゃん、何がそんなに忙しいの? 部活とかもやってないんでしょ」

「あー……部活は入りたかったんだけどね。通学時間的に無理でさ」


朝礼はギリギリで朝練は厳しいし、早めの汽車で帰らねば、月潟駅前の終バスが尽きてしまう。月潟まですらもバスを使っている彼女の時間では、普通の部活に割くのには難しい。


「もしかして恋!?」


一人の女子が叫ぶ。


「えっ、楓ちゃんマジ?」

「いや絶対そうだって。言いづらい忙しさって」

「誰、誰? どこのクラス?」

「もぉーっ、みんな違うって!」


ふるふると首を振って、声だけは空元気に碧水さんは否定した。


「やっぱ……雨龍くんかぁ」

「雨龍くんだよねぇ……」

「え? なんで?」


ぽかんとする彼女をよそに、女子たちが盛り上がる。


東別高校ウチの誇るベストカップルだもんね」

「雨龍くんに釣り合うの、楓ちゃんしかいないし……」

「てか、かえで以外の子が雨龍くんの隣取ったらもう女子内大荒れでしょ」


言えてる言えてる、と盛り上がる彼女らにとっては、納得できる結論が碧水楓という一人の少女らしい。


「あはは……」


苦笑する碧水さんの前に、一人の男子が腰かける。


「でもほんとに、何か来づらい事情とかあるの?」

「心配だよ。話ちゃんと聞くからさ」


少年少女の隙間から碧水さんは一瞬だけ、探るような視線を寄越す。少しの逡巡の末に、口が開く。


「……じつは札沼せ――」

「碧水さーん。先生が面談だってよ」


瞬間、俺はそこそこの声を出す。

まるで今来たかのように歩きつつ、遠巻きにひとこと。


「……っ」


ほんの刹那、不満げな表情を覗かせて。


「そだ。面談!」


何事もなかったように、思い出した風を取り繕う。俺はほっと息をつくと、彼女の為に道を開ける。碧水さんが立ち上がったその瞬間、想定外の言葉が降ってきた。


「ずっと思ってたんだけどさぁ」


俺と碧水さんが振り向く。


「もしかして君たち仲良い?」

「いや全然」


碧水さんが何か言うより早く、即座に否定した。


「ほんと? かえでが君に意味深な目配せしてるの、教室でよく見るんだけど」

「よく見えてないだけじゃね。碧水さんあんまメガネかけないし」

「メガネ?」


耳聡く、ひとりの男子が聞きつける。


「碧水さんメガネ持ってたの?」

「……あれ、わたし教室でかけたことないっけ」

「ないない。見たことない」


注目が俺に向く。


「なんで君が知ってるの?」

「」


ミスったな。


「いや、行き帰り同じ汽車でさ。たまに見かけるだけだ」

「ほんとに? なんか隠してない?」

「なわけないだろ。興味も接点もないのにどうやって仲良くなるってんだ」

「怪しいなぁ。面談とかも、さっき終礼あったばっかだし、先生かえでちゃんに直接言うはずじゃん」


俺を訝しむ目は、碧水さんにも向けられた。二人の間をいったりきたりする数多の視線をどうにか逸らそうと、俺は人差し指を立てる。


「あー、あの人うちの副顧問でさ、今日の部活の準備けっこうすぐで。だから言うの忘れたんじゃね」


適当な口上を述べ立てれば、周りは目を見合わせた。


「……あの男子、何の部活だっけ?」

「いやオレに聞くなよ」


ざわめく彼ら彼女らに、俺は別れを告げる。


「そういうわけで、部活いきます」

「ちょっ」

「勘繰っても何も出て来ないぞ。部活すら一緒じゃないし、そもそも俺じゃ釣り合わねえ。ではごきげんよう」


身をひるがえして足を踏み出そうとすれば、きゅっと袖を掴まれた。


「ぁ……」


しなやかな白い手。顔を上げる碧水さんと目が合う。


「おまっ……」

「ごめ! 面談行ってくるね、みんな!」


俺の袖元を離して、飛び立つように彼女は廊下へ駆けだした。

そうして残された俺に、すべての視線が集まる。


「やめとき」


一人の男子が、俺の耳元に言った。


「雨龍でしか、丸く収まらないから」

「なんだそれ」

「誰も文句言えないってことだよ」


うわ、だるい。本当に面倒臭い。信仰だか競争だか知らないが、こんな対象になってしまっている碧水さんも、そして雨龍も、なんと気の毒なことか。


「安心しろ。俺は部活一筋だ」

「……何部なん?」


俺は答えとともに踵を返す。


「聞いて驚け――交通部だ」






_______

 石 狩 月 潟いしかりつきがた

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 知来乙 ❘ 豊ヶ岡 ⇒






微妙な沈黙を背に、部室へと向かう。

カリカリカリ、と鉛筆を走らせる音とともに、右端に立てられた『部長』の標が僅かに揺れている。


「中ノ岱くん」

「はい」

「そこ邪魔です」


部室正面を陣取る部長机の脚元で、俺はあぐらを組んで作業をしていた。


「といっても、清掃活動の日程を組んでいるんです。駅舎維持のための」

「それは偉いです。交通部掃除班の鏡ですね」

「でしょう?」

「けれど、わざわざ私の足の当たるところでやらないでください」


といっても、ちょうどここに冷房が当たるのだ。真夏の石狩平野、外気温は35度に達しており、俺は涼みたくてしょうがない。


「この冷房がロクに部屋を冷やさないのが悪いんですよ。ちゃんと整備してほしいもんです」

「私に冷気が当たらないんですよ」


そう言うと、部長は鉛筆を止めて椅子から立ち上がる。すたりと俺の上に来て、そのまま腰を下ろすものだから、俺の頭上に部長の胸が乗る。


「部長。何はとは言いませんが、重いです」

「しばきますよ」


彼女はぐいっと俺を横に倒すと、そのまま前へ転がした。転がった先には北竜がいて、声を出しながら扇風機の風をその小さな体躯全身で受けとめている。


「ゔああああ~~」

「おい独占するな」


手を伸ばすが、無言で払われてしまう。俺は床に這い蹲って起き上がる気力もなく、そこに転がっていた一冊のノートを取る。


「うわ~、『札沼線の汽跡キセキ』だって。最高っすね」

「あぁ、それは先代が作ったものですね。私が1年生のときです」


ずいっ、と部長が寄ってきて俺の上に両肘を乗せる。


「部長。痛いです」

「楽しかったなぁ……」


少し遠い目をする彼女は、どんな追憶をしているのだろう。


「……なのに、もう受験なのですね」


しんみりと呟いて、横たわる俺から肘を離す。ゆっくりと立ち上がって戻る机の上には、びっしりと書き込まれた参考書。そうですね、頑張ってください、あるいは、どう言葉をかけようか。ひっくり返ってノートを被りながら思案していると、バン、と扉が開く。




「花火するよっ!」




おっと、主人公さまの登場らしい。

教室での苦笑ぶりはどこへやら、元気な声で碧水さんははにかんだ。


「まだ夏休み前だよ。気が早いって」

「北竜くん。やりたいときにやったもん勝ち、だよ!」

「まぁまぁ。この夏の仕事膨大だし、全部終わった後の打ち上げにやろうぜ」


もごもごとノートの下で俺が提案すると、うわぁと上から声が降ってくる。


「電車の写真集とか被って……みっともないよ、てかきもい」

「いや碧水さん、こいつはいいぞ」


むくりと起き上がってノートを見せる。


「ほら。汽車を見送って、手を振る園児たち」

「わっ、かわいい~!」


しゃがみこむ碧水さんと、ちょうど陽の光が差し込む床でノートをめくる――新しい部室の勝手も段々と慣れてきた頃だ。


「これどこ?」

「終着の新十津川駅。いまも毎朝やってるはず」


カタン、コトトンと窓を揺らすレールの音。ここは石狩月潟駅、その使われなくなった駅務室だ。そして今は東別高校交通部の活動拠点になっている。


「てか後半のほう空白だな。俺たちのやつ書かないか」

「えっ、めっちゃいい! 部長、いいですか!?」

「いいですね。ゆくゆくはノートから記録展とかもできそうです」


というのは、あの町長に、月潟町で活動するならばと当面の拠点にここを提供してもらったのだ。正面の部長机然り、役立たずの冷房然り、散らかっていた駅務室時代の備品をフル活用して、俺たちはここを新部室とした。


「ふふ……そろそろ今日の活動を始めますか」

「じゃあ早速、町役場行ってきます!」


碧水さんは立ち上がると、扉へと踵を返す。そのまま俺の脇をすれ違う際に、んんっ、と咳払いして、ぽそりと俺の耳元へ囁いた。


「さっきは……ありがと」


言葉とは裏腹に、不満げな表情だ。意図が汲み取れなくて首を傾げる。


「隠さなきゃいけないほど……、やましいことかな」

「え?」


ぽつり零した彼女のひとりごとはあまりにも小さくて。碧水さんは前へと一歩。二歩、それからくるりと回って振り返ると、めいっぱい叫んだ。


「ばーか!」


ばん、と勢いよく扉が閉まる。

呆気にとられる俺と部長。二人残されて、目を合わせる。


「こんどは……何をしでかしたんですか」

「知らないですよ」


俺は首をぶんぶんと振る。


「碧水さん教室で囲われてて、でもなんか乗り気じゃなさそうだったから助け船出しつつ退散してきただけです」

「本当にそれだけですか?」

「え? はい」


部長が怪しむ視線を向けてくるので、俺は眉間に手をあてる。


「うーん……。そのとき、俺が色恋疑獄に遭ったくらいしかないですよ。適当に否定して逃げてきました」

「適当に、とは?」

「そりゃ適当にですよ」

「具体的に」


珍しく部長がすごむので、俺は渋々再現する。


「俺と碧水さんが? ないない。興味も接点もない。仲良いわけないだろ、俺じゃ釣り合わねえよ……って」


ひとしきり演技を終えると、部長は額に手をあてていた。


「はぁぁ……」


深いため息のあとに、彼女はこう言った。


「中ノ岱くん。ばーか」

「なんなんですか」







_______

 月 ヶ 岡つきがおか

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 中小屋  ❘  知来乙 ⇒







「いやぁー……散々やったよね、この夏」


色とりどりの花火が散る。

回想から醒めたように、碧水さんが呟いた。


「あはは。きっと歴代交通部史上いちばん無茶してるよ、ボクら」

「だねぇ~」


笑い合う北竜と碧水さんをよそに、部長は俺に向き直る。


「中ノ岱くん、あなたの強運にはほんとうに感服します」

「運より実力をほめてほしいですね……」

「いえいえ。あなたが東別あそこで町長さんに出会っていなければ、私たちは何もできなかったでしょう」


風のように過ぎ去ろうとする夏に負けないくらい、交通部も馳せ回った。


「まさか町長さんがあんな積極的なんてね」

「度肝抜かれたよ、ほんと」


学校を飛び越して、直接月潟町と連携を始めたのは夏の初めごろ。人口3000ちょっとの町だからこそできたことだ。


「月潟町のプランにいろいろ意見して、協議し合って……あぁーっ。町役場、通いつめたなぁ」

「行政イジワルだったぁーっ。もう私行きたくなぁ~い……」

「わかる、一生部室で転覆してたい」

「でも床で寝るのはやめようよ……いつもノートとか被ってるし。かっこ悪いよ」


夏休みに入ってからは本当に休みがなかった。疲労困憊この有り様で、そりゃ部室でひっくり返りたくもなる。


「何が一番きつかったかなぁ」

「あれだ、列車利用特典とかいうのだろ。メッセージカードとバッジの創作」

「そう? ボクは楽しかったけどなぁ」

「俺の芸術センスを舐めるなよ」


利用奨励の一環として、札沼線を使った人に渡す景品を作ったりした。碧水さんと北竜が大活躍で、碧水さんに至っては中学は美術部だったという。ふたりとも絵が上手いものだから、俺の芸術センスの潰滅ぶりを前に言葉を失ってしまった。


「中ノ岱くん、ちゃんと目見えてる……?」

「きみ、もうちょっと世界とか観察して生きたほうがいいよ」


結局俺は掃除をした。


「あぁそうだ俺は掃除班班長。路線の清掃活動とかやったし、町議会への参考招致にも行った、審査会へ町の高校生代表として出た!」

「中ノ岱くん、それは部員総出でやってます。掃除班の功績ではありませんよ」

「わかりました……」


走り回っているうちに、町からいろいろ貰ったり、地元新聞の端くれに載ったり、東別高校交通部を取り巻く状況も少しは良くなってきた。月潟の町では、前よりは鉄道存続への取り組みも知られるようになった。


「よくやったよね、私たち」

「あぁ」


碧水さんの手には一冊のノート――『汽跡キセキ Vol.2』、この夏の4人の軌跡だ。


「……これで部長は、引退かぁ。」


シュゥゥ…、と北竜の花火が燃え尽きる。


「高3は受験なのに……、付き合わせてすみません」

「ふふ。確かにこの部活にはたくさん時間を食われました」


言葉とは裏腹に、部長は笑う。


「大丈夫ですよ。合間を見つけてはちまちまと勉強していましたし」

「うわそんなことできるんですね、人生とか得意そう」

「あなたよりは得意ですよ」


満更でもなさそうな彼女の頬を、碧水さんがつつく。


「でも、部長もともと成績学年トップクラスだし? きっと受験も大丈夫ですよ」

「どうでしょうか、別に私は地頭良くないですから」

「またまたご謙遜を……あっ、落ちた!」


部長の線香花火の玉が、ぽとり。


「うわ、最悪。私受験生なんですけど」


ひとしきり線香花火の玉の大きさを競い合えば、碧水さんが一番大きくて、なのに長く続く。ちなみに俺は部長どころか北竜にすら負けて最下位だった。


「あっはは。ボクより図体デカいくせに、玉ちっちゃくないかい? 玉が!」

「北竜? お嬢様がたの前では言葉遣いに気を付けた方が良い」

「悔しいのかい? 随分とお粗末なイチモツで」

「ショタのくせに下ネタが大好きな奴だな。下品なショタとかもうただのクソガキだぞ」

「いまショタって言ったろ」


そんな薄ら寒い下ネタにも部長はくすくすと笑う。対照的に、碧水さんはしどろもどろする。それぞれのイメージとは真逆なものだから、おかしくて俺も笑った。花火が照らすだけの線路脇に、4人の声は途絶えることはない。

しばらくしないうちに最後の一本も尽きて、俺たちは片付けを始めた。


「……ごめんね、ボクの都合でここまで来させて」


街灯に照らされる小さなログハウスは、北竜が毎朝列車を待つ駅舎だ。


「いやいや。石狩月潟もよりの2駅隣だし。手間じゃないさ」

「北竜くんの最寄りも知れたしねー」


そう言ってくれると助かるよ、と北竜は笑う。そして彼はゆっくりとホームの方へ歩みだした。


「この駅はね、お姉ちゃんがボクのために残してくれたんだ」


ホームへ続く石段に腰かけて、彼はしんみりと零す。碧水さんが首を傾げた。


「残して……、くれた?」

「うん。うちは三人きょうだいでさ。お姉ちゃんが卒業した年にボクが、今年からは妹が使うようになって」


ピィィィイ――……。列車の汽笛が遠くに響く。


「月ヶ岡駅の一日利用者は、1人だったんだ」

「利用者……1人って」

「うん、お姉ちゃんしかいなかったんだよ。だから廃止の話が出たんだ、五年前のことだったかな?」


レールの軋む音が、だんだんと迫る。


「でもお姉ちゃん、町に言ってくれたんだ。残してほしいって。自分の卒業までだけじゃなくて、その後も当面、弟や妹が使うからって」

「……どうなったんだ?」

「ね、残ってるでしょ?」


俺の問いに、ログハウスへの目配せで返す北竜。


「町がJRに取り次いで、こうして駅は存続してる。お姉ちゃんたった一人のために残ったんだよ」


コンクリート一枚の簡素なプラットホームと、粗末な駅名標。たったそれだけだけど、ちゃんと駅の役割を果たしている。


「だから札沼線だってきっと残せるさ。ボクたちがやろうとしてるのは、決して無謀なことじゃない」


線路の先に列車が現れる。白色のライトが眩いばかりに北竜の横顔を照らし出して、俺は思わず手庇をかざす。カタン、カタタンと音だけが徐々に大きくなって、ぽつりと北竜が呟いた。


「ボク、札沼線がなくなったら転校になるんだよ」


俺はぎょっとして目を開けた。


「どういうことだよ」

「パパがさ、札沼線の保線員なんだ。札沼線がなくなったら多分、留萌とか根室とか、遠いローカル線に異動になると思う」

「……っ」


部長が何か言おうとするも、詰まってしまう。彼は軽く笑ってみせた。


「何もそんな暗い顔する必要ないじゃないか」

「そんな軽い話じゃねぇだろ。だってよ、お前――」


言いかけた俺の口に、北竜はその小さな人差し指を立てる。


「だから――……絶対に、札沼線を残そう」


ビュウ、と列車が差し掛かる。

何か答える隙もなく、ばっ、と髪がかき上がった。


「それしか道はないんだから」


北竜の笑顔の背を、白と緑の単行列車が掠めていく。


「……夏が、終わりますね」


遠ざかる淡い赤色の尾灯を見つめて、部長が呟いた。


「随分と、忙しかった夏でした。これほど濃い夏は初めてです」

「うん。でも……楽しかった」


碧水さんの言葉に、部長は頷いて、それからその長髪をちょっとだけ淋しげに靡かせて、俺たちに向き直る。


「私はこれで引退になってしまいますが……。結末は見守っています」


彼女は最後にこう言った。


「託しましたよ、鉄路のこと」


俺は深く頷いた。

部長、そして北竜にも。







_______

 石 狩 東 別いしかりとうべつ

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇦ 石狩太美 ❘ 医療大学 ⇨







石狩月潟いしかりつきがたまでを電車区間に組み込めば、状況は変わります!」


遂に迎えた決死の冬。万全の態勢で臨んだ、JR北と地元との最後の協議。それは、俺たちに与えられた最初で最後のチャンスだった。


「札幌からの電車が月潟つきがたまで来ることになり、多くの人に使って頂けるかと」


碧水さんが俺の言葉を継ぐ。

厳しい寒波が襲う年末、しんしんと冬が降りしきる隣町の東別で、利用者代表として初めて俺と碧水さんの出席が許された。


「月潟までの維持にも、莫大な費用がかかります」


JR側の返し方は変わらない。今回だけじゃない。前回も、前々回も、いいやこの数年、そのスタンスに変わりはない。


「それはわかっています」


拳を握りしめて俯いた。俺たちと現実との間には溝があるのはわかっている。

沿線自治体の東別とうべつ月潟つきがた浦臼うらうす新十津川しんとつかわの4町で夏に何度も協議がなされたけれど、月潟以外の3町は交通に支障がなく、廃止を早々に承認。いまや月潟だけが孤立無援の抵抗を繰り広げている。


「それでも――廃止は、全ての可能性を無にしてしまうんです」


そうだ。決して覆せない逆境じゃない。


「月潟町は札幌近郊に位置し、通勤圏内にあります」


碧水さんが俺の言葉を継ぐと、準備していた資料を出す。


「国と道の支援を仰いで宅地を造成し、移住者を集めれば、沿線の人口増加が見込めます」

「人口増加? この人口減少社会で?」


JR側の切り返しに、息を呑む。


「……月潟町は札幌のベッドタウンとしての可能性が」

「札幌の人口は減少一辺倒なのに?」


たじ、と碧水さんが顎を引く。


「札幌市の人口は増加しているはずです」

「札幌通勤圏の人口は横ばいです。そして、これから減るのです」

「それは予測です。わたしたちの取り組み次第では――」

「ご存じないかもしれませんが」


担当者は言う。


「北海道の人口減少は全国最悪です」


奥歯をかみしめる。そんなこと、知ってるさ。


「全道が急速に過疎化しているのです。本州ないちへの人口流出……札幌とて、そこから逃れることはできますまい」

「……っ」


碧水さんは口を開こうとして、言葉に詰まると目を伏せた。


「それは……っ」


ぐっ、と手に力を込めて、それから息をつく。この交渉は希望ありきの交渉だ。その悲観的な予測を覆すつもりにさせなければ、何も始まらない。


「それ……は」


前提不成立のプランは机上の空論。なら、俺の仕事はJRに「希望」の存在を認めさせること。交渉の椅子に相手を座らせることだ。


「—―諦めるんですか?」


ひとこと、俺は問いかけた。

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