2-2 はまった車輪

 アゾットと出会ったのは十年以上も昔の話。


 それは雨上がりの夕刻でございました。


 とある貴族の宴席にお呼ばれいたしまして、その会場であった郊外の別邸へと向かうため、馬車を走らせておりますと、ガクッと馬車が傾く。


 何事かと車窓を開けて外を眺めますと、馬車の車輪が泥濘ぬかるみにはまってしまい、立ち往生してしまうという不運。


 これでは宴に遅れると困っておりましたところ、たまたま通りかかったのが、アゾットというわけでございます。



「どうかしましたか?」



 これがアゾットが私に向けてきました第一声。


 立ち往生している馬車の横で、困っていた私と御者に話しかけてきました。



「見ての通り、車輪が泥濘にハマってしまってな。抜け出せんのじゃ」



 街中であれば助けもすぐに呼べたのですが、今いるのは郊外へと延びる街道の只中で、しかも夕刻とあって人通りも少ない。


 いやはや、あの時は本当に困り果てたものです。


 しかし、アゾットは冷静で、おまけに機転が利きました。


 そこらに転がっていました倒木を利用したのでございます。


 まず、小さめの木をハマった車輪の下に滑らせ、同時に割と頑丈そうな倒木を馬車の後ろに備え付けました。



「御者の方、俺が後ろから押しますので、馬車を掛け声とともに進ませてください」



 そう言って、馬車の後ろに回り、御者が掛け声とともに馬に鞭を打ちますと、アゾットもまた倒木を利用し、てこ・・の原理を用いて押し出しました。


 するとどうでありましょうか。上手くハマった車輪が泥濘より外れまして、どうにか抜け出せたのでございます。


 思わず私は「おぉ……」という感嘆の言葉が漏れ出しました。



「やれやれ。どうにか軽い遅刻程度で済みそうじゃな」



 思わぬ足止めとなりましたが、どうにか到着できそうだと私は安堵しました。


 そして、馬車を救い上げてくれました少年に、私は笑顔を向け、礼を述べた。



「助かったぞ、少年。名は何と申す?」



「アゾットです」



 はきはきと堂々とした態度は、薄汚れた外見を差し引いても好感が持てるものです。


 機転が利くのもまた良い。


 すぐに私は気に入り、ついつい奮発してやろうかと言う気になってしまいました。



「おお、そうかそうか。では、アゾットとやら、助けてもらって感謝する。何なりと褒美を取らせましょう。何が良い?」



「では、食べ物をください」



「ほう、食べ物とな?」



「はい。妹に腹いっぱい食べさせてやるのが、兄貴としての夢なんで」



 なんとも兄妹愛溢れる答えに、私はますます目の前のアゾット少年を気に入りました。

 

 しかし、今は宴席に向かう途中で、食べ物の持ち合わせがございません。


 ならばと、財布を取り出して、数枚の銀貨を少年に差し出しました。



「アゾットとやら、食べ物を所望しておるが、生憎と今は急ぎの道中ゆえ、どうにかしてやれなくてな。代わりにこれをやろう」



「こ、こんなに、ですか!?」



 まあ、こちらにとっては大した額ではありませんが、庶民の感覚からすればそれなりの額。食べ物を買うのは不自由しないでしょう。


 アゾットは銀貨を受け取り、何度もぺこりと頭を下げてきましたが、まあ、助けてもらった礼としてはささやかなものでございますよ。



「それは手付のようなもの。時期を見て、欲する食べ物とやらをたっぷり持って、お前への妹に届けてやろうではないか」



「そ、そこまでしていただけるのですか! ……いや、その、何の言えばいいのか、御貴族様って、どうにもお高くとまっていると言いますか」



「それはな、お高くとまっているのではない。民草を軽く見ておるだけじゃ。なんでこんな輩に金や労力を出さねばならんのか。へつらわれるのが当然、そう考えておる輩が多いだけじゃよ」



「そうなのですか」



「ケチとかいうのではない。寄り添う、という発想がそもそもないのじゃよ」



 まあ、私は“男爵夫人バロネッサ”を名乗ってはおりますが、一皮むけば“魔女ステレーガ”であり、そして、“娼婦プッターネ”!


 ああ、いやいや、そこは高級娼婦コルティジャーナとした方が適当か。


 そんなわけでして、私は上流階級と下層民、どちらの世界も闊歩できる、稀有な存在でございますからね。



「住んでおる場所を教えておいて。そのうち、食べ物を届けてやるから」



「あ、ありがとうございます!」



 こうして、私はアゾットから住処の場所を聞き、その場はお別れとなりました。


 そして、この出会いが後々に少年が“医の道”を極めていく切っ掛けになったのでございます。

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