54. かつての天使へ


 カレディナの日記には最後の頁に数行、小さな走り書きがある。ナジェスはそれを、ファリオンが閲覧出来る資料には書き写さなかった。

というのも、その走り書きは日記の持ち主であるカレディナの字ではなく、かつての副官・ベリトネールのものだったのだ。


 そもそも天界の文字で書かれたそれを解読出来るのは、地上においてナジェスだけだろう。現に、ファリオンは走り書きから何一つ読み取れなかった。


 ──日記の現物は厳重に保管し、取り出せるのは一人だけ。

長らく仕舞い込んでいたそれは、ディジラウと名乗る女が現れるようになってから、日に日に存在感を増している。


(……どこまでも思い通りにならない女だった)


 ベリトネール。目を閉じて思い出すのは穏やかな日々ではない。大戦の際に見た、怒りや悲しみを内包した戦士の顔。そしてナジェスから流れ出た血を見て絶望に塗れる瞬間。


 永遠に失うかもしれない故郷を背に、ナジェスは「彼女でも泣くのだな」と思うばかりだった。



 ……そこからの毎日は、空虚と呼ぶべき白々しさが顔を並べる。敗戦した連合軍は魔界へ逃れたのだが、ナジェスも例外ではなかった。


 魔界へ踏み込んだ瞬間に知覚したのは、激しい痛み。次いで傷口から瘴気が入り込み、羽根や髪を黒く染め上げる。気付けば聖核は魔核へと変質し、天使だった肉体は悪魔としての変貌を遂げていった。


 ナジェスからすれば聞いたこともない事象であるが、それは“種族変換”と呼称される、通常では起こり得ない「稀なる移ろい」だった。ありふれた堕天などとは、全く違う現象である。


 これは後にわかったことだが、魔界へ踏み込んだ瞬間の痛みは肉体の変質に加え、相反する性質が体の内で暴れまわり、身を焼いていたらしい。

流れ続ける血に魔物たちが群がり、その全てを薙ぎ払っていた当時のナジェスにはどうでも良いことだったが。


 ともかく、魔物たちはナジェスの変質を「魔神が天使を受け入れた」或いは「神から天使を略奪した」とでも解釈したのだろう。厄介なことに魔軍全ての魔力が用いられ、最悪の呪いをかけられた。……魔界から逃れられない呪いを。


 術者を屠ったところで解けない術式。瘴気という魔力供給源は最早魔界にとって永遠である。

ナジェスは半ば諦めと共に「魔王」になった。聖なる力を失い、天上には還れないというのに。


 しかし背筋が冷えたのは、この後のことである。


 地上に現れた魔王。抜かれた血から造られた複製とも呼ぶべき血族。

かの存在を目の当たりにし、かつての呪いは今なお続いているのだと悟った。執念深く執拗で、そして不可解な執着のろい


 あまりにも強力なそれを、さてナジェスはどう振り切ったのか。

それは機械的に魔王をこなしていた頃に遡る。





「ここには秩序が無い」


 あれほど凝り固まった世界は要らないが、自由と無法は違う。混沌に安寧は無し。慣習は魂に根ざす。


 故に、王の秩序下。国はそうして名付けられた。


 役目を作り、義務を果たし、日々を無為に消費するのを嫌う。ナジェスは魔界においても変わり者、異端の悪魔。だからこそ転機は訪れた。


 支配圏を掌握するのは役割の一つ。魔王は僅かな異変に気付き城を抜け出した。

本来自身が赴く必要はない。玉座に在ることだけが魔物たちの望みであるからこそ、彼はそれを踏み躙ったのだ。


 そして見つけた。


「ベルナ」


 どうやって単身、魔界へ乗り込んだのか。発見時既に虫の息だったベリトネールを抱え上げる。

見たところ魔物に襲われた風でもなく、怪我などの外傷は見られない。


「何があった。この苦しみようはなんだ」


 ナジェスは魔法を用いて探ったが、原因は不明。呪い、術式、いずれも該当なし。病といった反応でもない。

では魔界の環境かと言えば、それも違う。瘴気は人族や動物などにとって毒になるが、それは魔力を溜め、魔法として放出する臓器を持たないからだ。


 瘴気、などと仰々しい呼び名をしたところで所詮は魔力の靄である。天使族にしてみればなんら脅威にはならず、吸収すれば力に変換することすら出来る。


「天界を、抜け出したら、私が、連れ戻す。そう、言ったはずだ、ナジェス」

「そんなことは聞いていない。状態の話だ」

「偉そうになったな」

「……偉そうなのではない、偉いのだ」


 馬鹿なことを。ナジェスの変貌を見ても、ベリトネールは動じなかった。ナジェスは呆れと焦燥と、憤りに瞳を揺らす。

一体何のために、どんな思いで、彼女を天界へ置いたまま堕ちて来たと思っているのか。


 だがここでようやく異変に気が付いた。焦点が合っていない。「目を見ろ」と促すが、目線が揺れ続けている。


「……? 何だ、聞こえ、ない」


 体の機能が徐々に失われていく。魔界に呑まれ始めている。いや、奪われている、と言うべきか。

魔力を循環させ、身体機能の回復を図ろうと考えていたが、念話すら通らない。つまり、言葉を認識させ強制的に契約を結ぶことも出来ないということだ。


 残る手段は限られている。ベリトネールの聖核に魔力を流し込み、魔核に変質させる。これにより彼女はナジェスの眷属として魔物に堕ちるが、僅かな葛藤や躊躇などを遥かに凌駕する恐怖があった。


 失いたくはない。だから何も話さずに天界を離れたのだ。だというのに。


「どういう、ことだ」


 ベリトネールには聖核がなかった。彼女が“異端”と呼ばれる理由を、ナジェスはこの時初めて理解したのである。

 衝撃に息すら止まる中、ベリトネールの形が崩れ始め、辺りを清浄な光が照らす。


「何故聖核がない」


 例えば堕天。例えば自身の羽根を切り落とす。そんなことをしたところで、核は無くならない。体内から失われるはずがないのだ。


 体を切り開き、取り出されでもしない限りは。


「聖核が、ないというのなら。今あるお前は一体、なんなのだ」


 核がないのであれば瘴気は当然、毒として作用する。弱っている原因はこれだ。

人間界か、妖精界に逃がすことが出来ればまだ助かる可能性はあるだろう。

 だが魔界へ縛る呪いがあるためナジェスがベリトネールを抱えて転移することは出来ない。転送術では、生命を界渡りさせるほどの術式には至らない。


 自発的にベリトネールが界渡りを行う以外、彼女が助かる方法は無かった。


 ベルナ、ベルナ、ベリトネール。


 魔王だというのに、祈りのような呼びかけだった。どうか無事にここを出てくれという願い。

聴覚を失い聖核もなく、弱った体では念話を受け取ることすら出来ない。


「私の聖核を、は、大戦で滅びた」

「何を、」

「誰かが“ロルスの鍵”を得ようとしている。その足掛かりにされたのだ、は」


 襟元に力なく指がかかる。ベリトネールの意思を汲み、ナジェスは顔を寄せた。

もう声すら囁きのようで、静寂の中でさえ薄れていく。


「阻止しろ」


 ナジェスの声はベリトネールの耳にはもう届かない。それを彼女自身もわかっていたので、一方的に言葉を投げかけ続ける。


「人間界で日記を見つけた。カレディナのものだ」


 そこでナジェスの真意を知った。だからベリトネールは文字通り、その命を懸けたのだ。


「ナジェス」


 もう見えない瞳で、そこにあるであろうナジェスの目を探す。視線は交わらない。


「死ぬなよ、お前は」


 光を帯びていた身体はあっさりと離散した。

腕に抱いていた僅かな重みがなくなり、ナジェスの全身から力が抜ける。彼女の痕跡は、一欠けらすら残らない。


「ベルナ」


 ナジェスが魔界に縛られていたことを、どうやら彼女は知っていたようだ。ベリトネールの光が躍り、道を開く。


 その日、最強と名高い魔王の頬が濡れ、魔力が一気に流れ出た。魔王は振り返らずに魔界を出る。たった一人で。



「これが自由だと言うのか。ベルナ」



 ナジェスが人間界へ降り立ったとき、激しい痛みなどはなかった。しかし、その身は“人族”になっている。

二度目の“種族変換”を前に、ナジェスには何の驚きも感慨もない。


 だが歩く。足を進める。さ迷うように。漂うように。


 ベリトネールの示した道だけが、この世の楔。死ぬなという願いが、彼の新たな呪い。


 ナジェスという生命は、奇跡的な要因が重なり固定された。魔界にある玉座へ戻らない限り、死ぬこともないだろう。

だからこそ人族でありながら寿命はなく、不老。異端と呼ばれていた頃よりも、そして魔王と呼ばれていた時分よりもずっと、化け物のような有様だ。



 それからはひたすら人族……人間としての立ち振る舞いを覚えた。空は飛べない。魔法は使えない。負った傷は中々癒えない。

為ってしまえば人族というのは実に不便な生き物だった。けれど天使や魔物たちより、遥かに御しやすくもある。


 「預言者」と名乗り、立ち回ることを考えたのは自然な流れだった。好都合なことに、人間としての「振る舞い」の違和感を、彼らは神秘として捉える。


 権力者に重宝されるのは一見自由を奪われるように見えるが、要望自体は通りやすい。周囲の時の流れを確認し、時機を見て流れて行く。不死も不老も、彼らには無い特性だからだ。ナジェスはここでも、「同じ」にはなれなかった。




 そんな中変化が現れたのは、つい最近の出来事である。


 赤子が道端に落ちていたので拾い上げたら、いつの間にか父親という認識を周囲から受けた。こうなると孤児院に預けるわけにもいかず、渋々ファリオンと名付ける。

その子供は中々に外面も良く、「しっかりしたお子さん」扱いを受けていたので、世間が言うほど手はかからなかった。


 丁度拠点を変え続けるのにも、限界が来ていたところだ。ファリオンを弟子ということにして基盤を作り、そのまま「継承」という形を取れば定住も可能である。

ファリオンは「預言者の弟子」を名乗るのに最後まで抵抗を示し、自身は「考古学者」になりたいのだと主張していたのだが、願望に付け込む形となった。年端もいかない子供を転がすなど、簡単なことである。


 まず、弟子としての振る舞いで得られる物を一つずつ上げる。

一つ、通常であれば閲覧出来ないような貴重な書物が読めること。一つ、権力者に繋ぎがあれば発掘された遺物が集まりやすくなること。一つ、何より報酬が高いため、私財を自由に、それこそ研究費として運用出来ること。


 素直、とは程遠い態度だったが、呻きと共に渋々了承を取った。しかし、そこからの副産物は凄まじく、ナジェスですら予測出来ないことが起きたのだ。


 ファリオンは、遺跡探索に同行し、カレディナの日記を発見したのである。ベリトネールの加護に守られ、隠されていた日記を。


 ナジェスだけでは決してなし得ないことだった。何せ、過去の遺物などに興味はない。現在を生きているという自負、そして時間感覚の違いから、ベリトネールやカレディナを「過去」として捉えていなかったのだ。


 ファリオンはその後もあらゆる資料を貪欲に読み込み、吸収し、その過程で日記を何度も読み返した。その内、日記に書かれた「ナジェス」が目の前に居ると悟る。

このときのファリオンの動揺は、ナジェスが珍しく声を上げて笑う程に大きかった。


 そう。ファリオンが「大戦」を実際にあった出来事だ、と認識しているのはこのためだ。カレディナの日記でなく、ナジェスの存在そのものが証左だと捉えている。


 唯一ナジェスの素顔を知っているファリオンは、いつまでも歳を取らない姿や、時折混ざる「人ならざる者の価値観」とやらを垣間見、最早ナジェスがかつて天使であったことを疑わない。


 勿論研究職に就きたかった、と言うだけあって客観的事実を繋ぎ合わせ、立証していく過程を疎かにはしない。大前提として多くの研究者と違い、仮説を立てるわけではなく事実や結果から逆算して理論を構築しているのだ。


「人族はどうも、天使という存在を誤解しているようだ」


 妄信と言うべきか。天使はカミサマに仕える徒である。故に、全能感やら万能感やらを勝手に見出している節があった。

それは信仰の篤さなどに関係なく、ほぼ全ての人間がそうだった、と感じる。例えば。



 ナジェスは顔を上げ、カレディナ監獄塔が建つ方向に目を向けた。



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