34. 真相
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
呻きによく似た低い唸り。喉を震わせながら放たれるそれに、すっかり辺りは凍りつく。それはさながら獣のような、理性無き声だった。
木々は息を潜めて気配を殺し、動物たちは一目散に逃げ出す。踏み荒らされた花や草は、悲痛の面持ちのままソレが過ぎ去るのをジッと待っていた。
枝葉の間に隠れ、森の様子を観察していたエルフの眉間にグッと力が籠る。突如として地上に放たれた「ナニカ」は苦悶の表情で地面をのたうち回っていた。その形相は「どんな化け物よりも恐ろしい」と森の生き物たちは身を震わせる。
ソレは人型の生き物だった。よくよく見れば年齢は若いようで、性別は男のようだ。
ただ普通の人族とは様子が違う。歯茎を剝き出しにして唸り続け、垂れ続ける唾液を拭う素振りも見られない。顔面や首筋には血管が浮き上がっており、白目のまま爪の剥がれた指で地面を抉る。
魔力は、感じる。であれば魔に属する生き物なのだろうが
「ガァァ……!!」
ソレの意識は混濁しきっており、意味不明な言葉ばかりが咆哮として響き渡る。それでもエルフが辛うじて聞き取れたのは、拒絶や深い恨みの言葉だった。
先日森に入り込んだ四体の“穢れ”など最早何の問題にもならない。桁違いの強い怨念と瘴気が時間と共に膨れ上がっている。エルフは距離を取っていてもなおジリジリと肌を焼かれ、僅かに身じろいだ。
『気分はどうだ、新造の魔物クン』
『こんなことに耐えられるのは、君みたいなモノだけなのだよ。何、化け物のことなど誰も憐れみはしない。存分に役立ってくれたまえ』
『そう、扉を開くのは私なのだ』
ナニカの脳裏には、高らかに笑う男の姿が見えた。時系列はめちゃくちゃだが、今まさに目の前に存在しているかのような錯覚がする。ナニカは必死で腕を振り回し、男の像を追い払おうとした。しかし頭の中で繰り返される記憶が、それで無くなるわけもない。
次の瞬間、ニタニタと嫌な笑みを浮かべていた男の表情が一変する。
『何故失敗した!』
記憶の中のナニカと、現実のナニカの肩が同時に大きく揺れた。明らかな叱責の声が、ナニカを責め立て続けている。
『転魂の儀は完了したはず。お前に前世の記憶が戻らないのは一体どういうことだ』
乱暴に髪を引っ張られ、顔を上げさせられた。どういうことだも何も、ナニカには男が何を言っているのかさっぱりわからない。怯えるナニカに対し、男は怒鳴り続けるばかり。
『いや待て。お前、その眼は……。はっハハハ! ハハハハハハハ! やった、やったぞ!』
ナニカの脳裏にこびりついた声。首を振ろうが耳を塞ごうが男の声はいつまでもいつまでも追いかけて来る。
断片的な記憶の中で、男は嗤ったり怒ったり悩んだり悲しんでみせたりと忙しい。ただどんな顔をしていようが、ナニカを人としては扱わなかった。
誰か、誰か。ナニカは常に誰かに助けを求めていた。縋るように、祈るように、救い出されることを待っていた。
(誰か、誰か、誰か誰か誰か誰か誰か)
ナニカに異変が起きたのはそんな時だ。
『兄上』
ナニカの喉からそんな言葉が聞こえて来た。僅かに残っていた理性が「自分に兄など居ない」と否定する。けれどまた再び「兄上」と腹から声が湧き上がる。それは慈しみと温かみのある声だった。
やがてはっきりと映像が浮かび上がる。これまでの断片的なものとは違い、擦り切れてもおらず鮮明だ。ナニカはずっと待っていた。「兄上」をずっとずっと待っていた。
『兄上』
誰か、とナニカが渇望していたときの声によく似ている。絶望に音をつけるのなら、きっとこんな響きなのだろう。
人型のマモノが兄上と口にする度、柔らかだった目元は鋭く形を変え、徐々に憎悪に身を滾らせ始めた。マモノは既に、兄を憎んでいた。
『約束は違えぬと。貴方は仰った』
それなのに。
ナニカとマモノがゆっくりと重なって行く。瞬きをした瞬間景色は一変していた。
兄を探して咆哮を上げるマモノ。焼けた空に白い羽根。刃に身を切られ、それでも飛び、魔法で撃たれ、それでも飛び続けた。
傷口から聖なる気が満ちていき、やがて毒のように体を蝕む。目の前の天使に退けと叫び、鮮血が羽根と共に散った。四方向から同時、四体の天使に刺し抜かれ、マモノは地に向け落ちて行く。
『兄上』
一目その姿を見ることが出来たなら。魔物は文句を言ってやるつもりだった。
約束を破ったな、私に嘘を吐いたな。俺を裏切ったな。
『兄上、兄上兄上兄上!!』
マモノの兄は天使だった。けれど自分を討った中に、兄は居ない。何故兄は居ないのだ。どうしてどこにも居ないのだ。首を巡らせ目を凝らし、兄の姿を探す。
(どこに、どこ。兄上)
その場で絶命したマモノは、例にもれず転生を果たした。魂は門を潜って巡り続ける。どんなものであっても命を終えれば再び始まるのがこの世界の理なのだから。
ナニカは再び吠えた。呼び覚まされた憎悪が喉から外へ飛び出して行く。
「兄上」
何故と問わなければならない。答えを知らなければ。
走り去るナニカをエルフはただ見送った。妖精には到底近寄れるものではない。
戦闘になることを想定し、構えていた弓をゆっくりと下ろした。接敵した場合どちらが敗北するのか、エルフにはよくわかっている。
ナニカは、騎士たちの言うような“悪魔”ではない。人型の魔族でもない。けれど魔に属する者ではある。分析を進めたエルフは奥歯を強く鳴らした。
器は人間のものなのに、彼は“魔核”を有している。
ナニカの存在を察知した魔物や動物たちが「よくわからない」と形容したのはこれが理由だった。彼は、本来の人族ではあり得ない在り方をしている。
エルフは精霊に事の詳細を伝えるため移動を始めた。けれどそのまま去ることはせず一度だけ振り返り、聳える塔を見やる。
ナニカが向かったその場所は、「監獄塔」と呼ばれていた。
◇◆◇
夕食を終え、就寝時間が過ぎた頃。普段はそのまま眠り疑似空間へ降りて行くのだが、今日はキサラの代わりに“声”が呼ばれることになっている。
一体ナキアはどんな魔法を使うのだろう?
気になり始めると中々寝付くことが出来ず、キサラは何度も寝返りを繰り返していた。そんな時だ。
「文字を書けるというのは君のことか」
不意に牢の外から声がかけられた。キサラは跳ね上がるようにして飛び起きた。正面には眼光鋭い男が一人。その風貌に一瞬喉がヒュッと鳴ってしまったが、よくよく見ればそれはバルセルゲン・ハドロニアである。
「どうして、いえ、どうやって外に。それに何故僕が文字を書けると知っているんですか」
確かに文字の読み書きが出来るという話はしたが、それはこの牢の中での会話だ。労働時間ならともかく、バルセルゲンが知るはずもない。
「時間が無い。君だけ牢から出てもらう」
「俺では駄目なのか」
「……字は」
「書けるには書ける。……いや、少しだけだな」
「では駄目だ。やはりその少年に来てもらう」
「アンタの目的はなんだ」
「全て話す。しかしそれは今ではない」
寝入っていたはずのテイザは、どうやらキサラの動きで起きたようだった。素早く会話に割り込むが、バルセルゲンの意思は固い。
「もしも脱走を期待しているのであれば否定しよう。用が済めばまたここへ戻るだけだ」
「危険がないという保証は」
「これでも元は騎士なのだ。立ち回りの心得くらいはある」
「確かアンタはハドロンの槍、だったな。事情があるなら目を瞑るが、弟に怪我をさせたら許さない」
「弟?」
バルセルゲンはテイザとキサラの顔を交互に見分し、ごく小さな声で「そうか」と呟いた。顔に「似ていない」と書いてある。
ふぅ、と頭を一つ振り、バルセルゲンは手早く牢を開錠した。キサラだけ出るよう促して鍵を閉めると、テイザに「約束しよう」と力強く告げる。
「鍵、ハドロニア様が持っていたんですね」
身振りだけで後に続くよう指示が出る。それ以上キサラは何も聞けずその場を離れた。
「ここまで来れば多少話をしても問題ない。先程の口振りからして、看守が鍵の管理をしていないと知っていたのだな」
「まさかハドロニア様が持っていたとは思いませんでした。どうして鍵があるのに牢から出ないのですか」
「人質を取られた。私だけ自由になることは出来ない」
バルセルゲンは気配や足音を隠すのに長けていた。しかしその足運びは素早く、体格差や体力の違いから、キサラは付いて行くのがやっとだった。
「もしかして時間が無いというのは、その人質と何か関係が?」
「いや、私が君を連れ出したのはほとんど衝動に近い」
「衝動? だったら、僕は何をしたら良いのですか」
「巻き込んだことは済まないと思う。だが、私以外の人間から密告があればどうなると思う。少なくとも人質に害は及ぶまい」
「ま、まさか僕に騎士様の告発をしろと?」
「――その通りだ」
確かに、告発や嘆願は一つの手段ではある。実際にキサラもそれをしようと考えたが、ドクドクと変に鼓動の音が聞こえてきた。緊張なのか、それとも恐怖なのか。足を進める度に震えが登って来るのを感じる。
「連名でなければ効力はない、と思います。僕は所詮、素性も知れぬ旅人ですから」
「何も正直に名を出す必要はない。告発とは、匿名の書状であっても無視出来るモノではないのだ」
「む、無理です。僕はただ字を書けるだけで、それなら、他にも探せば居るんじゃないですか」
「いいや、ここへ連行される中に商人や貴族は居ない。文字を書ける者は貴重なのだ。特にこのような地方ではな」
「……対象を絞る要素は年齢だけではなかったんですね」
「それも勘付いていたか。そうとも、ここに来るのは平民に限られる。偶然に通りがかっただけの君には悪いのだが、これも運命だと受け入れて欲しい。私から用意出来る報酬は“自由”だ。騎士の剣に懸けて誓おう」
牢を出てからどのくらい歩いただろう。階段を上がり、かと思えば下り、通路を曲がる。
複雑な順路を進み方向感覚を失った頃、バルセルゲンの足が止まった。
それは奥まった場所にあり、普通に歩いていただけならその部屋の存在に気が付かなかっただろう。扉もなく、ただぽっかりと開いた通路がある。
「現在は看守や見張りのほとんどが傭兵だ。文字を読めず、意味を理解しない。そのため本や手記に興味を示す者はひとりも居ない。万が一ここが見つかったとして、何が記されているかわかりもしないはずだ。……しかし、君はどうだ」
通路の奥に隠された部屋には、天井に迫る程背の高い本棚が並んでいた。机の上や床の上にまで積み上げられた書類や本の山。
分厚い背表紙ばかりが並ぶ本棚の一つ。近くで見て見れば分類別に整理されていることがわかった。魔物に関する本、退治の仕方や瘴気を発生させない死体処理の手順について。
一際目立つ黒い本の背表紙を撫でつけながら、その表題に小さな悲鳴を上げた。
「悪魔の召喚」
「本当に読めるのか。君は商人の子か? それとも貴族籍の人間か」
「いいえ、本当にただの平民です」
「いや、すまない。今は君が何者でも構わないのだ」
分厚く製本された覚書を引っ張り出し、バルセルゲンは机の上に広げた。続いて用紙を置くと、横にペンとインクを並べる。まさに勝手知ったる、だ。
どうやら告発文を書くにあたって、平民の不当な拘束では「足りない」らしい。事の一端を理解しろと分厚い手記を差し出される。
「この中には中央塔の真実が書かれている」
「つまりここに書いてある内容を書き写せば良いんですね」
「その通りだ。監視が私の不在を悟ればすぐにでも兵がここへ差し向けられ、作戦は失敗に終わる。そのため私は一度牢へ戻るが、朝食の時間を終えたら迎えに来よう。君はそれまでに」
「仕事を終わらせます」
「よろしい」
キサラの頭をくしゃりと撫で、バルセルゲンは部屋を出て行った。キサラはすぐに手記を開き、中に目を通していく。これだけの内容なので、重要な箇所を抜粋しなければ時間内に収まらない。
その手記は、悪魔の召喚手順から始まった。本棚にあった本からの引用と、独自の考察が書き記してある。目的に対しどの召喚方法が適しているかなど、試行錯誤を繰り返す様子が窺えた。
「本当に悪魔を召喚していたんだ」
召喚士が騎士として招集されること自体は大して珍しくもないが、剣や武術を鍛え騎士になった者と召喚士の間には溝があると聞く。騎士にとって魔物は討伐対象であるために、使役するなどもっての外、という意見なのだろう。
だというのに召喚士でもない騎士の一部が魔物召喚を繰り返している。一体何故。
「まさか」
手記を読み進めるうち、書き手の意図が透けて見えるようになってきた。キサラの手が徐々に震え、急速に喉が渇いていく。
手記の中にはこの監獄塔のことについても書かれていた。中央塔は一部の人間の間で「聖魔塔」と呼ばれていること。由来は地下にあるということ。
中央塔の地下には部屋があり、魔法陣が設置されている。それも「対象から魔力を奪うことで永続的に展開される魔法陣」。だから魔を弱らせる効果があるというのだ。
聖魔塔の聖魔とは、魔を浄化する陣。これを聖なるものと見立てて名付けられたようである。
そして魔力とは、魔物にとって生命力そのものだ。魔素を取り込み魔力に変換、魔法として放出出来るのだとか。
魔物には“魔核”と呼ばれる器官が体内に存在しており、その魔核によって魔素を魔力に変換、体に巡らせることが出来る。
そのため魔物の討伐時に徹底されるのは「魔核を狙う」こと。魔核を潰せば魔法が使えなくなるのが騎士たちの戦いにおける常識であり、そこから着想を得たと書いてある。
しかしこの魔核の仕組みを理解するまで一体どれだけの魔物たちが「実験」に「使われた」のか。目玉の解剖図や、魔核の開かれた図なども書き記されている。
キサラは気分が悪くなり、思わず口元を手で覆った。書き手はとんでもない構想を描き、実行に移したのだ。
聖魔の由来となった魔法陣の中に魔物を召喚し、消耗させる。そうして弱ったところで人間の体に癒着させ、「魔法使用が可能」な人間を生成するというのだ。これを魔人と命名し、「魔人製造」の計画が延々と書き連ねられている。
──魔物から魔核を奪い取り、人間へ移植する。そうして出来た魔物、それが魔人である。
「あり得ない」
つまりは人造の悪魔だ。魔女や召喚士といった形ではなく、自身が魔物に成り果てることで魔法を展開する。契約に縛られない力の行使。これが目指す場所であるらしかった。
パラ、と頁を捲る音がやけに大きく聞こえる。魔核を奪う「実験」が延々と記されていた。
数多くの失敗が詳細に、そして生々しく書かれている。「廃棄」の項目には悪魔のみならず人間も含まれているようだった。
「どうしてこんなこと」
騎士たちの追っていた「悪魔」とは。
悪魔であることを疑われた者が集められた中央塔。対象は若い男、それも平民ばかり。魔核を奪う実験が繰り返され、それを人間に癒着させる「手術」も行われていた。
失敗、失敗、失敗、破棄。並ぶ言葉に知らずキサラの息が上がっていく。指が震えるせいで上手く頁が捲れない。
やっとのことで開かれた項目。目に飛び込んで来た記述は。
【成功】
魔人は完成してしまったのだ。騎士たちが追っていたのは逃げ出した「個体」。つまりこのことを一部の騎士は知っていたのだろう。この実験、そして犠牲になった人間のことを。
「ハドロニア様」
彼はこの事態に気付いていたが囚われた。何故ならば完成した唯一の魔人こそがバルセルゲン・ハドロニアの一人息子だったから。
被検体と記された少年はまさに彼の子供であると記されている。手記の持ち主は、誉れ高い騎士の血筋に期待を寄せていた。
経緯こそ不明だが、バルセルゲンは何らかの形で息子を人質に取られた。抵抗すれば魔人は殺されるだろう。それも悪魔として。
殺されてしまえば最後、それが元々悪魔だったのか魔核を移された人間だったのかなどわかるはずもない。
一体、これが記されてからどれだけの月日が流れたのだろう。魔人となったバルセルゲンの息子、成功とされた「彼」には尚も実験が行われ続けた。
魔物にすることでも人の子にすることでもない。生命に対し、行われるべきことではない。
好奇心と知識欲を盾に振るわれた暴力的なまでの「実験」。キサラはその先を読む気にはなれなかった。
騎士による魔物召喚、被検体への「実験」。魔人と呼ばれるおぞましい異形の構想と、「完成品」に加えられた心無き行いを一心不乱に書き殴っていく。勿論詳しい製法などは流出しないように避けて記した。
最早手がインクで汚れていくことなど、気にならない。
そもそも騎士たちが若い男を手当たり次第集めていたのは、魔人が逃げ出した際誰もその顔を覚えていなかったからだ。誰一人、顔も、体型も、背格好も、髪の色も目の色も覚えていなかった。ただ実験のための個体としてしか見ていなかったから。
だから「若い男」だった。年齢が近ければそれだけで中央塔に押し込める。どれが魔人なのか彼らにはわからないから。
書き終えた瞬間、机を離れて呼吸を整えた。気持ちばかりが急いている。
早く見つけなければ、彼を保護しなければ。殺されてしまう、だから騎士が一人も居ないのか?
インクが乾いた頃を見計らい、卓上にあった封筒へ入れた。封をした書状を持ち、身を隠そうとした瞬間。
「何をしている!!」
すぐ近くで上がった怒声に、肩が揺れた。
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