シーン10 [アオシマ]
ぼくはノートのページをめくると中央にY先生の名前を書いた。マインドマップを作り始める。作家と作品のアイディアをまとめる時のように、自由な会話からキーワードを見つけ、並べ、繋げていくことにした。
我那覇さんはY先生について思い出したことをポストイットにメモしていく。とにかくメモを書けるだけ書いて、使えそうなものはノートに残すというやり方だ。
夕暮れ時の会議室にぼくたち二人の影が長く伸びている。亡霊の注文を世に出す前の、企画書を詰めていた時のことが胸によぎった。
企画会議の時も今回も、作業手順は一緒だ。紆余曲折あったが、ぼくたちは結局二人でこの作業をすることになったのだ。
ただ一つ違うことがあるとすれば、ぼくは脚本の穴、プロットホールを探すような必死さで「Y先生が『ファントム・オーダー』の本当の作者である」という点の穴を探すのだ。それも我那覇さんに気づかれないように。
プロットホールを見つけることができ、すべてが我那覇さんの妄想であることが確信できれば、ぼくは安心して眠ることができる。安心して我那覇さんとの捜索ごっこに付き合っていられる。多少の奇行に振り回されても、着地点が妄想なのならば安いものだ。
状況を受け入れてさえしまえば、あとは楽だった。
共犯者と思えば、我那覇さんへもある種独特の親しみさえ感じる。
ぼくたちの気持ちがわかるのは、ぼくたち二人しかいないのだ。
ぼくは言う。
「Y先生の名前で検索したら帝大の総合文化研究科の年報が見つかりました。今、取り寄せている最中です」
「その年報ならすでにわたしが持っています。ヴァルター・ベンヤミンのアウラと肖像写真について書かれた論文が載っています。写真、ひいては複製技術と創作物にかかわる論考で、複製可能なものにアウラはあるのか? という問いについて書かれています。アウラは知っていますね? オカルト用語として定着しているオーラと語源を同じくするものです。アウラとは受け手の中に喚起される、他人と共有不可能な私的な感覚に対して名付けられた言葉です。……話していて気づきましたが、今の状況に関係しますね。わたしたちの作品にアウラはあるのでしょうか。面白い問いだと思いませんか?」
「当事者じゃなければ面白いと感じたと思います」
ぼくは唇を尖らせつつヴァルター・ベンヤミン、アウラ、肖像写真とノートに書く。
「論文を取り寄せる時に気づきましたが、登録されている共同研究者が六人います。我那覇さんはそちらにコンタクトをとってみましたか?」
「いいえ。しかしなるほど、その線で探すのはやってませんでした。よろしくお願いします」
「どう名乗ってお話を伺えばよいでしょうか」
「かつての生徒とでも名乗ればよいのではないでしょうか。共同研究者が会っていただけるなら、わたしも同席したいです。若いころの先生のお話を聞くのも楽しそうですし」
ぼくは思いついた質問を口にするのを一瞬ためらったが、必要なことだと思い直して質問した。
「……失礼かと思いますが、我那覇さんはY先生と恋愛関係にあったとかではないのですね?」
「それはありません。Y先生は男ですし、わたしも男です。わたしは妻を愛していますし、今までのところヘテロセクシャルです。先生の作品に出てくるナカムラ・ロビンのように十五%ゲイということもありません」
「ではどうして、こんなことをしてまで人探しをしようとしたんですか」
「……素晴らしい作品を読み、この物語を多くの人に伝えたいと思う。時には伝える義務があるとすら思う。その気持ちは編集者なら覚えがあるのではありませんか」
ぼくは答えられない。その気持ち自体には覚えがあったからだ。
「わたしもいつか先生がこの作品を世に出してくれると思って待ちました。ですが、十八年待ってもその兆しはない。先生はわたしより十三歳年上です。そうこうしているうちに先生が亡くなってしまうこともありえる。作家の道をあきらめている可能性も高い。わたしは焦り始めました。出版に関わる仕事はしていなかったので、わたしには多くの人に作品を届けさせるための組織、ノウハウなどがなかった。そこで今回の計画を立てたのです」
「……なるほど。まったく共感はしませんが理解はできました」
嘘だった。理解どころか、共感をしてしまっている自分に気づいた。盗作だと知るまで、ぼくは『ファントム・オーダー』こそ自分の手掛けた代表作になると思って、異常な量の仕事をしていた。傑作に出会った興奮がぼくを突き動かしていた。一線を越えてはいないものの、それ以外は今の我那覇さんと同じなのだ。
「アオシマくんを巻き込んで申し訳ないと思っています。もっとうまいやり方があったのではないかという後悔もあります。もう引き返すことはできませんが……」
我那覇さんはそこで言葉を切った。訊くべきかどうかを悩んでいるようだったが、結局口にすることにしたようだ。
「仮定の質問で申し訳ないのですが、本を作り始める前に真相を告げたら、先生を探すのに付き合ってくれましたか?」
「それはないと思います。編集者としての仕事の範囲を超えているので……」
「今はどう違いますか?」
難しい質問だ。今のぼくは自分の被害が小さくなることを目指して行動している。ここまで来てしまった以上、探し出すのが最善だから、としか答えられない。
「……『ファントム・オーダー』が大ヒットとなったので編集者としての評価が上がりました。だから……得たものを失いたくない、という打算はあります。ヒットしたという結果を見たから動いているというのもあります。これまで自分の目を信じて作品を見てきたつもりでしたが、……自分が思う以上に、世間からの評価による影響を自分が受けるのだなと、認めざるを得ないですね」
つまり、結果的に我那覇さんはぼくが動かざるを得ないベストなタイミングを選択した。しかしそのせいで協力関係となった今でも、ぼくと我那覇さんの間には、わだかまりがある。あんな理不尽なことをしなければ、と思う一方で、そうしなければ『ファントム・オーダー』が日の目を見ることはなかっただろうということは理解できるのだ。
ぼくは我那覇さんの持っているメモに目を落とした。銭湯と鎖骨と書いたが、取り消し線を引いて丸めてあるものだ。
「これはなんです?」
「これはつまらない話です」
「教えてください」
「……気が進みません」
引き下がるわけにはいかない。些細な話からプロットホールが見つかるかも知れないのだ。
「言ってください」
我那覇さんは話した。要約すると、Y先生が鎖骨を骨折した折、一人ではコルセットの着脱ができないため、Y先生を慕う生徒達で交代制でY先生を銭湯に連れて行ったことがある、というエピソードだった。
「本当に恋愛関係などは……」
「ありません」
「教師と生徒の関係を越えているとは思いませんでしたか?」
「越えていました。わたしたちの間には友情がありました。人と人の絆はそのように立場を越えることがあるものだと理解しています。たとえば『ファントム・オーダー』の出版前では、わたしはある種同じような、友情のようなものをアオシマくんに対しても感じていました。もちろん、計画を黙っていることの罪悪感もありましたが……」
我那覇さんはぼくの目をじっと見てくる。ぼくは視線を逸らした。
「……ほかの生徒の連絡先ってありませんか?」
「うーん。サイトウくんが連絡つきます。が、彼も先生の連絡先を知りません。二年前に確認済みです」
「それでも連絡先を教えてください」
「どうしてですか?」
「そのサイトウさんと話してるうちに、なんらかの糸口が見えるかも知れないからです。どんな方ですか?」
これは半分だけ本当。ぼくは我那覇さんの学生時代を調べたいのだ。たとえY先生の居場所に繋がらなくても、Y先生と我那覇さんの関係を探ることはできそうだと思った。
「サイトウくんは論理学の授業内ディベートトーナメントで優勝し、先生とディベート対決をしていました。とは言え、何か有益な情報が得られるとは思いませんが……」
ぼくはサイトウくん、とノートに書き、我那覇さんから聞いた電話番号を隣に書く。
ヴァルター・ベンヤミン、肖像写真と書いたメモを見る。
「ベンヤミンと言えば写真ですね。そうそう、アルバムに先生の写真もあります。フィルムは失われてしまったのでプリントしたものしかありませんが。写真をスマホで撮影したデータを送りますので持っていてください」
ぼくは写真データもらう、とノートに書き、チェックボックスを隣に書いた。
「わたしが先生と出会ったのは、先生が大学の非常勤講師の頃です。Y先生は確か田園調布のあたりで家庭教師のバイトも並行して行っていたはずです。そのルートで探すのもよいかもしれません。二〇〇四年の頃です」
ぼくは家庭教師、田園調布付近、二〇〇四年、とノートに書く。職場の情報や他のY先生を知る人物の情報を得られたのは大きい。論文を検索した時に、Y先生なる人物が実在することは分かったのだが、その人が我那覇さんと個人的な関係を持ち、『ファントム・オーダー』を書いた人物なのかはまだわからなかった。
「家庭教師のツテで、大使館でのパーティで通訳を行ったこともあるとおっしゃっていました。先生は英語、ドイツ語、日本語を話せるはずです。どの国の大使館かは忘れてしまいましたが……」
大使館(ドイツ語+英語)とメモする。しかし、大使館に尋ねて答えてもらえるものだろうか……これは無理な気がする。
「外国語で思い出しましたが、わたしの大学卒業のタイミングで一緒に旅行に行きました。と言っても現地集合で数日一緒に行動という感じでしたが。面白かったエピソードもありますが、これも捜索には関係ないと思います……」
「なんでもいいです。話してください」
我那覇さんは、わかりましたと言うと長い話を語り始めた。
「先生とわたしはイタリアのシエナという町で合流しました。先生とカンポ広場でおちあい、駅前で、ランチが十ユーロという看板を見てホテルのレストランに向かいました。レストランに着くと、なぜかウェイターから日本人か? と質問をされました。イエスと答えて席に案内されると、料理を頼んでもいないのに食事が出てきました。スープ、サラダ、パスタと出てきて四皿目が肉料理だった時にわたしたちは動揺しはじめました。
『先生、なにかおかしいですよ。十ユーロにしては料理が豪華すぎませんか?』
『僕もそう思った。そしてついさっきお店に入ってきた日本人カップルとそのガイドが、ウェイターと少し口論していたのを見た。この二つが繋がって一つの仮説が僕の頭の中にある。つまり、僕たちが食べているこの料理は本来彼らのハネムーン旅行の料理だったのではないか、というものだ。思えばウェイターの、日本人か? という質問も変だった。……迂闊だったな』
『すごく怖いんですけど、どう切り抜けましょうか。実はぼく、手持ちのお金が少なくなってて……』
『おっと。僕のほうこそ、きみに少し借りられないか考えていた』
『あ、じゃあぼくはカード使います。それで当面はなんとかなると思います』
『では最終手段はそれでいこう。しかし、我々は十ユーロという看板を見てきた。勘違いしたのはレストラン側の不手際なので我々は十ユーロしか払わない。この線で押そう』
『先生の論理学の腕の見せ所ですね。お任せします』
『任せてくれ』
『このお肉はどうしましょう』
『おいしく食べよう』
『ドキドキして味わかんないです』
『僕もだ』」
我那覇さんはそこまで言うと懐かしむように少し微笑んだ。話すことで記憶が鮮明に蘇ったのだろう。視線はぼくの方を向いているが、焦点が遠く心は思い出の中を彷徨っている。
「それでどうなったんですか」
ぼくは先を促した。
「わたしたちの料理は肉料理で打ち切りでした。セットについていたはずのコーヒーなども出て来ませんでした。幸いなことに、支払いは十ユーロで済みました。そして日本人カップルには同じ料理が運ばれてきていました。きっとあの二人には最後まで料理が提供されたのだと思います。……やはり本当にただの旅行の思い出ですね。先生を探すヒントにはなりません」
我那覇さんは話し疲れたのか少し黙った。打ち合わせを始めてから二時間が経過していた。
捜索に繋がりそうな情報もあったが、そうではない情報も多かった。我那覇さんとY先生のエピソードにはリアリティがあり、Y先生なる人物が本当に居たようだと思わせる力があった。
これが作家の力なのだろうか。
ぼくはプロットホールを見つけようとする努力を諦めそうになる。今、目の前にいる人物が、ある種の友情のために恩師を探そうとすべてを投げうっているように見えてくる。その姿は『ファントム・オーダー』のロビンにも重なるところが……いやいやいや。
ぼくはかぶりを振って考え直した。
もし我那覇さんの言うことが真実なら、この人は作家ではなく、詐欺師なのだ。短編の賞に辛うじて引っかかる程度の筆力を持った詐欺師。
一方、我那覇さんの言うことが真実でないならば、我那覇さんは妄想に取り憑かれたベストセラー作家となる。
詐欺師と、正気を失ったベストセラー作家、どちらがマシだろう。
頭がくらくらしてきた。今日は朝から頭を使いすぎた。吐く息が重い。疲労と不安が蓄積しているのを感じた。
「今回はこんなものかな」
ぼくは平静を装って言い、ノートを閉じた。
「探偵の費用に経費が使えないか、社内的なタテツケを考えます。探偵、共同研究者、家庭教師、サイトウさんの四面展開で進めましょう。写真は家に帰ったらすぐに送ってください。共同研究者には今日中にメールを出しておきます」
「わかりました。それではよろしくお願いします」
我那覇さんは頭を下げた。
ぼくはいつものように「こちらこそよろしくお願いします」と言うことができなかった。何か場にそぐわないような予感がぼくの口を閉ざした。曖昧に頷くと、会議室のあかりを落とし、外へと出た。ドアを閉める時の金属の擦過音が必要以上に大きく聞こえた気がした。
建物から出ると、日はすっかり暮れ、街路樹のシルエットが薄暗い空を背景に浮かび上がっている。街は深さを増していく紺に染まっていた。
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