反転
萩谷章
反転
俊之が美代と交際を始めてから二年になる。美代からの告白を受け、もともと気になる存在として彼女を意識していた俊之が、喜んで承諾した形であった。
付き合い始めて俊之が気づいたのは、美代が左利きであるということ。世間には右利きが多いなか、珍しく左手で物事をこなす美代が、俊之には特別な存在に見え、自慢したくなるほど好きだった。しかし、世の中の多くは右利き向けに作られているため、美代にとっては不便なことも多いようだった。ときどき不便そうにあたふたしている美代が、俊之は可愛くてたまらなかった。
二人が手をつなぐときは、決まって俊之が左に立ち、美代が右に立つ。こうすると、互いが互いの利き手を握ることになり、宙ぶらりんになるのは「まともに扱えない手」である。あえて不自由な立ち位置にすることで、俊之は「二人で一緒にいる」感覚を楽しんでいた。美代も同じように思っていたかどうかは、彼には分からない。何にせよ、俊之は左利きという特徴を持った美代がこの上なく好きだったのである。
その日も二人はいつもと同じように手をつなぎ、年末に向けてにぎやかさを増す街のなかを歩いていた。美代が心待ちにしていた、美術館の特別展に向かっていた。やがて美術館に着き、二人は展示作品に関して意見を交わしながら二時間ほど鑑賞した。
「誘ってくれてありがとう。いいものが見られたよ」
「私の方こそ、一緒に来てくれてありがとう。おかげで、俊之のいい意見が聞けたわ」
「それならよかった」
冬の昼は短く、二人が美術館を出る頃には夜の一歩手前という暗さであった。
「夕飯、食べて帰ろうか」
「そうしましょう」
二人は帰りながら店を探した。途中に美代が以前から気になっていたというイタリアンレストランを見つけ、そこに入った。二人は料理に加えてワインを頼み、鑑賞してきた特別展の感想を改めて言いあった。乾杯のときも美代は左手でグラスを持ち、ナイフやフォークを持つのも全て俊之と逆だった。向かいあって座っているため、ちょうど鏡に映ったようになっている。その何ともいえない異質さが、美代が左利きであることを俊之に知らせてくれる。彼は幸せな夕食を楽しんだ。
ほろ酔い状態で頬を赤くしている美代の左手は、俊之の右手をいつも以上に強く握った。そのせいか、美代の手が持つ温かさは俊之の冷えた手を温め、冬の夜に吹く鋭い風すら何ともなかった。
「手、温かいね」
「お酒が入ってるからね。俊之こそ、色白の手がほんのり赤くなってるわ」
「そう言われると少し恥ずかしいね」
「そうだ、『手』で思い出したわ」
美代は満面の笑みを俊之に見せてそう言った。その愛らしさに、俊之は卒倒しそうになった。彼は全身が熱くなるのを感じたが、酒がまわってきたのか、美代のせいか、どちらかは判然としなかった。
「どうしたのさ」
「私ね、右手が使えるようになったのよ。一生懸命訓練したの。俊之に内緒でね」
美代は、宙ぶらりんになっていた右手を俊之の顔の前でひらひらとさせた。
「右手?」
「そう。私、左利きでしょう。色々と不便なことが多かったのよ。右手が使えれば、それが解消できるかなって。それと、俊之と同じ利き手になりたかったってのもあるわね。好きな人との共通点は、多い方が嬉しいもの」
それを聞き、俊之の酔いは一気に醒めた。どう言葉を返していいのか分からず、愛想よくうなずくことしかできなかった。一方で、美代の方は満面の笑みを未だ崩さない。
「できることが増えるっていいものよ。でも、ナイフとフォークの扱いはまだ訓練してなかったから、さっきは左を使ったわ」
美代の右手は、まだ完全に使いこなせるわけではないらしい。俊之は少し安心し、ようやく言葉を返した。
「そうかい。確かに、今まで不便そうにしてたからな。いいことだね」
「でしょう」
それからしばらく、二人の間で言葉は交わされなかった。俊之は歩きながら美代の右手をじっと眺め、考えていた。自分は、美代が左利きである点に強く恋慕していた。彼女にそれを言ったことはない。言えば二人の間柄が崩れると思っていたからである。しかし今や、その恋慕していた「左利き」という美代の特徴が消え失せてしまった。彼女は右手の不自由さを克服し、いつもの立ち位置で手をつないでも、「二人で一緒にいる」感覚は得にくい。むしろ、左手が使えない俊之が疎外感を覚えてしまう。立ち位置を逆にしても同じこと。俊之の右手、美代の左手が空く形になれば、それは互いが独立しているから、一緒にいる感覚はない。俊之は悩んだ。ときどき美代が話しかけてくるが、気の抜けた返事をするのみだった。
美代は今後も右手を使う訓練を重ね、やがて完璧に使えるようになるだろう。両利きとなった彼女は、右手しか使えない俊之の一歩先を行くことになる。彼はそう考えた。美代は俊之の上にいる存在であり、彼は美代に抗えず、従うしかない。俊之はそう感じた。「左利き」という一点を強く好いていた自分が小さく見え、彼女とは対等でなくなってしまったと感じた。
そう考えているうちに、俊之は彼にとっての美代が「可愛い彼女」から「万能の女神」とでも称すべき高次な存在になったことに気づいた。すると、自分は彼女に守られており、逃げることはできない。鳥かごの中の鳥のようなものである。かごの中にいる自分は、常に美代の視界から出ることはできない。何者かの支配下にいることは、実に安全で居心地のよいものなのではないか。彼はそう考え、美代を対等ではなく上に見ることで、改めて恋慕するに至った。
美代がまた話しかけた。
「ねえ、そこのカフェに寄ってもいいかしら。コーヒーが飲みたいわ」
「いいとも。今度は、右手でカップを持ってくれないか」
店に入り、二人はコーヒーを注文した。席についてしばらくすると運ばれてきて、美代は慣れた手つきで、左手を使って砂糖とミルクを入れた。そして右手でカップを持って一口すすった。
「この通りよ。右手で持っても不器用な感じにならないわ」
「すごい。今までならこぼしそうな勢いだったものな。でも、砂糖とミルクを入れるのは左手だったぜ」
「あら。体に染みついていたから分からなかったわ。これも、訓練項目に入れるわ」
俊之は、美代に笑いかけながらコーヒーを飲んだ。目の前で、左右どちらの手も問題なく使った美代を見て、彼は一種の快感に浸っていた。
反転 萩谷章 @hagiyaakira
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