取捨選択

萩谷章

取捨選択

 早く、腕時計を着けられるようになりたい。邦夫は日々そう思っていた。というのも、彼が通う中学校は腕時計を着けることが認められておらず、さらに中学生には腕時計を買えるほどの経済力もない。親に頼んでもいいのだが、いつか自分の財布から金を出して買うことこそ大きな意義だと考えていた邦夫にとって、それは一種の挫折になるのであった。

 その日も、邦夫は学校からの帰路につきながら友人の大輔・貴広と話していた。

「お前は、腕時計持ってるんだろ、大輔よお。デジタルのやつ」

「まあ、持ってるけど。邦夫はまだだっけ」

「まだだよ。高校生になったらアルバイトして、いい腕時計買うんだ。貴広は持ってるんだっけ」

「俺は持ってないよ。時間なんて、学校にいる間はそこらじゅうに時計があるし、休みの日には時間なんてあまり気にしない」

「わざわざ持つ意味がないってか。まあ、一理あるけどな。でもやっぱり、俺は憧れちゃうな。早く高校生になりたい」

 そう言って、邦夫が嘆くように空を見上げると、時報のような音が聞こえた。彼は大輔に声をかけた。

「おい、もしかして今の音。大輔、お前腕時計持ってきてるのか」

 突然の問いかけに対して、大輔は眉間にしわを寄せて答えた。

「持ってきてないよ。何だ急に。音って何だよ」

「いや、鳴ったろう。時報みたいなの」

「鳴ってないよ。空耳じゃないのか。貴広、お前聞こえたか」

「いいや。時報ってあれだろ。『ポーン』ってやつ」

「そうそう。確かに聞こえたんだけどな……」

 多数決で、時報のような音は鳴っておらず、邦夫の空耳ということで落ち着いた。三人の話題は移り、再びあれこれと楽しげに話し始め、そのうち「また明日」と言って別れた。


 邦夫は家へ帰ると、母に時報のことを話した。

「それ、どのくらい前よ」

「大体、二十分くらい前かなあ」

「じゃあ、ちょうど四時くらいね。本当に時報だったんじゃないの」

「でも、大輔は腕時計持ってきてないって言ってたし……」

「確かに、大輔くんは真面目だから、持ってこないだろうね。周りに誰かいなかった」

「いや、誰も。周りは田んぼや畑ばっかりだから、どこかから聞こえてきたとも思えない」

「空耳として片づけるしかないわね」

「でもなあ……」

 邦夫は、聞こえた時報があまりにも明瞭な音だった点が気になっていた。「ポーン」というあの音。まるで耳のそばで鳴ったようであった。しかし、どう考えても空耳と片づけるほかない。飛躍した考え方をすれば、邦夫自身に超能力が発現し、正時、つまり「ちょうどの時間」になると時報が聞こえる体質になったのか。居間で寝そべりながらあれこれと考えていると、またもや時報が鳴った。邦夫は飛び起き、母に向かって叫んだ。

「鳴った。ほら、鳴ったよ」

「何がよ」

「時報だよ。今、『ポーン』って」

「鳴ってないよ。私は聞こえなかった。そもそも、うちには時報が鳴るようなものなんて置いてないよ」

「おかしいな……。絶対に鳴ったんだけどな」

「あ、でも今ちょうど五時になったよ」

「ほんとだ」

 邦夫は居間を出て、自分の部屋に入った。宿題に手をつけたが、いまひとつ集中力に欠けていた。机に置いてある時計をしきりに気にしていたためである。やがて六時になると、邦夫は時報の音を聞いた。

「あ、まただ……」

 一時間前に母が言ったように、邦夫の家に時報が鳴るようなものはない。それに、やはり音があまりに明瞭である。すると、やはり……。

 邦夫は、自分が時間を正確に知ることのできる一種の超能力者となったことを喜んだ。彼自身の、腕時計に対する強い憧れからであろうか。発現の理由は推測しかできないが、いずれにせよ「時間の分かる何か」を自分が持っていることに邦夫は強い喜びを感じた。その後も正時になると時報が聞こえた。しかし、それを誰かに言うことはしなかった。言ったところで、誰もまともに取り合ってくれないことは目に見えているためである。大輔・貴広や母も、「時報が聞こえる」という邦夫の発言は忘れたのか、はたまた一種の奇行と考えたのか、あとになって再び話題として持ち出すことはなかった。


 発現から二週間ほど経ち、邦夫の超能力は新たな局面を見せた。時報が鳴るのに加え、明確なアナログ時計のイメージが浮かぶようになったのである。その長針が真上に来れば、時報が鳴る。それまで正時しか分からなかったのが、一分の単位まで分かるようになったのである。もはや腕時計を着けているのと変わらない。邦夫は大いに喜んだ。誰かに自慢したいところだが、ぐっとこらえた。

 ある日、邦夫は大輔・貴広と遊園地へ行った。一日中無駄なく遊ぶべく、開園時間と同時に入り、閉園まで満喫する予定であった。

 日が傾き始めた頃、邦夫は常にイメージとして浮かぶアナログ時計を読んで、友人たちに声をかけた。

「大体、四時過ぎかな。あと四時間くらい遊べるね」

「おお、お前の体内時計は正確だな」

「まあね」

 楽しい時間が過ぎるのはあっという間で、遊園地は八時に閉まり、邦夫たちは退園して最寄り駅へ向かった。電光掲示板を見ると、次の電車が出るのは八時十七分であった。邦夫はアナログ時計を読んだ。

「ちょうど、あと三分ってところか」

 すると、腕時計を持っている大輔がそれを否定した。

「残念、五分だ。今は十二分だぜ。まあ、体内時計にしちゃ優秀だな」

 邦夫は目を見開いて大輔に強く言い放った。

「いや、そんなはずはない。今は十四分のはずだ……」

 大輔はややたじろぎ、隣にいる貴広を見た。微妙な雰囲気の悪化を感じ取った貴広は、明るい口調で言った。

「答え合わせができるぜ。電光掲示板の横に時計がある」

 三人で見上げたその時計の針は、八時十二分を指していた。つまり、正しいのは大輔だった。邦夫は、口の中で「そんなはずはない……」とぶつぶつ言い続けた。大輔と貴広はその様子をやや気味悪がったが、そのうち自分が雰囲気を悪くしているのに気づき、いつもの様子に戻った邦夫を見て普段通りに話し始めた。

「まあ、お前は腕時計に憧れてたもんな。時間にこだわるのも分かるよ」

「いやあ、変なことを言って悪かったね。早く腕時計が欲しいなと思ってるから、その焦りだったのかもしれない」

「高校生まであっという間さ。すぐだよ、すぐ」

 十五分ほど電車に揺られ、大輔と貴広より一つ前の駅で邦夫は降りた。もっと長くいたかったのに、最寄り駅が違うというのは一種の不幸である。いつもならそう思うのだが、その日の邦夫は「自分の時計」がずれていたことに大きな不安を感じていた。うなだれながら家へ向かって歩き、着くとすぐさま居間の時計を確認した。電子時計なので、狂わない。邦夫のアナログ時計と照らし合わせると、邦夫の方が五分遅れていた。先ほど駅では四分遅かったので、家へ帰るまでにさらに一分のずれが生じたことになる。

 邦夫は頭を抱えた。このままずれ続けば、彼のアナログ時計は正確な時間から大幅に離れた時間を示すことになる。加えて正時には時報が聞こえる。全くでたらめな時間に時報が鳴り、修正のしようが分からないアナログ時計がイメージとして浮かび続ける日々……。邦夫は言いようのない恐怖に襲われた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

取捨選択 萩谷章 @hagiyaakira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ