トロイの木馬
武尾さぬき
序章
神社の拝殿、賽銭箱の前にお参りに来たであろう男女がいた。女性は2度手を叩いて目を閉じる。2~3秒ほどして瞳を開き、右隣に目をやった。
一緒に来た男性は固く目を閉じたまま、ずっと手を合わせていた。彼の横顔を見つめる女性。
時間にして10秒ほどだろうか、やけに長い「願い事」を終えた男は目を開いてそのまま正面を向いている。
その表情は女性の目に、なにか決意が込められているかのように映った。
◇◇◇
「いいですか、秋山さん? この飛行機のマークは『機内モード』と言いましてね。インターネットやメールができなくなるんですよ?」
「キナイモードねぇ……。どうしたら解除できるんだい?」
「画面の右の隅っこに飛行機のマークが出てるでしょう? これを1回、矢印で押してあげたら解除されますよ」
小さな個人経営の電気屋、「ナカジマ電気店」。そのカウンターで若い男性店員が高齢の男性客と共にノートパソコンの画面を覗き込んでいる。
「はい、解除されました。これでメールを送れるようになりましたから、試しにご自身のケータイのアドレスにメールを送って見て下さい」
店員に促され、慣れない手つきでスマートフォンの画面を触る男性客。しかし、すぐに操作する指を止めてしまった。
「スマートホンでメールはしてないから、アドレスなんてないと思うんだよ?」
独特のイントネーションで「スマートフォン」を口にするお客。この返答に、若い店員は一度笑顔で頷いてからこう切り返した。
「秋山さん、たしか血圧を記録するアプリを使っていたでしょう? ――ということは、『アカウント』と言いまして、メールアドレスを登録しているはずなんです」
店員は男性客の承諾を得てから、彼のスマートフォンを借りて慣れた手つきで画面をタップした。
「ほら? これが秋山さんのメールアドレス。きっとケータイショップの人が登録してくれたんでしょうね。ここ宛てにパソコンからメールを送ってみましょう」
店員は、メールアドレスを見れる画面のままスマートフォンをカウンターに置き、今度はノートパソコンの画面だけを見ながら素早い手つきでキーボードを叩いた。
彼がエンターキーをトントンと軽く2回叩いた後、程なくして男性客のケータイからデフォルトのままと思われる通知音が鳴り響く。
そこには表題に「テスト」と入ったメールが届いた、との通知が表示されていた。
「ほら、きちんとメールを送れました。これでもう大丈夫です」
彼の言葉に安堵したのか、男性客はホッと胸をなでおろした。
「いやー、宍戸さん! 本当に助かったよ。最近は自治会のお知らせなんかもメールで届いたりするもんだからねえ」
「お役に立ててなによりです」
「宍戸」と呼ばれた若い店員は、目にかかった前髪を掃ってから笑顔でそう答えた。
「えーっと、今の相談料はおいくらかな?」
男性客はポケットから小さく折りたたんだ千円札を取り出して広げている。
「これくらいならお代はけっこうですよ。また困り事があったらいつでもご相談下さい」
「そうかい? なんだか悪いねぇ」
「いいえ! ただし、代わりといってはなんですが――、お買い換えの家電がありましたらうちにお声かけ下さいますようお願いします」
「ああ、もちろんだとも。いやー、宍戸さんもすっかり村の一員になったねえ? 若者が少ないとこだから、あんたみたいな人がいると本当に助かるよ。特にわしらの世代は、パソコンみたいな機械ものは苦手なもんでね」
「はは、おかげで僕みたいな人間にも仕事があるわけですよ? 逆に機械いじりしか取り柄がありませんけどね」
男性客はその後、短い世間話を交わしてから電気屋をあとにした。腰の少し曲がったお客の背中を、爽やかな笑顔を浮かべて宍戸は見送っていた。
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