クロッカスの残り香

@shirakisyu

プロローグ 花の咲く夏の夜に

 夏なのに酷く寒かったのを覚えている。


「ごめんね、アキくん……」


 夏の花火大会。

 ずっと、この日に会えるのを楽しみにしていた。

 最近は仕事が忙しいみたいで中々会うことができなかった。

 久しぶりに会えるのが嬉しくて、昨日の夜はあまり眠れなくて、結局完全徹夜で、花火が打ちあがり終えた今、祭りの後の寂しい空気が広まる橋の上で、俺はその子と待ち合わせしていたんだ。


 本当に……


「何で謝るんだ? 紗季?」


 本当に楽しみだったんだ。


 この日が2か月ぶりの再会だった。

 恋人同士になって1年が経つのに。


「……私の所属している事務所がね? 恋愛禁止なんだって……」


 『事務所』

 俺の彼女は、いわゆるアイドルと言うやつだった。

 一年ほど前に、有名な事務所にスカウトされ、アイドルになった自慢の彼女。

 中学の頃からの知り合い、俺の方が歳は一つ上だったけど、知り合って仲良くなって、俺にも、彼女にも初めての恋で……


「だから、アキくん。私たち、別れよう?」


 会えなくても、毎日のようにテレビの向こうに彼女は居た。

 ルックスはもちろん、歌も上手くて、カラオケに行ったときにはついつい自分が歌うのを忘れるほど魅了されていた。

 テレビに出るたびに録画して、感想を電話越しに話しながら何度も見返すほど好きだった。

 そんな自慢の彼女からの別れ話は、俺にはしばらく言葉が理解できないほどのショックだった。

 ショックという言葉は生ぬるいかもしれない。

 車に轢かれて、何とか生き延びたところで落雷が脳天に突き刺さるくらいの、絶望感。


「……え……? でも、俺は……」


 なんて言えばいいのだろうか……

 こういう時は素直に受け入れたほうが良いのだろうか?


「……わがままを言ってごめんね、アキくん……」


 目を伏せて、涙を堪えながら彼女は俺に背を向けて去っていく。

 人目につかないように夏なのに厚着をして、帽子を被ったその小さな背中は、すぐに人ゴミにかき消されて見えなくなってしまった。


「…………」


 俺は、その背中をただ見送ることしかできなかった。


 ……あぁ、終わってしまった。

 俺たちの恋人関係は、今日で終わってしまった。

 認めたくない。

 そのことを理解するのが怖い。


 ――なんで、俺はあの時、誰よりも傷ついている最愛の子の、沈んだ後ろ姿を追いかけなかったんだろう。

 震えた肩に手を伸ばさなかったのだろう……。

 

 これが俺の高校最後の夏の思い出。

 

 ――この日以来、大学生になっても、俺に次の春は来ていない。

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