恋愛日記

雨宮唯人

恋愛日記

 高校三年の夏、僕は一生分の恋をした。

 


 蝉の鳴き声が響き渡る田舎町。

 それが僕の生まれ育った町。

 目の下まで伸びた、男子高校生にしては長い髪を分けもせず垂れ流していた僕は、その野暮ったい見た目と同じく地味な存在だった。

 辺りには田んぼが多く娯楽の少ないこの町では、僕の様な冴えない奴は息苦しかった。

 大学生になったらこんな町とっとと出てってやる。それだけが僕の希望だった。

 蝉は煩いし、日差しを遮る建物なんて無いからとにかく暑い。

 砂利道を億劫に踏みしめながら、あと何度この憂鬱な通学路を歩くのだろう。そんなことを思っていたある夏の日、僕に思わぬ転機が訪れた。

 エアコンぐらい点けろよ。何の為に備え付けてんだよ。なんて汗が滴り落ちる度に考えていた昼時、彼女は颯爽と僕の前に現れて、ぎこちのない笑顔で僕をデートに誘った。

 その瞬間、あれ程暑さでうだっていたのに、風が僕を強く吹き付けた様な錯覚に襲われた。

 思えばあの日から、僕の冴えない日常は急に色づいていった。

 

 なんの冗談だ。そう何度も思ったけれど約束の日はやってきて、待ち合わせのバス停で僕は彼女を待っていた。

 ただでさえ蒸し暑い夏休みに入ったというのに、昨日から手の平にはじっとりとした汗をかき続け、頻繁に喉が渇くなんていう分かり易い緊張をしていた僕は碌に寝付けず、待ち合わせ場所に辿り着いた今もそれは変わらなかった。いや、更に酷くなっていた。今にも吐いてしまいそうなくらい緊張しきっていた。

 それも当然だ。彼女は僕とは何の接点もない、クラスの中心グループにいる女の子なんだから。

 約束のデートは彼女の遅刻から始まった。


「あー、ごめん」


 ぶっきらぼうにこちらを見れずにそういう彼女を、かわいいと思った。

 全然いいよ、とあまりの緊張でしどろもどろになりながらなんとか言った。

 初めて見る彼女の私服姿はあまりにかわいらしくて、しばらく彼女の方を見れなかった。

 それから二人はバスに乗り、話すことがなく気まずいまま僕たちの住むこの町よりは栄えている街へと移動して映画を見に行った。

 選んだ映画は流行っていたホラー映画で、普段なら怖くて目を背けてしまうようなものだったけど、それどころじゃなかった僕は変に動揺せずに見れた。

 映画を見た後はマックに寄って、他愛もない話を繰り広げた。

 今度は映画という共通の話題ができたことで話しやすかった。

 会話が途切れることも当然あった。でも、バスとは違い、その気まずい筈の時間すら楽しいと思えた。

 映画が怖かったからか不機嫌そうにあまり喋らない彼女を、愛らしいと思った。

 行きと同じく二人でバスに乗り、僕の様に冴えない嫌いな筈の町へ戻るとき、なんでか嫌な気分ではなかった。


 今日は登校日だ。

 いつもなら死にたくなるほどの憂鬱が僕に襲い掛かってくるはずなのに、昨日からこの日が待ち遠しくて仕方なかった。

 彼女と初めてデートをした夏休みを経て、僕はなんだか生まれ変わったかのようだった。

 また彼女と会える、それだけであれ程退屈に感じていた学校が途端に待ち遠しく感じるんだから不思議だ。

 日差しが眩しい快晴の中、校門を潜り抜けて下駄箱へと歩を進めると、僕の心臓は今エンジンが入ったかのように高鳴った。下駄箱で靴を履き替える彼女と邂逅したことで。

 僕は動悸の激しいまま勇気を出して挨拶をした。

 だけど彼女は、なんでか僕を一瞥するとそっと目を逸らして去ってしまった。

 僕はその事実に心にぽっかりと穴が空いてしまったような、そんな気分に陥って、あれだけ高鳴っていた鼓動も鳴りを潜めた。

 その後の記憶は曖昧で、いつの間にか自分の席に座っていた。

 僕は憎たらしい程晴れ渡った空を、ただ見上げていた。

 半ば放心状態になりながら、何かしてしまったのだろうか、と下駄箱での出来事を思い返す。

 嫌われた?

 あれから会っていないのに?

 そんなはずはない。

 でも、じゃあなんで。

 そんなことが頭を延々と駆け巡った。

 でも、そんな僕の苦悩の時間は、昼休みが訪れることでいとも簡単に消え去ることになった。


 彼女が普段から仲良くしている男女のグループが昼休みに盛り上がっていた。

 そっちを見たいけど見たくない、そんな思いの中、僕はのっそりとした動作で気力なくお弁当を取り出した。

 いつもと変わらないんだろうお弁当のラインナップを思い返して、更にげんなりとする。

 やっぱり見たい。理由を知りたい。そんな思いで、まるでギプスで固定されているように動かなくなった頭を無理やり動かして彼女の方に目をやると、彼女は顔を赤らめてなにやら騒いでいた。

 ふいに彼女が僕を見た。

 真横に居た僕は驚いて、ガタンと机を鳴らして前を向いた。

 彼女はそんな僕の前までやってきて、赤らんだ顔でぼそぼそと言った。


 「朝は……、無視したみたいになっちゃってごめん……」


 まさか彼女の方から謝ってくるなんて思ってもいなかった僕は、驚きのあまり「へっ?」と素っ頓狂な声を上げた。

 それから何とか心を落ち着かせて話を聞くと、どうやら久しぶりに会った僕と話すのが気恥ずかしくなっただけだったようだ。

 そんなことを言う彼女の頬は恥ずかしさでか変わらず朱色に染まっていて、少しだけ可笑しかった。

 堪えきれずに「ふふっ」と漏らすと、彼女は僕の頭を強く殴った。


 それから半月が経った頃、彼女にぶっきらぼうに誘われて、僕と彼女は屋上でお昼を共にしていた。

 今日彼女に誘われたとき、告白しようと心の中で決めていた。

 だけどいざ言葉にしようとすると、喉に何かが詰まっているようにその短い台詞が出てこなかった。

 卵焼きを食べる彼女を見て、ウインナーを頬張る彼女を見て、益々思いは増していく。

 何度も何度も言おうとしているのに、一向に声にならない。

 それがたまらなくもどかしかった。

 彼女を不躾に見てしまっていたせいか、彼女は少しだけ不機嫌そうに「なに?」と僕に言った。

 いやなんでもないよ、そう言ってまた日を改めようと思った。……そんな自分の頬を、赤くなるほどの勢いで叩いた。

 今までそうやって何もかも後回しにしてきたから、逃げてきたから、自分でも気づかないうちに死んだように過ごしてたんだろ?そして、それを彼女のお陰で気づけたんだろ?

なら、言葉にしなくちゃいけないだろ。

そう自問自答する様に自分を奮い立たせた。


 頬を張るなんて奇行を敢行した僕を、ちょっと引いたような目で見る彼女に少し笑い、「こんな僕を連れ出してくれてありがとう。好きです、僕と付き合ってください」と真剣な表情で僕は言った。


 何の捻りもないありふれた告白文。

 だけどそこに、僕のありったけの想いを込めた。


「バ…、罰ゲームだし…!」


 照れ屋な彼女は肩を震わせながら、態々悪態をつくように顔を背けてそう言った。それが彼女なりの、いいよの裏返しなのだと思うと、この上なく愛おしく思えた。

 彼女と結ばれたんだ、そう思うと、僕の胸中に狂おしい程の感情の波が押し寄せてくる。

 九月十五日。今日は僕の最良の日に違いない、そう思った。


 僕には縁遠いと思っていた甘酸っぱい展開に浸っていたその時、屋上のドアが勢いよく開いた。

 突然の事に驚いた僕だったけど、どうやら彼女と仲が良いグループの皆が隠れて僕たちの様子を窺っていたようだった。

 彼らは僕と彼女を囲むように集まると「いやー、おめでとうっ!」、「おめでと~っ!」と、口々に祝ってくれた。彼らは僕の人生で関わることなんてないんだろう、そんな風に思っていた人種の人たちだったけど、流石彼女が選ぶ友人たちだと思った。


「さてさて!因みに今、どんな気分!?」


 まだ日の高い青い空の下で、彼は清々しい程ストレートに、満面の笑みを浮かべ聞いてきた。

 陽な雰囲気全開な彼らの雰囲気や掛けられた言葉に、不慣れな僕は思わず息を呑みこむと、チラリと彼女の方を盗み見る。

 彼女は目尻に涙を滲ませながら、眩しいほど素敵な笑顔をしていた。僕の情けない尻込みなんて、息をするように簡単に、吹き飛んでいった。

 僕は笑みを浮かべると、自信をもって答えた。


「最高だよっ」


 本当に、心からそう思えたんだ。

 僕に、こんなにも情けなくて、頼りなくて、取るに足らない僕なんかに、抱え切れないほどの感情や幸せを運んできてくれた彼女の存在に、ただひたすら感謝していたんだ。

 だから、余りにも嬉しくて、僕は泣いていた。自信をもって答えたその言葉も、恐らく情けないほどに震えていたんだと思う。

 けど、それでいいと、僕は思った。

 

 みんなが満面の笑みを浮かべ、僕を労う様に肩を叩き笑ってくれたのだから。



 それからの毎日は、まるで夢のような日々だった。

 毎日彼女と登下校を共にする日々は、吹けば消えてしまいそうなほど儚く思えた。

 会話は少なかったけど、心が通じ合っていた。そう思えるほど、幸せで。

 それは確かに、かけがえのない僕らの青春だった。


 だからこそ、信じられなかった。

―――彼女がいなくなったあの日の事を。


 突然の転校だった。

 彼女は何の前触れもなく、僕の前から姿を消した。

 一緒に帰った昨日が、儚い嘘だったかのように、唐突だった。

 だからこそ僕は思った。

 なにか事情があったんだろうと。きっと、何か重い事情を抱えていて、照れ屋な彼女は否定するだろうけど、優しさに溢れた彼女の事だから、僕を巻き込んでしまう事に耐えられなかったんだろう。

 だから、彼女は僕に悟られないよう姿を消したんだ。 


 彼女と仲の良かった彼らは、僕を見てヒソヒソと言葉を交わしていた。多分、青天の霹靂とばかりに驚いた僕を憐れんでくれているのだと思う。

 直接話しかけられない程、僕は酷い表情を浮かべているのだろう。

 このまま忘れてしまうのが、正解なのかもしれない。

 彼女も、そう願っているのかもしれない。

 だけど、彼女にどんな事情が有ろうと構わない。

 僕が守ってやりたいと、そう思えたのだから。


 そして、彼女の居場所を知った時、もう二月になっていた。



 街灯に照らされた降り積もる雪は、まるで星のように輝いている。雪が音を吸い込んでしまった様に静かな夜。

 そんな中、明るい少女達の声が木霊する。


「またね~!受験勉強ファイとっ!」

「うっさいわ、推薦で早々と受かりやがって!」


 仲睦まじそうな彼女たちは、街灯の灯りの下で別れ、それぞれの帰路に就く。

 かじかんだ手を吐息で温めて、まだ慣れない田舎道を彼女は少し速足で歩く。

 そんな彼女は、後ろから声を掛けられた。


「やあ、久し振り。やっと会えたね」


 聞き覚えのあるその声に、彼女は勢いよく振り返る。


「あ…、あ…!」


 彼女は口元に手を当て、声にならない声を発した。

 口元に当てたその手は、震えていた。それは寒さによってではなかっただろう。

 そんな彼女を見て、彼は頬を緩ませ言った。


「ふふっ、嬉しいな。声にならないほど嬉しかった?」


 目を見開いた彼女は、彼に背を向け駆け出した。

 雪に足を取られながら、必死に彼女は走った。


「来ないでっ!!!!」


 大きな、震えるような声で彼女はそう言った。

 だけど、彼は追いかける。


「大丈夫!安心してよ。君は、必ず僕が守るから」


 安心させようと、声をかけながら。


「もうほっといてっ!!」


 それでも、彼女は彼を拒んだ。

 だが、そんな抵抗も長くは続かなかった。慣れない田舎道が、彼女を袋小路に追い込んでいた。

 彼女は全身の力が抜けたように座り込み、後ずさる。


「もう、謝ったじゃない…。あれは罰ゲームだったって、何度も言ったじゃない!!!なのになんで私に付きまとうのっ!!!!」


 彼女は、喉が裂けるほど全力で叫んだ。

 そんな彼女の金切り声に、柔らかい笑みで彼は答えた。


「大丈夫だよ。ちゃんと分かってる、それが嘘だってこと。当然分かるさ。僕たちはこんなにも愛し合っているんだから」


 彼女は恐怖で喉をひくつかせた。


「なんでも話してくれていいんだ。相談してくれていい。迷惑かけてくれたっていいんだよ」


 涙が頬を伝った。


「僕たちは、付き合っているんだから」


 彼は、壊れ物にでも触れるように、彼女をそっと優しく抱き締めた。

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