聖女様の物理学
スティーブ中元
第1話 プロローグ
午前2時。神崎杏は行き詰まっていた。
何に行き詰まっていたかというと、一週間後に迫った学会発表の準備である。最新の実験データは、一言で言って荒れていた。
「これが聖女効果か」
神崎杏は理論物理学者を目指す大学院生である。あだ名は聖女様。高校の学園祭の演劇で、聖女役を演じてついた。
本当は実験が好きだった。実験物理学者になりたかった。子供の頃は、実験が楽しく、色が変わっただの、電球が光っただの、結果が出るたびに心がおどった。そんな体験が大きかったのか、中、高とすすむにつれ、将来は研究者になって、誰も知らないことを実験で見つけ出すことを夢見るようになった。 実験が楽しくなくなったのは、大学に入ったころからである。 学生実験でつぎつぎと失敗を繰り返し、杏のせいで実験が失敗するとまでいわれた。それが「聖女効果」
今回の実験は、同じ札幌国立大学大学院で実験物理を学ぶ唐沢修二のものである。
杏は、高温超伝導帯の酸化銅の層と層の間の相互作用が気になっていた。杏の研究する高温超伝導体では、酸化銅の層が電気伝導を担っていると考えられている。この層と層の間に何らかの力のやり取りがないと、超伝導にはならないのではないかと、杏は考えている。圧力をかけると、層と層は近づくが、いままで世界の研究者が行った圧力下での実験は、統一的な解釈を与えてくれない。
では、層と層の間を広げたらどうなるか。そのことを杏は、ずっと考えていた。それを知る修二と杏は、緒方のぞみに実験で使えるサンプルについて相談してみたのである。のぞみは、杏と同じく扶桑女子大から札幌国立大学に進学してきた院生である。
「ああ、それか、実は私、それは今やってる」
のぞみは杏の気にしていることについて知っていて、黙ってそういった実験に使えそうなサンプルを試作していたのである。サンプルができたら、修二が中性子線をつかって実験してみることになった。
修二は茨城県東海村にある共同利用実験施設の超高エネルギー物理学研究所(Super High Energy Pysics Laboratory 略してSHEL)の実験施設にある、とある測定機の管理メンバーの一人である。管理メンバーには自由に実験をする時間が与えられる。修二はマシンタイムを七晩にわたり確保し、この秋に実験した。管理メンバー間での調整もあったかと思われるが、修二は無理やり押し込んだらしい。そうしないと春の学会に間に合わない。
修二は聖女効果については知っている。だから実験には一切タッチさせてくれなかった。だから聖女効果は実験結果には表れないはずである。
でも杏には思い当たる節があった。
実験のデータ処理には、実験装置をコントロールしているコンピュータから生のデータをダウンロードする必要がある。そのため、杏はそのコンピュータにアカウントを持っていた。聖女効果を知る修二からは、実験中は絶対にログインしないよう釘を刺されていた。だけど一刻も早くデータを見たくなるのが研究者の性。実験中にときどきログインし、こっそりのぞいていた。長時間ログインしているとばれる可能性が高いので、ごく短時間ログインし、ちょっとだけデータを見るようにしていた。
それでもこれである。
もうどうにもならないと思い、寝ることにした。午前3時である。ここのところ毎晩3時である。何も解決しない。自分の研究分野と無関係であるが、宇宙の加速膨張が止まってしまえと念じつつ、ベッドに入る。あまりの疲労に即寝付いたが、夢見は今夜も最悪だった。荒れに荒れた実験結果のグラフが宇宙に飛び舞う。そのグラフ用紙が100億光年先の銀河をとらえ、宇宙の膨張を止める夢だ。2週間前の実験終了から今に至るまで、毎晩この夢を見る。
翌朝。睡眠不足である。若いから大丈夫だが、体に良くないことは間違いない。もう限界だ。状況を指導教官の池田教授に相談しよう。池田先生には九州弁で怒鳴られるだろう。問題は、池田先生に「聖女効果」をどこまで話すかだ。そんなことを考えながら、自宅を出る。研究室まで徒歩15分である。
大学までの道すがら、太陽光が無駄にまぶしい。今日もすっぴんだから、目の下のクマが、いい感じに赤外線やら紫外線やら吸収しているであろう。秋の北海道はさわやかこの上ないはずであるが、睡眠不足やら教授への恐怖やらで、へんな汗が出る。脇下はぐっしょりだ。
大学の構内に入ったところで修二に出会った。なぜかごきげんだ。同じ研究をしていて、こちらは絶望のどん底にあるのに。
「聖女様、僕新発見をしたよ。今回の実験で」
「同じデータを共有しているはずよね。馬鹿にしてんの?」
「いやいやそんなことないよ。朝一でうちの研究室来てよ」
「わかった」
腹が立ってきた。そうは言っても修二の話を聞かないわけにもいかないので、池田研究室の居室に荷物を置き、教授に修二のところに行く旨一言断って、修二の居室に向かう。修二の居室は同じフロアの徒歩1分、榊原研究室にある。さすが旧帝国大学、むだに広い。
さて榊原研究室、朝一のコーヒーを味わう榊原教授にあいさつしたら、ゼミ室に行くよう言われた。
ゼミ室の大テーブル、修二はたくさんのプリントを並べていた。見たようなグラフもある。頭が痛い。これで何を発見したのであろうか。
「今回の実験、大成功だったよ」
ケンカを売っているのか。
「まあ、これを見てよ」
3枚のグラフを修二は渡してきた。
1枚目。見慣れた荒れ荒れのグラフ。
2枚目。きれいなグラフ。修二はデータの捏造をしているのか。自分の説が正しければ、実験結果はこうなるはずだ。
3枚目。ノイズそのもの。
「何が言いたいの?」
「タイムスタンプを見てよ」
1枚目。午前2時01分から午前8時34分。
2枚目。午前2時01分から午前3時11分。さらに午前3時15分から午前8時34分。
3枚目。午前3時11分から午前3時15分。
杏は嫌な予感がした。
さらに修二はもう一枚のプリントをよこしてきた。
「これは実験PCのログイン記録」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます