幼馴染しか勝たん!
あろー。
第1話 社畜、やり直す
1.
人生において、『後悔』というものをしたことがない人間っているんだろうか?
俺の人生、達成感よりも後悔の方が圧倒的に多かった。
30歳の誕生日、職場のビルの屋上。 3徹した頭で、ふとそんなことを考える。
つい先週、母さんも過労で死に、もはや俺に家族と呼べるような存在はいない。
俺がもっと、しっかりしていれば……またしても後悔が押し寄せる。
「(俺、なにやってんだろうなぁ……)」
明日も朝6時にタイムカードを打刻して、部署の掃除、課長のデスクの片付け、業務連絡の代筆、電話応対をしながら全員分のお湯を沸かし、PCの更新作業、新人が作った資料の推敲……いくらでも仕事はあるというのに、俺の足はこの場から全く動こうとしない。
とっくに営業時間は終了し、警備員さんたちが夜間の巡回を開始する時刻。
もはや毎晩の恒例と化しつつある夜景観察をしながら、なぜか今日だけは、身体が勝手に動いた。
白色のフェンスを乗り越え、屋上の淵に立つ。
地上11階の高さから下を見下ろせば、こんな時間でも人が行き交う姿が見えた。
『なんのために会社来てんだ! とっとと辞めちまえ!』
課長の怒声が耳の中でひとりでにリフレインして、足が勝手に一歩前へと進む。
『あの人、なに考えてるのかわかんなくて、気持ち悪くない?』
新入社員たちが給湯室で話す声が頭の中で反響して、さらに足が前に出る。
『お前さぁ、なんで言わねぇの? そういう当たり前のこと、習わなかったわけ?』
数年前、新入社員歓迎会の時、同僚から言われた言葉を思い出して、また一歩、足が進んだ。
高校を出て、1年の浪人を経てそこそこの大学に入学し、なんとか入った会社は、俺を必要としていなかった。
日々飛んで来る罵倒に耐え、目の回るような量の業務をこなし、気づけば7年。 俺ももう30歳だ。
「(なんで、こんなことになったんだろうなぁ)」
だめだ、よくない。 仕事の疲れもあってか、思考がとことん後ろ向きになっている。
こんな時は、良かったこと、幸せだったことを思い出そう。
しかしこれまでの人生、彼女ができたこともなければ、友人すらいない。
『大会』や『祭』と名の付くイベントにはいい思い出が一つもないし、自分から動こうとしたことすらない。
……そういえば、こんな俺にも中学の頃までは交流のあった、幼馴染がいた.んだよな。
今はもう、どこでなにをしているのかもわからない女の子。
中学の卒業式で、彼女が別のクラスのイケメンに告白されているのを見た時。
あの時、俺は、彼女と自分は住むべき世界が違うのだと理解した。
……もし。 もし、仮に。
絶対にありえないことだけど、俺があの時行動を起こしていれば。
「(なにか、変わってたのかなぁ……)」
働かない頭でそんなことを考えながら、意識が遠のくのを感じる。
3徹くらいまだ大丈夫だと思っていたのに、30歳の体には思ったよりキツかったらしい。
他にいくらでも後悔するべきことはあるだろうに、最後の最後に思い出すのが、それか。
視界がかすみ、自分の頭が前後に揺れるのを感じる。
咄嗟に後ろのフェンスを掴もうとした手はあっさりと空振り、俺の体は夜空へと投げ出された。
「あぁ……やっと……」
2.
目を開くと、見えたのは懐かしい天井だった。
古びた木製の、一部に雨漏りが染みついた天井。
これは、俺が高校卒業まで暮らしていた、実家の天井……?
かれこれ10年以上前の記憶でも、意外と残っていたらしい。
ゆっくりと身を起こしてみれば、視界に広がったのは見慣れた自分の部屋の景色。
ただし、それもやはり12年前に住んでいた実家の物だ。
「なんで……?」
あまりの事態に頭が混乱して、全く状況が入ってこない。
(バンッ!)
唐突に開かれた自室の扉から顔を出したのは、15年ぶりに見る妹の顔だった。
「あかり……?」
「あれっ、お兄ちゃん起きてるじゃん!」
今でもまだ鮮明に覚えている、あの頃のままのあかりだ。
東堂 あかり、享年13歳。
母譲りの茶色い髪を頭の後ろで一つに括ったポニーテールがトレードマークで、やや幼いながらも顔立ちはかなり整っている。 自分と血が繋がっているのが信じられないくらいだ。
くりくりとした大きな瞳が、不思議そうに俺の顔を見返している。
「……なに泣いてんの?」
「え」
そっと頬に手を添えて初めて、自分がぼろぼろと泣いていることに気づいた。
「きもっ! ママー!」
そのまま扉を閉めて、あかりの足音がリビングへと去って行く。
若い頃の自分だったら「きもっ!」に傷ついていたかもしれないけれど、この歳になるともはやどうでもいい。
むしろ、会いたくて会いたくてたまらなかった家族からの罵倒なら、喜んで受ける覚悟だ。
この状況はわけがわからないけど、死ぬ前の走馬灯のような物なのかもしれない。
まさかこんなに豪勢な走馬灯なんて、生きていればいい事はあるものだ。 いや、死ぬんだったっけ?
「とりあえず……」
あかりの後を追えば、リビングには母さんがいるらしい。
つい先週、死に目に会うことすらできず、永遠の別れとなってしまった母さん。
仕事の休みを取らせてもらえず、まだ葬儀の手配もできていなかったのに、先に生きて再会できるなんて。
俺は高ぶる胸を押さえつけ、ベッドから抜け出した。
3.
「祐介、おはよう。 ……あら、ほんと。 すっごい泣いてるわ」
「でしょ!? だから言ったじゃん、お兄ちゃんがきもいんだって!」
東堂 沙織(とうどう さおり)、享年52歳。 今が仮に15年前なら、37歳か。 うわ、若い。
明るい茶色の髪を肩のあたりで切りそろえ、オレンジ色のエプロンを身に着けている。
実家を出て以来ほとんど会いに帰ることもできていなかったから、顔を見るのはかれこれ5年ぶりだ。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、改めて思う。
俺、本当に親不孝だったよな……
今さらだけど、俺の名前は東堂 祐介(とうどう ゆうすけ)。 享年30歳……になる予定。
せっかく大学まで出してもらっておいて、ブラック企業に入社した挙句、親の死に目にも会えず自殺した、どうしようもない男だ。
母さんは、何度も何度も心配して電話してくれたのに、俺は忙しさを理由にしてろくに対応することもなかった。 うちに父親はいない。 親戚もほとんどいない。
その結果、過労と心労が祟って、母さんは……悔やんでも悔やみきれない。
そして、あかり。
今は俺の向かいの席で美味そうにソーセージをぱくついてるけど、彼女もまた15年前に命を落としている。
俺が高校へ入学する前に、私服をコーディネートしてあげる!と誘われ、当時の俺は気恥ずかしさと面倒臭さ、そしてある理由から出かける気分になれず、それを断ってしまった。
その結果、ふてくされて1人で買い物に出かけたあかりは、車に跳ねられて帰らぬ人となったのだ。
あの時、あかりの誘いを断らなければ。 せめて一緒にいられれば、守ることだってできたかもしれないのに……これも、俺の人生に残る、大きな後悔の一つ。
テレビのニュースも、核ミサイルがどうたらこうたら、聞き覚えがあるようなないようなことを話している。
これが走馬灯なんだとすれば、俺の記憶から作られているのだろうし、それもまぁ当然のことか。
「おにい、今日なんか予定あんの?」
食事の合間、視線はテレビに固定したまま、あかりが口を開いた。
「え? いや……どうだろ?」
「なにそれ」
自分でもなんだそれとは思うけど、昨日までの記憶がないので今日の予定もわからない。
どうせ夢だから、と割り切ればいいのかもしれないけれど、奇跡のようなこの時間に、そんな適当な対応はしたくなかった。
「もしヒマなんだったらさ、買い物行こうよ」
「買い物?」
「うん。 おにい、来月から高校でしょ? その前にあたしが私服コーディネートしてあげる!」
4.
瞬間、背筋に電撃が走った。
「コーディ……ネート……?」
「え? うん。 おにい、どうせ自分で服とか選べないっしょ?」
待て。 待て、待て、待て、待ってくれ。
慌ててポケットに手をやるが、そこにスマートフォンはない。
そうか、まだガラケーの時代か! おそらく俺のガラケーは枕元で充電している最中のはずだ。
続いて室内に素早く目を走らせる。 あった、カレンダー。
母さんが昔から好きで、毎年新しい物がリビングに設置されているのだ。
掲示されている月は、2008年3月。 俺が中学校を卒業した年だった。
「おにい? どしたの?」
唐突に不審な動きを始めた俺をいぶかしんで、あかりが問いかけてくる。
まずい。 とにかくまずは、この誘いに乗らなければ。
「あ、あぁ悪い。 あかりに誘われるなんて思わなかったから、嬉しくて挙動不審になっちゃったよ」
「はぁ? ……きもっ」
ガチのやつやめてもらっていいですかね?
さっきはあぁ言ったけど、なんとも思わないわけではないのだ。
しかし今のは自分でもないな、と思う。
久しぶりに家族に会えて、俺もテンションがおかしくなっているのかもしれない。
「こら、あかり。 お兄ちゃんに向かってきもいはないでしょ、きもいは」
「だってきもいじゃん、妹相手にさぁ」
母さんがたしなめてくれるけど、正直それはそうだと思う。 反省しよう。
「で、行くの? 行かないの?」
「行くよ。 むしろ行きたい」
「ふーん。 じゃ、ご飯食べて準備したら出発ね!」
どうでもよさそうに言いながら、どこか嬉しそうにあかりが箸を進める。
大丈夫、大丈夫だ。
事故のあった交差点も、時間帯も、はっきりと覚えている。
これがたとえひと時の夢だとしても、俺は絶対に、今度こそあかりを救ってみせる。
5.
食事を終えた俺は、洗顔と歯磨きのため、洗面所へと向かった。
鏡台に映る自分の顔を見て、愕然とする。 わっっっかいなぁ……
まだ15歳の頃の俺。 目の下に隈もなく、眼窩が落ちくぼんでもいない。
分厚いメガネの向こうから、ぼんやりとした眠そうな目がこちらを見返している。
髪は黒くぼさっとしており、少しだけ入った天然パーマのせいで余計に野暮ったい印象を受けた。
なで肩のひょろりとした、いかにもひ弱そうなもやし体型。
うーん、これはモテないよなぁ、と自分の恋愛遍歴に妙な納得をしてしまう。
しかもこの頃の俺は少々吃音の傾向があり、家族以外の人と喋る時にどもる癖があった。
当然のように目を合わせることもできず、自分の意見なんて言えた試しがない。
対人スキルに関してはどれもこれも、ブラック企業で7年間働いたことによって今では改善しているが……その結果が自殺では、良かったとは言えないだろう。
「おにいー! まだー!?」
「今行く!」
急かすあかりの声に返事を返して、俺は大急ぎで洗顔と歯磨きを済ませるのだった。
「行ってきまーす!」
「行ってきます」
あかりと2人、順番に玄関から出る。
家の中では母さんが、俺たち2人をにこにこしながら見送っていた。
「いってらっしゃーい」
あの頃は、当たり前にあった日常。 今では自分のせいでなくしてしまった過去をかみしめながら、あかりを振り返る。
「それで、どこに行くんだ?」
「んー……おにい、軍資金は?」
「結構あるぞ」
過去には一度も使うことのなかった、たんすの奥のお年玉貯金。 それを今日はほとんど持って来ていた。
「おー、やる気あるじゃん! せっかくだし、高校デビューしちゃう?」
「高校デビュー? 俺が?」
「うんうん、そうしよっ! 面白そうだし!」
言うだけ言ってこちらの返事を待つことなく、あかりが歩いて行く。
主な動機は『面白そう』っぽいけど、俺としては好きにさせてやりたい。
過去の自分の罪を思えば、そのために金を使うことなどなにも惜しくはなかった。
6.
あかりに連れられて、真っ先にやって来たのは近所のショッピングモールにある、眼科併設のメガネショップだった。
「メガネならちゃんとあるぞ?」
自分の目元を指さしながらアピールしてみると、あかりは腕を顔の前で大きく交差させ、×を作って見せる。
「全っ然ダメ! ダサすぎ! おにい、コンタクトにしなよ!」
「コンタクト?」
30年間生きてきて、考えたことすらない選択肢だった。
「ずっと思ってたんだよね。 おにいって顔のパーツはそんなに悪くないのに、なんでめっちゃダサく見えるのかなーって」
それは、ずっと俺のことをダサいと思っていたと同義なんだが……まぁ、いいや。 ダサいのは事実だし。
「まずそのメガネ! なんでそんなデッカくて分厚いの着けてるの?」
「え、いや、それは……目が悪いから?」
「もっとデザインとか色々あるじゃんって話!」
そんなことを言われても、興味すら持ったことがなかった。
「だからはい、まずはコンタクト作って来て! あたし服見てるから、終わったら電話してね!」
そう言って、あかりは本当にどこかへ行ってしまう。
残された俺は財布から眼科の診察券を取り出して、まずは受付へと向かうのだった。
1時間後。 合流したあかりは、俺の顔を見るなり目を輝かせた。
「いいじゃん!」
「そ、そうか?」
なんだか無性に照れくさくて、俺は後頭部を掻く。
「はい、次それ!」
「え?」
「その頭、ダサすぎ!」
「そんなに?」
「もうね、羊かっての! 眠れない時はおにいの頭数えたらよく眠れそうなレベル!」
ひどい言われようなのに、なぜかちょっとだけ嬉しい俺がいた。
「だから次はその頭ね! ほら行くよ!」
「あ、おい」
言うだけ言って早々に背を向けたあかりは、さっさと歩き出してしまう。
俺はその後を追いながら、なぜか少し楽しくなり始めていた。
7.
「はー……めっちゃ買ったねー……」
フードコートの椅子に背を預けながら、あかりがうめくように言った。
「まさかこんなに買うとは思わなかったよ」
自分の席の周りを埋め尽くす荷物たちを見ながら、俺も口を開く。
コンタクトに始まり、美容室で髪を切ってストレートパーマをかけ、服屋で着せ替え人形にされる。 それから合間に昼食を挟んでからコスメショップで男性用コスメの使い方などを教えてもらい、スキンケアや保湿クリームなどを購入。 最後にスポーツ用品店でダンベルやトレーニングウェアなどまで買わされた。
当然ながら、今日のお礼としてあかりにも服とバッグをプレゼントして(させられて?)いる。
「でもさ、おかげでおにい、めっちゃ良くなったじゃん!」
「そう、なのか?」
いまいち自分ではよくわからない。 あまりにも一気に変わりすぎたせいかもしれない。
「そうだよ! たまに女の人がちらちらおにいのこと見てるの、気づかなかったの?」
「え? いや、あいつキモッ!て思われてたのかと……」
「……それは、ごめんって」
「えぇぇ?」
なんであかりが謝ってるんだ? なんか、私、責任感じてます! と言わんばかりの顔してるけど。
「あかりが謝ることなんてないぞ? むしろ、今日は付き合ってくれてありがとな」
「う……まぁ、べ、べつに……」
照れくさそうに頬を赤らめて、あかりが飲み物のストローに口をつける。
そういえば、だいぶ長いことショッピングモールにいるけど、今何時だ?
携帯電話を取り出して時間を確認してみると、そこに表示されていた時刻は16時半。
いつの間にか、あかりが事故にあった時刻は知らないうちに過ぎ去っていた。
家を出る前はあれだけ警戒していたというのに、終わってみればなんともあっけない。
いや、違う。 まだ油断するには早すぎる。
よく言うじゃないか。
『家に帰るまでが遠足です』って。 ……ちょっと違うかな?
8.
10メートルごとに周囲を見回して警戒しながら歩いていたら、あかりから不審者を見る目で見られてしまった。
しかしそのおかげもあってか、(危険はなにもなかったけど)2人で家の前に帰りつくことができたので、良しとしよう。
これにてミッションコンプリート、と俺が一人満足感に浸っていると、前を歩くあかりが声を上げた。
「あれ? ゆうちゃん?」
その名前に、俺の心臓がどくん! と大きく跳ねる。
片平 悠陽(かたひら ゆうひ)。 俺の幼馴染。
物心ついた頃から既に一緒にいて、幼稚園、小学校、中学校、さらには高校と同じ所に通い続けていた。
家も隣同士だし、親同士も、さらにあかりとも仲がいい。
幼い頃の俺は、いつか彼女と自分は恋人になり、結婚するんだろうと思っていた。
しかし中学の卒業式の日。
学年で一番モテると言われていた男子が、悠陽に告白している現場を目撃してしまったあの時から、全ては変わってしまった。
『片平 悠陽ちゃん、俺と付き合ってください!』
『え、えぇ? こ、困るよ』
『なんで? 誰か好きなやつでもいんの?』
『それは……いないけど……』
『じゃあいいじゃん! ね? お試しでもいいからさ、付き合ってみようよ!』
『うーん……』
今でも、あの時聞いたやり取りを鮮明に思い出せる。
悠陽の声は、嫌がっていなかった……ような気がする。
結局、次の日にあかりが事故で死んで、それからだんだん悠陽と俺は疎遠になっていった。
何度かあちらから俺に接触しようとはしてくれていたのに、俺はそれを受け入れることができなかったんだ。
たぶん、悠陽は俺に相談したかったんだと思う。 今は……今なら、それを理解することができた。
高校を卒業する頃には、もうほとんど話すこともなくなってたっけ。
ろくな友人もいなかった俺に同窓会の知らせが来るはずもなく、卒業後の彼女がどこでどうしていたのか、高校卒業後すぐ逃げるように実家を出てしまった俺に知る由もなかった。
ごくり、と唾を飲みこんで、前を見据える。
あかりの声に反応して、片平 悠陽……あの日のままの俺の幼馴染が、こちらへ振り返った。
9.
赤みを帯びた艶のある茶色いロングヘア、夕陽を反射してきらきらと輝く星のような瞳、長いまつ毛が彼女の大きな目を彩って、小さな唇は桜色に色づいている。
全て、全て記憶にあるあの頃のままだった。
いや、当たり前か。 これは俺の記憶をもとにして作られた走馬灯なんだから。
「あ、あかりちゃん! おかえりー、お出かけしてたの?」
「うん、ちょっとね。 ゆうちゃんはどうしたの? こんな所で」
「えーっと……」
気まずげに視線を逸らした悠陽が、後ろに立つ俺を見る。
「あの、あかりちゃん、その人は?」
「え?」
不思議そうにこちらを振り返ったあかりも、俺を見た。
あかりと悠陽、2人が食い入るように俺の顔を見つめている。
やがてあかりはぶはっ! と口から息を噴出させた。
「あはははっ! ゆ、ゆうちゃん、なに言ってんの? おにいだよ、おにい!」
「え? ……え? ……えぇ!?」
3度見された。 2度じゃない、3度見だ。 そんなに?
「わっ、ホントだ! よく見たら祐介だ! なになに、どうしちゃったの!?」
え、今の俺、どうかしちゃったレベルなの?
「どうって、まぁ……イメチェン?」
「高校デビューだよ!」
ソッコーで真実をばらしながら、いたずらっぽく笑うあかり。
別にばれたところで問題はないはずなんだけど、妙に気恥ずかしい。
「わぁ! わぁぁ! わぁぁ……」
俺の周囲をぐるぐると回りながら、悠陽が何度も声を漏らす。
いやこれ本当に恥ずかしいんだけど。
「それより、悠陽はなんの用なんだよ?」
気恥ずかしさのあまり、少しぶっきらぼうになってしまった。
問われた悠陽は虚を突かれたように黙り込み、やがてぽつりとこぼす。
「……祐介にさ、あの、相談……したくて」
「相談?」
そんなイベント、過去にあったっけ?
いや、間違いなくなかったはず。
もしかすると、相談しようとは思っていたけど事故のあれこれでそれどころじゃなかったのかもしれない。
「ならさ、とりあえず上がってきなよ!」
言いながら、あかりは悠陽の横をするりと抜けて玄関のカギを開けた。
「ほら、どうぞー」
言いながらドアを開けてみせるあかりに、悠陽はドアと俺の顔を交互に見て、戸惑っている。
悠陽が俺相手に、相談。 しかもされるのではなく、する側。
そして今日は中学卒業式の次の日……つまり。
大体なにを言われるのか察しつつ、俺は悠陽の顔をしっかりと見返して、頷いた。
10.
リビングで晩御飯を作る母さんに挨拶してから、2階の俺の部屋へと向かう。
あかりはあかりで買ってきた服を早速着るらしく、隣の自室へ入って行った。
冷蔵庫から取って来たお茶をグラスに注いで、ベッド脇の小さな丸テーブルに置く。
クッションの位置を何度も確認しながら、悠陽がテーブルの手前側に座った。
俺も反対側へと腰かけて、向かいで俯く悠陽の顔をのぞきこむ。
「えーと……悠陽?」
控えめに声をかけると、悠陽の肩が大きく震えた。
俺の青春のトラウマを象徴する存在が、今、目の前に座っている。
そのことが俺の口をも重くして、俺たちは2人、しばらくの間黙り込んでいた。
「……祐介、すごいね?」
「え?」
不意にぽつりとこぼれた呟きに、顔を上げる。
さっきまで俯いていた悠陽が、まっすぐに俺の顔を見ていた。
「高校デビュー。 なにか理由とかあるの?」
言われて、改めて考えてみる。 理由。 理由か。
「なにもないかな。 あかりに押されて、こんなことになってるけど」
「……そう、なんだ。 あはは」
なんだ? 悠陽は一瞬、どこか寂しそうな、悲しそうな顔をして、笑った。
「すごい、いいと思うよ。 きっと、高校ではモテちゃうね」
「うーん、そうかぁ?」
あかりにも言われたが、いまだに実感は湧かない。
母さんからもじろじろ見られたし、どうせ夕食の席でなにか言われるんだろう。
「そうだよ!」
「お、おぉ」
思っていた10倍くらいの反応が返ってきて、俺は思わず上体をのけぞらせた。
言った悠陽自身もそんなつもりはなかったのか、また俯いてしまう。
悠陽がなにを言いたいのか、俺にはわかっているつもりだ。
それがきっと、自分からは言い出しにくい部類の話であろうことも。
ならば、こちらから切り出してやるべきだろう。
「昨日さ。 告白されてたな」
『告白』という単語が出たと同時に、悠陽が勢いよく顔を上げる。
その顔は、純粋な驚きに満ちていた。
「……どうして?」
「ごめん、偶然見かけてさ」
「そう、なんだ……」
それだけ言って、悠陽はまた、黙り込む。
15年前の俺だったら、これ以上なにかを話すことなんてできなかっただろう。
しかし、ブラック企業で7年間揉まれ続けた今の俺は、違う。
「その話だろ?」
「…………うん」
長い長い沈黙の後、小さな小さな声で、悠陽は答えた。
11.
「藤井くんに、告白されたの」
悠陽の口からその言葉が出て来た時、なぜか俺の胸がざわめいた。
今までに感じたことのない不快な感覚と共に、その名前を思い出す。
藤井 晶。 成績優秀、スポーツ万能、超絶イケメンと3拍子揃ったスーパー中学生だが、少々性格には難があり、一部の男子からは受けが悪い。
実家もどこかの会社を経営してるとかなんとか……さすがに15年前の記憶だから、うすぼんやりとしているな。
結局、15年前の悠陽はどうしたんだったか。 はるか昔に過ぎ去った記憶を掘り起こそうとするも、咄嗟には出てきそうになかった。
「うん……相談って、そのこと?」
まさか告白の結果を俺に決めろなどとは言わないだろう。
なにを言われるのかさっぱりわからず、俺は悠陽の言葉を待った。
「えっと、うん。 あの……あのね? 驚かないで聞いてほしいんだけど」
顔を真っ赤にした悠陽が、俯きがちにちらちらと俺の顔を盗み見る。
おっと、これは? などと勘違いはしない。 俺はそこまで傲慢じゃないのだ。
果たして発せられた言葉は、やはり当然のように告白などではなかった。
「私……人を好きって気持ちが、わからないの!」
大きな声で言われた言葉を、咀嚼して考える。
人を好きな気持ちが、理解できない。 それでなにが恥ずかしいのか?
あれか? つまり、高校生にもなるのに、初恋もまだなんて! ってことか?
「えーと……だから、告白にどう返事したらいいかわからない、と?」
「そう! さすが祐介!」
勢い込んで返す悠陽の目が、輝いている。 どうやら推測は当たっていたっぽい。
「そんなこと言われてもさ、やっぱり悠陽が決めるべきだと思うよ」
「うぅ、そうだけど……そうだけどさぁ」
至極まっとうなことを言ったつもりなのに、ひどく恨めし気なジト目が飛んできた。
まぁ、確かに今の言い方だと、突き放したように感じてしまうかもしれない。
おかしい、そんなつもりはなかったはずなのに。 悠陽が誰かと付き合う、ということを想像するだけで、どうしても思考にノイズが走る。
「じゃあ、一緒に考えようか。 まず、今回の告白だけど……悠陽はどうしたいんだ?」
「うーん」
おとがいに指を当てながら、悠陽が天井を見上げて考え始めた。
さらりと揺れる長い髪が、室内灯の灯りできらきらと光る。
浮かんだ天使の輪が、その髪のやわらかさを如実に伝えてくるようだ。
……我ながら、気持ち悪いな。 30歳のおっさんが、15歳の少女相手にこんなことを考えているなんて、通報案件だろう。
いや、今は俺も15歳なのか。 じゃあいいのか。 いやよくない。 どっちにしろじろじろ見るのはよくないぞ。
「今は、そういう気持ちにはなれないし、お断りしたいかなぁ」
自分でもわけがわからないけど、その瞬間、大きな安堵感が押し寄せてきた。
思わずクソデカため息を吐きそうになるが、あわてて押しとどめる。
「そ、そっか。 じゃあ、そう伝えるしかないんじゃないか?」
「うん……うん、そうだね。 ありがと、祐介」
ふわりと、悠陽がやわらかな笑みを浮かべた。
咄嗟に言葉が出てこない俺に構うことなく、さらに彼女は口を開く。
「祐介に相談してよかったよ。 やっぱり持つべきものは幼馴染だね」
「……はは、なんだよそれ」
たぶん、きっと、おそらく。 俺のひねり出した笑顔は、ひきつっていたかもしれない。
12.
「それじゃ、祐介、ありがとね!」
大きく手を振って、悠陽が隣家のドアへと消えていく。
俺も小さく手を振り返しながら、その姿を見送った。
至極当たり前のことだけど、やっぱり昔となにも変わっていない。
15年間、俺がずっと好きだった、あの頃の悠陽のままだ。
この『相談』がどういった結果をもたらすのか、俺にはさっぱりわからない。
そもそもただの走馬灯だとしたら、ただ消え去るだけなのかもしれない。
母さんやあかり、悠陽と再会できたことも。
事故で死ぬはずだったあかりが生きていることも。
全部全部、一時の夢なのかもしれないのだ。
そう考えると、途端に恐怖が押し寄せてくる。
俺はもう、この幸せな夢から覚めたくないと思い始めていた。
自室へ向かう前にリビングに顔を出すと、まだ母さんが一人で夕食を作っているところだった。
俺は先に自室へ寄って、買ってきた袋の中からエプロンを取り出すと、再びリビングへ向かう。
「母さん、手伝うよ」
「え?」
フライパンをかきまぜていた母さんの手が止まった。
こちらを振り向いた母さんは、穴があくほど俺の顔を見つめてから、自分の頬をつねる。
「いひゃい」(痛い)
「なにしてるの……」
呆れながらエプロンを身に着けて手を洗い、フライパンを覗き込むと、どうやら今夜のメニューは唐揚げのようだ。
「付け合わせはキャベツでいいかな? 冷蔵庫にある?」
「えぇ? あ、あるけど……」
ひたすら戸惑いながら、母さんが俺の一挙手一投足に注目している。
まぁ、それはそうだろう。 15年前の俺は料理なんてしたこともなかったから。
実家を出て、一人暮らししながら、最初は食費を浮かせるために始めた料理。
ブラック企業時代にも他に趣味を作るような時間がなかったこともあり、なんだかんだ趣味代わりにずっと自炊を続けていた。
おかげで、今ではこの有様だ。
(ストトトトト)
リズミカルに包丁がまな板を叩き、キャベツが次々と千切りにされていく。
「わっ、わっ……だ、大丈夫そう、ね?」
その様子を初めは恐々と眺めていた母さんだが、次第に安心してくれたらしく、次第に調理を任されるようになった。
実家の台所に、母さんと2人、並んで料理を作る。
これもまた、今ではもう叶うことはないと思っていた、しかし俺がひそかに叶えたいと願っていた夢の一つだ。
「それにしても、祐介、あんたいつの間に料理なんて覚えたの?」
「えっ!? い、いや、ほら、これからは男子も料理できた方がいいかなって!」
「なぁに、それ? 変な子ねぇ」
しまった、料理男子が本格的に流行るのもまだ先だったか。
少し変には思われてしまったけど、調理を続ける母さんはとても嬉しそうだったので、全て良しとしよう。
13.
夕食でイメチェンの件を散々にいじられてから、風呂に入り、身支度を整えて自室へ戻る。
窓の外には、隣家……片平家が見えた。
いつ覚めるかわからない夢ならば、覚めるその時までは目いっぱい楽しもう。
そしてそのために俺に必要なのは、なによりも努力だ。
中学までの俺は、日々をただ無為に過ごすばかりで、何一つ夢中で打ち込むようなことがなかった。
それは高校、大学、社会人になっても変わらず、自分がなにかを成し遂げたような記憶は一切ない。
俺の人生、本当に後悔ばかりだ。 夢の中でくらい、後悔をしないために、努力ってやつをしてみてもいいんじゃないだろうか?
手始めに、昼間買ってきたダンベルを取り出して、筋トレをしてみる。
両手に持ったままスクワットしたり、肩に構えて頭上に持ち上げる動きを繰り返したり、二の腕を押さえてダンベルを持った前腕部分を上下させてみたり。
もちろん普通の腹筋や背筋などの自重トレーニングも行ってみた。 結果。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁぁぁ……」
たかが筋トレで、全身汗だくだ。 せっかく風呂入ったのに。
ろくな運動もしてこなかった人間が、急に張り切りすぎただろうか。
いや、そのくらいでなければ、努力とは言わないだろう。
息が整うのを待ってから、俺は続いて机に向かい、入学予定の高校の教科書を取り出した。
まずはぱらぱらと開いて、流し読みしてみる。
「うわ、意外と忘れてるなぁ」
15年前に習った内容だ、無理もないのかもしれない。
数学はほとんど暗記科目だ。 方程式を覚え、二次関数さえ理解できれば、そこまで一年生で苦戦することはないだろう。
問題は国語かもしれない。 古典とか、正直社会に出てから一度も使ったことがないし、全然覚えてないわ。
しかし、なんだろう。 15年前にはなかった感覚だ。
勉強が、楽しい。 努力している実感を感じられることが、心を高揚させる。
結局その日、俺の部屋の明かりは深夜を過ぎてもまだ消えることがなかった。
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