第5話 木蓮の前奏曲
「やっと終わった......」
円佳と無事結ばれてから2日。鹿治は部下から預けられた例の交渉仕事を終わらせた。予定では午前中には終わらせる予定だったのだが、もう既に外は夕焼けが街を照らしている。
「流石にお腹が空いた......」
交渉仕事は途中の中断もなかった。必然的に男は昼食もまだ食べていない。昼食というよりどちらかと言えば夕食と言った時間帯だが──男はやや遅めの昼食を食べに向かった。
この時間帯でも空いている、鹿治にとっては馴染みのいつもの定食屋で飯を待ちながら男は考えに耽っていた。
「(ついに明日、か......)」
円佳との交際に当たって、彼女が高校を卒業するという一つ目の壁は乗り越えた。しかしもう一つ、大きすぎる壁が残っている。
「(円也さん......社長に何て言えば......)」
両親に彼女との交際を許して貰わなければならない。そして病室で彼と初めて会った時よりその難易度の高さを彼は理解していた。
「(社長は仕事とプライベートの区別がはっきりしている方だ。仕事では──頑張っているつもりだけど円佳との交際を許して貰えるだろうか......)」
しかしどれだけ悩んでも円佳の両親に挨拶をしに行く日は既に明日だと決まっている。彼女に頼んでわざわざ予定を空けて貰っている。多忙な円也の事だ。予定の延期は許されない。
「(余計な事を考えずにただ実直に、思った事を素直に言えば......)」
考えたって仕方がない。鹿治は白米をかき込んでから明日への気合いを注入した。
──────
そういえば、円佳と出会うきっかけでもあるあの誘者と出会ってから、男の身体にはある変化が生まれていた。
「あの人もかなり取り憑かれているな......」
今までは見えなかった、人々に取り憑いている死神の姿が見えるようになっていた。取り憑いている死神は皆同じ顔であるがその大きさは人によって異なる。
以前、人体のほぼ全てを覆い隠すように巨大化した死神に取り憑かれていたサラリーマンが翌日のニュースで自殺した事を知った時、鹿治は死神の正体を悟った。
あれは恐らく人間の心に宿る負の感情だ。
まあ、それが分かったからと言って男にできる事はないと言っても過言ではないのだが......。自殺志願者の気持ちを取り除く事の難しさは彼がよく知っている。
街を歩けば、満員電車に揺られて通勤する労働者には大なり小なりほとんど死神が宿っており通勤時間をズラして自らの気分の平穏を保つ事くらいしか鹿治にできる事はない。
尚、余談ではあるが今日の交渉相手のように、他人に対して威張り散らかす傲慢な人に死神が取り憑いている様を彼はあまり見た事がない。
変化は日常の些細な場面に引き起こる。遅めの昼食を食べ、代金を支払いおばちゃんの「ありがとね〜」と言った言葉を受けながら定食屋の扉を開いた時......
「何だあれは......!?」
目の前を男子高校生が通った。近くにあるこの近辺では有名な、かつて鹿治が合格だけした公立高校の制服を纏った。
しかし男が気になったのはそこではない。
憑いているのだ、どうしようもなくその肩に。
但し違っていたのはその色。今まで見てきた死神は皆どんよりとしていた灰色か黒をしていたが、目の前の死神はまるで血液の色をしていて、何より他では感じる事ができないほどの禍々しさを放っていた。こんなもの、これまで見た事がない。
「......気になるな」
鹿治は男子高校生の後をつけてみる事にした。
「......ここは」
男子高校生の後を尾けていき、辿り着いた場所は男のよく知る場所だ。
「(俺があいつと出会った場所......)」
崖から飛び降りれば間違いなく命を落とす事ができる自殺の名所だ。
死神を背負った男子高校生が一人この場にやってきてする事は──決まっている。そしてかつて誘者に救われた自分がやる事もまた──決まっていた。
「君は......死ぬつもりかい?」
「ずっと後ろを着いて来ていると思ったら、いきなりなんですかおじさん」
「おじ......さん......」
男はまだ20代前半なのだが──高校生からしてみればおじさんに見えるらしい。
「(絶対にこいつの望みを阻止してやる)」
歪んだきっかけから、鹿治(21)は高校生の望みを妨げる事を決意した。
「俺も前は君と同じようにここから飛び降りようとしていた事があってね。まあ、その時助けられたんだ。はっきり言う。俺がしようとしている事は自己満足だ。それでも──君が死ぬのを止めたい。君の話を聞きたい」
「そうですね......。今まで誰にも話してきた事無かったし──どうせ最後だから話してみるのも一つの手か......?
じゃあおじさん。僕の話、聞いてもらえませんか?」
そこで鹿治は初めて気づく。得体の知れないのは男子高校生に取り憑いていた死神だけではない。死神に取り憑かれていた彼自身からも──底知れぬ違和感が発せられていた。
「あと君って呼ばれるのは何だか嫌です。浅田慎也って言います。浅田と呼んで下さい」
「分かった。俺は鹿治だ。まだ20代だ」
暗に「おじさん」ではないぞと伝えた鹿治だったが──さて、彼の意図は浅田に伝わったのか......?
「じゃあおじさん。突然ですけど人間の三大欲求って知っていますよね?」
伝わらなかった。
「食欲と睡眠用。......それに性欲だろ? それが何なんだ? あとさっきも言ったが俺は別におじさんじゃ──」
「じゃあその欲って何のために存在すると思いますか?」
「何のためって......そりゃあ生きるためだろ」
あ、もうおじさんって呼称が定着しちゃったのね、と鹿治は感じたが──もうそれを訂正するのは彼を止めてからでいいだろうと考える。
「そうですね。欲が何のために存在するのか、それを知るにはその欲が無かった時を想像してみればいい。食欲がもし無ければ私達は物を食べなくなるかもしれません。生物はエネルギーを取り込まなければ生きていけない。......エネルギーを取り込まずに活動できるよう進化でもしなければ──死ぬでしょうね」
「睡眠欲も同じだな。睡眠がなぜあるのか、一説には餓死しないためとか色んな説があるが──どちらにせよ人間は眠らなければ死んでしまう」
「──なら性欲は?」
「............」
元々鹿治と浅田以外人がいなかったという事もあったが、高校生の問いかけに鹿治は答えられず辺りは静寂に包み込まれた。なぜ答えなかったのか? 性欲という単語に羞恥を感じたからか? それとも......
「性欲は満たされなくとも死にはしない。生涯童貞のまま死んだ偉人さえ世にはいます」
「......ニュートンとかか」
「ええ。そしてそもそも性欲という欲求がなければ性欲を満たせずに苦しむ事もない」
子どもがいない事による老後の孤独、などはあるかもしれないが何にしても浅田が言いたい事はそういう事ではないのだろう。
「性欲は私達人間のための欲ではない。人間全体の──言うならば人類の祖先のための欲です。増えるための。
つまりまあ、言い換えれば──性欲に負けて人生を棒に振るような人達は人類の祖先の操り人形になってるって事ですね。私達は本来自分達のためじゃない欲求を本能的にプログラミングされている。僕達が望んだ訳でもないのに」
「さっきから何の話を......。俺は君がこんなところでそんな事をしようとしている理由を聞──」
「そういえばおじさん、自動車を売っている人ですよね?」
「話聞けよ......。何でそれを?」
「おじさん、月松自動車の名札付けてますから」
「......たし......かに......」
浅田が指差した先には──確かに自分の名前と所属が記されている名札があった。
「自動車を買う人は──まあ理由は色々とあると思いますがどうして買うと思いますか?」
「俺は調達部であって営業部ではないが......まあ、自動車って他の業界よりも結構かっこいいCMが作られる事が多いだろ? やっぱりかっこいいからってのはあるだろうな」
「では、どうして人はかっこいい車を求めるのでしょうか」
「そりゃあまあ......ステータスになるからだろうな。単純に自動車が好きだと仰られるお客様もいるだろうけど、大半はやっぱり見栄、ステータス、そんな理由だろう」
「ではなぜ人は見栄を張りたがるのですか?」
「そりゃあまあ色々あるだろうが......仮に男であるならば自分が高いステータスである事を示せば──より良い女性と交わる
鹿治の思考は、先ほど浅田から出された「性欲」という言葉に支配されてしまっていた。が、高校生の質問はここで終わらない。
「ならどうしてより良い女性と交わりたいと思うのですか?」
「それは......」
今までと同じく簡単に答えられそうだったのだが......先ほどの会話が頭によぎって、そして意外にも言語化するのは難しく答えに窮してしまう。
「そう。欲望には理由がある欲望と理由がない欲望があります。それは単純な理由で、その欲望が手段にあるのか目的にあるのかに尽きます。
無論様々な手段はあるでしょうが、女性と交わる手段として人は高いステータスを求め、高いステータスを得る手段として人は自動車を求める。しかし女性と交わる事は手段ではなく目的であるため理由など存在しない。
勿論世の中には政治的な理由から女性との交わりを望む者もいるでしょうけど、それは単に最終目的の設定が異なるだけであって、また問答を繰り返していけば同様の結果に帰着します」
「お、おう......」
一向に話が見えない鹿治であったが、浅田は全く気にする事なく続ける。まるでそういう反応には慣れているみたいに。
「三大欲求のように最初からプログラミングされた欲望は私達には理由の説明も難しい本能です。そしてその本能的欲求を満たすための手段として理性が、理性的欲求が存在します」
つまり浅田が言うには、理性と本能は相反する存在ではなく本能という目的を叶えるための手段こそが理性であるという事らしい。
だからといって鹿治からすれば「ふんふん成程......。で?」と言わんばかりではあるが。
「そしてさっきの車の例えみたいに、なぜその理性的欲求を叶えたいのか? と追求していけば必ず原始的欲求に辿り着く。......まあ、この世の全ての欲求を検証した訳じゃないですから原始的欲求に辿り着かないという証明は難しいですが──少なくとも僕はその例を一例も知りません。おじさん、何かあったりしますか?」
「......そんなすぐには思いつかないな。それよりだ。何だこの話は。一向に君が死を選ぶ理由が見えてこないんだが」
「......え、何言っているんですか? もう説明の八割は終わったんですが」
「......は?」
何やら哲学の講義を聞かされているようで、鹿治は全くこれがどう浅田の希死念慮に繋がるのか──さっぱり分からなかった。
「いいですか? 僕たちの本能に刻み込まれた原始的欲求は僕達が望んだものじゃないんです。つまりそれは僕達の先祖のためにプログラミングされたようなもの。そして理性とはその原始的欲求を達成するための手段でしかない。つまり......僕達は自分で考えて行動しているように見えて──実は人類の祖先の操り人形でしかないって事じゃないですか」
「......まあ、確かに?」
「何ですかその反応は。いや、最初から想像はしていましたが」
浅田の言った事、鹿治にとっては「まあ、筋は通っているのかな?」と思うばかりで、しかし全くと言っていいほどに心に響くものじゃなかった。
「......続けますよ? 僕達は生きているだけで人間の操り人形になっているんです。少なくともこの輪廻から外れて解放されるためには──死ぬしかないんです。この感情がそもそも原始的欲求なのかもしれませんし、死んだ後にどのような世界が広がっているのかは死んでみないと確かめる事はできませんが──死なないと始まらないんです。これが僕が死を望む理由です。
そういえばおじさん、僕の自殺を止めたいんですよね? なら死ぬ以外でこの輪廻から解放される方法を教えてくださいよ」
「はぁ......」
とても自殺するかどうかの話とは思えないほどに締まらないテンション。会話の緩さ。その雰囲気を占めていたのは当然......
「(全く分からなかったぞ......?)」
最後まで聞いても鹿治が浅田の意見に全くと言っていいほど共感できなかったからだ。理解はできる。その論理もまあ、理性的な部分では納得できる。しかしその実全然彼の意見に心から納得できるか? と聞かれればあり得ないと言った回答をする始末だ。命を失う、という人間にとっては大きすぎる選択の最中であるというのに。自分が経験したからこそ分かる事だが死の直前とはこんなにも飄々としているものなのか?
「(......まさか!?)」
その瞬間、鹿治はなぜ浅田に取り憑いていた死神のイメージが他のものと異なっていたのか気づいた。が、それを確かめるには既に時が足りない。
「じゃあさよなら、おじさん」
声に釣られるように顔を上げると浅田は既に片足を地面から離しており──次の瞬間には彼の姿は自由落下によって消えてしまったからだ。
──────
「(一体何だったんだあれは......)」
目の前で人間の死を見たというのに鹿治の心情は恐ろしいほどに落ち着いていた。もし浅田と話さずにただ現場を見たならば──人並みに心が揺さぶられ、何なら酷いショックを受けていた事だろう。
ショック──は受けている。が、それは浅田の死に対するものではなく......
「(......狂っている......)」
浅田の態度についてだ。通常自殺に至る人間というのは精神に強いダメージを受け、その現実から逃げるための手段として本能的に死を求めるはずだ。つまり死を目前とした状態であんなにも飄々としていられる訳がない。事実、過去の鹿治もそうだった。
明らかに自分と浅田では何かが違う。最初に感じた違和感は終ぞ最後まで消える事はなかった。
「(彼の自殺を止める......? できる訳がないだろ......)」
自分がかつて誘者によって救われたように、自分も誰かを助けたいと思った。......が、
「あれは流石にイレギュラーすぎるだろ......」
思考回路が違いすぎる。あいつは頭のネジがどうにかしている、と感じた。とても説得などできる雰囲気でもなかった。
ここは自殺の名所と呼ばれるように流れが早い海流の上に飛び出た、高さも十分にある崖。意味はないかもしれないがそれでも警察に電話しなければなと思い、電話を手に取った。
「はぁ......
「誰のようになれないって?」
「うわぁ!!」
まるでいつぞやと同じように、急に背後から話しかけられる。聞き覚えのある声に驚嘆して鹿治はスマホを崖底に落としてしまった。咄嗟に手を伸ばそうと思ったが──かつて自分がその底に飛び込もうとした事、そして先ほど浅田が飛び込んだ事が脳裏によぎり、即座にスマホを諦める。
「いきなり危ないだろ! 死ぬところだったじゃないか!!」
「はぁ、これでも死なないかぁ」
「......は?」
話が噛み合わない。目の前の彼は間違いなく鹿治にとって命の大恩人。なのになぜか彼の背中には冷たい汗が流れる。
「ひ、久しぶりだな」
「ん? ああ、そうだね」
「あんたに助けられたこの命、無駄遣いしないように気をつけてるよ。そしてあんたみたいに俺も誰かを助けようと......まあ、さっき失敗しちゃったんだけど。それでも俺、ずっとあんたに感謝したかったんだ」
「......感謝?」
「ああ。あんたのおかげで俺は命を断つ事を諦めたんだ。あんたがあの時、賭けなんて嘘で俺を煽ってくれたおかげで、俺は自分の命について考え直す事ができたんだ。今、俺はあんたのおかげで幸せだ」
「ああ、そういう風に捉えたのか。でもそっかぁ、それは良かったなぁ」
「ああ!」
「本当に......良かったなぁ」
「......は?」
鹿治が今の自分が幸せだと言った瞬間に──誘者の顔は黒く歪んだ。
「オメェもまだ生きてるみたいだし──賭けはオラの勝ちって事でいいなぁ?」
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