静謐な蛸で踊る
西島渚
第1話(最終話)
ローションを手のひらに塗る。今日、園芸部の田中くんが不登校になって、学校に来ない子どもたちは学年全体の一割を占めた。
教師という職業の優劣は、残酷なほど単純に決まる。同僚、主任、校長や教頭、保護者、そして生徒からどれだけ多くの「納得」を得られるかどうかだけだ。生徒をどう扱うか、そして生徒にどう向き合うか、学級内や部活動での立ち居振る舞いやテストの成績を鑑みて、彼らが「納得」できる学校を作る。それが、優れた教師だ。
田中くんは、クラスでもとりわけ個性のない子だった。誰も趣味や興味を知らず、担任である私も園芸部への入部動機すら知らない。
「息子が学校に行きたがらないんです。多分一時的なものだとは思うんですけど、早く行かせるようにしますから」
今朝掛かってきた電話の内容より印象的だったのは、母親の悔しさと情けなさが滲んだ独特な声色だった。私はマニュアルや経験則から漏れず、声色を少し下げて母親に同情した。
一年三組は四十人のクラスである。ただ、全員が揃ったことは一度もない。
「それにしても大変だねえ、昼も夜も働いているなんて、感心しちゃうよ」
ホテルの一室を共にする男が、半裸になって言った。
「いえいえ、そんなことは」
「大丈夫なの?色々」
「ええ」
自分の声が嫌いな私は、できるだけ早くこの暗がりに塗り潰されるように声を抑えて言った。秒針が騒がしく時を刻む、午後十一時二十六分だった。
ローションを入れた風呂桶を床に置き、手足の爪を切る。すっかり馴染んだ日課だ。私はリズミカルに爪を切りながら、視界に映る様々な物質に意識を流した。枕、父の枕は酷い臭いだった。フロントに頼むことができるフードメニュー、フォントが学年便りに使っているものと同じ。蓋が外れたゴミ箱、明日は粗大ゴミの日だ。そんなつまらないことを延々と考えながら、十本の四肢に伸びた白いタンパク質を断つ。
男は「マメだねえ」と呑気に言った、彼の指には真っ直ぐな毛が生えていた。
さらに、私は視界を超え、自らの潜在意識に目を向ける。自身の置かれている様々な状況が、来年改装される最寄り駅の巨大な立体図のように鮮明に緻密に浮かび上がった。仕事、人間関係、経済、心身など様々な要素を孕んだ状況は、コンマ一秒の単位で変動を遂げる。昨日はあったトイレがなくなっていたり、行き止まりの先に新しいホームが発生したりするのだから管理のしようもない。今日の状況は頗る悪かった。原因は親からかかってきた電話だ。
両親は「教育」を体現した人間だ。二人とも教員生活を三十年以上続けながら子供の行事には積極的に介入し、飽き飽きしているはずの授業を自宅で私だけに対して披露する。おかげで順調に成績が伸びてしまった私は、期待という光を正面から浴びた結果、これまた順調に親と同じ道に進んだ。
「まあでも、君はきっと優秀だろうね」
半裸の男が私を見つめながら言った。そのセリフは奇しくも、電話で聞いた親の言葉と同じものだった。親はいつも私を褒める、修飾語はいつも「優秀」か「誇れる」の二つ。二人とも国語の教師なのに、我が子のこととなると語彙力は消失した。当の本人たちは気付いていないようだが。
「優秀じゃないですよ。『優秀であるように見せる』ことが上手なだけです」
軽く返事をして、シーツに付着したローションを拭き取った。私にはよく「勤勉」や「真面目」という言葉も飾られる。皆勤賞は当たり前、学級委員長や生徒会の書記も難なくこなした。その度に周囲は私を評価し、一定の「納得」を与えてくれる。私はその言葉を啜り、餌にして地を這いながら悠々自適な学生時代を過ごした。
他者をいじめた経験はなかった。もちろん、いじめられた経験もなかった。
現在勤務している学校は、私にとって二校目である。一校目は街の東端にあり三階から綺麗な海が見える学校で、素行の悪い生徒もおらず大半はボランティアと勉学に注力していた。私の母校でもある。教鞭を取ったのは僅か一年だったが、非常に充実した一年であり、生徒たちの好奇心に満ちた瞳と教室に響き渡るシャープペンシルが走る音は、今でも脳裏に焼き付いている。あの時は、本当に楽しかった。私は自身に納得して彼らに「納得できる」選択の数々を与えていたのだから。
しかし去年、人員不足や何かしらの配慮が起こって私は急遽この学校にやってきた。街の西端にあり近くには山しかない、寂れた学校。生徒数だけは以前赴任していた学校を上回っていて、朝から晩まで彼らの鳴き声が響いている。彼らはカラスでもコウモリでもないが、不快感はそれらを優に上回っていた。動物と違って不快な鳴き声の内容が同じ種族として分かってしまうことも、より私を苛立たせた。
一ヶ月前、ある女子生徒が学校に来なくなった。彼女は他の生徒と違っていじめを受けていたわけでも素行不良があったわけでもなく、単純に学校に来られない日が続いていた。どういうわけか、職員しか知らない理由が生徒に広まりあっという間に周知の事実となってしまった。
「あの子、学校休んでおばあちゃん洗ってるんだって」
私が国語の授業を受け持っているクラスの生徒が、そう囁いていた。おばあちゃん洗ってるというのは隠語などではなく、文字通り血縁がある祖母の介護を意味している。病気で歩くことができないため、家事や世話のほとんどを彼女が見ていた。彼女にはまだ四歳になったばかりの妹もいる、幼稚園への送り迎えも彼女の役割だ。
他に家族はいない。両親は家に帰って来ず、五つ年上の姉は男と結婚して出て行った。
私がその生徒と会話を交わしたのは、たった二回だけ。一度目は、一時間目の授業に遅れてやってきた彼女の遅刻届を受理した日。あと十分程度しか授業は残っておらず、環境学者が書いた評論の最後の段落を解説していたため、きっと彼女は内容をほとんど理解できなかったはずだ。当時、彼女に対して特筆すべきはなかった。自分のクラスの生徒でもなかったし、下の名前すら覚えていなかった。そんな彼女に対して特別な感情を持ち得たのは、こっちの仕事を始めてからだった。
学校からは遠く離れたこのホテル街に入る前に、小さな商店街がある。私はその向こう側へ、彼女はその商店街に用があったらしく休日の昼間という奇妙な時間帯に私たちは鉢合わせた。意外にも声を掛けてきたのは、彼女だった。
「先生、こんにちは」
「わっ、びっくりした。どうしたの?こんなところで。お家から遠いでしょ?」
「この辺りはいつもお野菜が安いの。先生も買い物?」
その時、どんな返事をしたのか覚えていない。とにかく彼女の笑顔の眩しさが私を狼狽えさせていたことだけが、記憶にある。彼女はうさぎが刺繍された手さげを大事に抱えて言った。
「そういえば、先生のこの前の授業、面白かったよ」
「この前って、環境問題の?」
「うん。あの評論の授業は一回も出られてなかったけど、先生の解説がすごく嬉しかったんだ。なんというか、家で読んだときに思った感覚と似てたから」
「家で教科書を読んでるの?」
「うん、五教科は一通り」
この学校でそんなことをしている生徒は聞いたことがなかった。私の驚きが表情に出てしまっていたのだろうか、彼女は熟れたトマトを右手に持って私に微笑んだ。
「意外でしょ。でも、それが大事だって思うんだ。私はちっぽけだから、ひょっこり消えたって何も変わったりしない。でも、私だけは、私が変わっていく過程を感じることができる。昨日より今日は、今日より明日は知識が増えているかもしれない。おばあちゃんが良くなって、お姉ちゃんも母さんも父さんも帰ってくるまでは言わなくても、連絡をくれるかもしれない。妹は、新しい友達を見つけて話してくれるかもしれない。小さい希望の一つを込めて、苦しいことに柔らかく取り組む。先生の言葉は、私だったんだよ」
彼女は授業での私の言葉を引用した後、文字通りクラスから消え去ってしまった。彼女の言うことは事実だった。確かに自分がクラスから消えても何も変わらず、彼女の苗字を口にする生徒も昼休みになれば他の話題で盛り上がって、二度とその名は口にしない。他の教師も彼女が来ないことに慣れてしまって、担任は朝の出席確認で名前すら呼ばなくなった。
「ねえねえ、そんな辛気臭い顔してないで、ほら」
男は痰の絡んだ声で、遠のいていた意識を攫った。椅子から立ち上がりベッドに潜り込んで仰向けになると、待ちくたびれたように見つめてくる。踊りの開始を告げる合図だ。
私はローションを掬って太ももに馴染ませた。こんなことをしていると、ある錯覚に陥る。粘液を纏わせ、ゆっくりと足を動かし、薄暗く狭い空間の中で息を潜める。
ああ、蛸だ。私は蛸だ。墨を吐こうとも獲物を捉えようともせず、ただ足を動かす蛸なのだ。
「じゃあ、始めますね」
掠れた声と共に、私は男に近寄っていつもの踊りを始めた。男はすぐに悦び始めた、誰でも満点が取れるくらい簡単な小テストだ。
もう踊るのは飽きてしまった。教室の前に立つのも、文章を音読するのにも、何もかも飽きてしまった。見飽きた名簿、見飽きた表情、見飽きた評価、うんざりするしかない記憶の中に一つだけ、商店街で見せた彼女の笑顔だけが灯台のように光を放っていた。
太ももに温い電撃を感じる。私はきっと待っている。いつの日か誰かが私を見つけて、鋭く尖ったモリで突き刺してくれることを。静謐に踊っていた蛸は苦しみ、墨を吐きながら海の砂に頭を寝かせる。誰にも捕獲されたくはない、そのまま朽ちて養分となれれば。
こんな馬鹿げたことを考えていると、決まって浮かび上がるのはあの女子生徒の笑顔だった。彼女が私を刺してくれれば、きっと素晴らしい墨が吐けるに違いない。
静謐な蛸で踊る 西島渚 @Nagisa_00
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