第12話

 阿弥田が戻ってきたのはそれから一時間くらい後だった。満足そうに尻尾を振る太郎を連れて戻ってくると、オフィスチェアに腰かけた僕の足元に目線を落としてにっこり微笑んだ。


 汗を拭う儀保の横に、血管の青く浮き出た出た僕の素足が現出する。


 僕はじっと自分の足を見た。


二つの足はいまセグウェイの拘束から解き放たれ、固い皮をむいたパパイヤのように白く濡れて、合成樹脂の床へ投げ出されていた。


 こんなにまじまじと自分の足を見たのは、研究所の芝生を思い切り走ったあの時以来だった。


「おめでとう明君……でもこれだけで満足してちゃいけない。僕たちは競歩部だ。早速歩いてみなくちゃな」


 阿弥田が悪戯っぽく僕に目配せして言った。

 肛門がぞわぞわした。本当にそんなことをしていいのだろうか。ヘルパーさんに怒られないだろうか。僕の内側では怖さとワクワクが二つの液体のようにせめぎ合っていた。


「立てるかい?」


 阿弥田は僕の横に屈み、自らの肩を差し出した。僕はその肩に掴まりながら、どうしようもなく膝がうずうずしているのを感じていた。僕は阿弥田の肩を支えにし、よろめきながら立ち上がった。


 樹脂の床の独特の感触が足の裏へ直に伝わる。足を大きく八の字に開きながらバランスの取り方を探った。セグウェイを操るのとはまた違う。片足ずつの正しい配置や踏ん張る力の分配が、歩くことには必要だ。


 言うことを聞かない足をなんとか動かしているうち、ぼんやりと過去の感覚を思い出してきた。あのとき自分がどのように地面に立ち、どのように歩き、どのように走り出したかを。


 コツをつかんだ僕は、自分の足でこの世界に立つことに成功していた。阿弥田の肩を借りながらではあったけれど。


「完璧だ……よし、もういいぞ!」


 阿弥田が大声を出した。


 それと同時に、前方のシャッターがガラガラと音を立てて上がり始める。


 シャッターの向こう側はすっかり夜だ。煌々と照らす照明棟の光と共に、足元から向こうの景色が現れてくる。赤茶色い合成ゴム製の陸上トラック、冴える様な緑の人工芝グラウンド、派手な黄や青や紫の色のランニングシューズ、そして対になったいくつもの大学生の脚部。


 筋肉の上にもったりした脂肪がのっている脚。人一倍長い大腿と下腿を持つ脚。はち切れそうなレモン型の大腿四頭筋とハムストリングスを誇る脚。色白の薄い脂肪と肉割れの跡が見える脚。


 それらの一番奥に一際輝いて屹立する美しい筋肉を備えた脚があった。


 僕の目はそれに釘付けになっていた。


 シャッターが完全に上がる。


 筋肉質でスラリと長く、まるで神殿の柱を連想させる、極致に図らずも到達してしまったような完璧な脚部。


 そんな脚部を惜しげもなく腰から曝け出して微笑んでいるユニフォーム姿の歩美がそこにいた。強烈な白い光に照らされて浮かび上がった彼女の体は、まるで人型の宇宙船のように神々しい。


「大阪公立大学競歩部へようこそ。雅村明君」


 彼女のすらりと長い腕が差し出される。

 僕の中で新しい世界が開ける強烈な予感が弾けていた。




    5



 儀保の運転するコンパクトカーは大阪公立大学周辺の人気のない道を、闇に溶け込むように滑らかに走行していた。


 僕の足元には取り外されたセグウェイが置かれていて、素足が座席下のシートに触れている。


 頭の中では、公立大学の陸上トラックを歩美や他の競歩部の面々と一緒に何周も何周も歩き回った、さっきまでの夢のような時間がくりかえし反芻されていた。


 夜の闇に浮かび上がった何本もの脚。歩美の白く発光したような体。それに導かれて一歩ずつトラックを踏みしめていくあの感覚。


 僕の横には阿弥田が座っていた。阿弥田は、僕を寝屋川の家まで送り届ける車の中で、窓の外の夜空をじっと眺めていた。


「明君、佐野将虎って名前を聞いたことはあるか?」


 唐突に阿弥田がそう尋ねる。首を横に振った。


「佐野将虎。僕と歩美の競歩の師匠で、歩美の実の叔父でもある人だ。五十キロメートル競歩における日本記録保持者であり、幻の世界記録保持者でもある」

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