第13話 悪夢は微笑む(1)
紺鉄が新棟の前に立ったとき、夕日はもう沈みかけていた。
新棟の背後には、夜が押し寄せてきている。
旧校舎からは、文化祭に浮かれる生徒たちの歓声が聞こえてくる。
しかし眼の前の新棟には、人の気配がない。
新棟の周囲の芝は荒れ、植え込みは伸び放題。
5階建ての建屋には緑の非常灯が点々とついているだけで、どの教室も真っ暗だ。
新棟は2年前の春に竣工したばかりだが、去年の冬以来使われなくなった。
学校の経営計画からも外されて、事実上廃棄されている。
新棟にはいつも人がいない。
昼も夜も、平日も休日も、教員も生徒も誰も近寄ろうとしない。
何も知らない新入生などは、悪さをするのにちょうどいいと、タバコを吸ったり、カップルで抱き合ったりしてていたが、二学期が始まる頃にはそういう輩もいなくなってしまう。
みながここは気味が悪いという。
大きな事故や凄惨な事件があったわけではない。
なぜ近寄りたくないのか、誰も具体的に説明できない。
紺鉄は新棟を気味悪いと感じたことはない。
特別霊感が無いのもあるが、それでも紺鉄は去年の秋以来ここには近づいていない。
ここに来ると白月を思い出して苦しくなる。
いまも乗り気はしない。
しかも「中務白月」から招待なのでなおさらだ。
白月からの手紙には「部室で待っています」とだけあった。
白月が主催していた旧オカルト研の部室。
それは新棟5階の第二図書室にあった。
白月はよくそこの一番奥の席で古めかしい本に囲まれて座っていた。
紺鉄が新棟のドアを引くと、ドアは音もなく開いた。
新棟の中は世界の音がすべて遮られたように静かだ。
ホールの隅にオレンジのLEDの光が小さく見えた。
エレベータの表示で「5」となっている。
新棟の電気は生きているようだ。
ボタンを押すと、上の方からクォンとモーターが動く音がした。
エレベーターのドアが開く。
中から白い人工的な光が溢れ出す。
「ん?」
紺鉄は目を細めた。
エレベータの床に学生カバンが落ちていたのだ。
お守りやキーホルダーなどついていない、そっけないカバン。
使用感から見て、持ち主は2年生より上。
エレベーターの中にはほかに、小さい白い丸いものが2つ3つ落ちていた。
手に取ってみるとシャツのボタンだった。
ボタンの穴には引きちぎったような糸くずが残っている。
エレベータに斗鈴が乗り込み、紺鉄は「5」のボタンを押す。
ドアが閉じ、クォンというモーターの音とともにエレベータが動き出す。
エレベーターの表示が2、3,4,と変化していく。
すると斗鈴が紺鉄の袖を引いた。
「いい匂いがする」
「!」
紺鉄がぎょっとしたのと同時に、エレベータは止まり、ドアが開いた。
灯りのついていない廊下に、エレベーターの白い人工的な光が溢れ出る。
眼の前に現れたものに、紺鉄は目をこれでもかと大きく見開らいた。
廊下の上に血が見えた。
床一面の大量の血。
紺鉄は夢遊病のようにエレベーターを降りて血の海に足を入れる。
血の海はエレベータの光が届かないところまで広がっている。
その血の海の中の、エレベータの光と暗闇の境に、白い足が浮いていた。
エレベーターのドアが音もなく閉まると、深い夕闇のなか紺鉄は何も見えなくなる。
これは夢だ。
そう思おうとした。
だが暗がりに慣れた目は、紺鉄に現実を暴露する。
赤い血の海のなかに、白蝋のような肌の女子生徒が横たわっていた。
女子生徒の着衣は乱れ、口は歪み、右目は闇に向け開け放たれ、左目にはガーゼの眼帯。
腹はめった刺しにされていた。
瀬田真朱だ。
紺鉄は血の海を走り、真朱の横に膝をつく。
真朱の傍らには猫のキーホルダーがついた学生カバンが落ちている。
紺鉄は静かに「瀬田」と声をかけた。
真朱の首に指を当てる。
スマホの照明を真朱の右目にかざす。
だが真朱の体は反応しない。
瀬田真朱は死んでいた。
紺鉄は奥歯を噛み締め、真朱のまぶたを閉じてやる。
それから立ち上がり、スマホで警察に通報しようとする。
だが血で濡れた手では、うまく操作できない。
「くそっ」
スマホを叩きつけたくなるのをこらえて、なんとか3桁の番号と通話ボタンを押す。
「もしもし、事件ですか?事故ですか?」と女の声。
「事件です。場所は〇〇市の私立△△高校の……」
紺鉄がつとめてゆっくり話していると、電話の向こうの女が笑った。
「もっと落ち着きなさいな」
紺鉄は咄嗟にスマホを耳から遠ざけた。
心臓が痛むほど脈打っている。
警察ではない。
聞いたことのある声。
一年前、青く燃える炎の中から聞こえてきた声。
「……白月か?」
「久しぶりね」
声は背後から聞こえた。
振り返ると真朱の血の海と反対側に、髪の長い女子生徒が立っていた。
「白月。お前が瀬田を……」
「さあ、どうかしら」
白月は背を向け、暗闇に溶けるように去っていく。
見失う。
紺鉄の体は、引力に囚われたように白月の背中を追った。
斗鈴が何かを叫んだが紺鉄に届かなかった。
白月は廊下の突き当りの扉の前に立っていた。
そして紺鉄に微笑みかけて部屋に入っていく。
扉の向こうは旧オカルト研の根城、第二図書室だ。
紺鉄がドアに手をかけると、斗鈴が紺鉄の腰にしがみついた。
「ねぇ!食べていいでしょう!?」
「おい、いまは」
「お願い、食べさせて!」
「だめだ」
「お願い!でないと紺鉄が……」
「お前はここにいろ」
紺鉄はトンと斗鈴の胸を突き放す。
そして第二図書室の中へ入り、内側からドアを閉じた。
世界から切り離されたような静けさのなかで、斗鈴は両の手の拳をにぎり、肩を震わせてうつむいた。
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