私がいつも、ふつうと言う理由

真倉樺

だれもきずつかない方法

「お母さんとパパ、どっちのほうが好き?」


 私は反応が薄いほうだ。自分の興味のあるものと、ないものとの差が激しいとよく言われる。アニメを観ているときと人の話を聞いているときの目の輝きはまったく違う。アニメを観ているときは「カッコいッ!」と発狂しては、同じシーンを何度も再生している。しかし、「昨日は〇人のお客さんが来て、ほんと大変だったぁ」とか「この服、□□で買ったの。○○っていうブランドで~」という話のときには、目に光がともらない。あのドラマで共演していたふたりが結婚したとか、不倫をして離婚をしたとかも、ほんとどうでもいい。今日出たうんちの重さくらいどうでもいい。知人じゃあるまいし、たとえひとまわり年下の人と結婚してもいいじゃないか。


 感情がないわけじゃない。人見知りだってする。リモコン争いだってする。けど、純粋にすごいと思えることが少なくなった。「へえ」で終わってしまう。だから記憶にも残らない。


 私の無表情・無反応は、今に始まった話じゃない。こどものときからそうなのだ。髪の毛で遊ばれても、ほっぺを触られても、まったく反応をしなかった。他人からみれば、「なんて愛想が悪いんだろう」と思われるかもしれない。母はいまだに「あんたは本当になにやっても、カメラを向けても無表情だった」と笑いながら言う。「でもそれが好きやった。お母さんとパパ、どっちのほうが好き?って聞いても、どっちも~って答えるし。じゃあ、お母さんのこと、好き?って聞いても、ふつう~って」

今では家族の笑い話になっている。


 私はその質問が苦手だった。小さい頃、具体的には幼稚園より前だったと思う。どちらが好きかなんて。どちらかを選べば、どちらかは選ばれない。選ばれなかったほうはきっと悲しむ。幼いながらにそう思っていた。だから、「どっちも」と答えていた。おそらくあまり家にはいないが、たかいたかいをしてくれていた父のほうがほんの少し好きだったのだと思う。私にデレデレだった母の前でパパのほうが好きなんて言えなかった。


 好きかどうか聞かれて。きらいじゃないし、好きだったけど、照れくさくて素直に好きと言えなかった。だから、ふつうと答えるか、もしくはうなずくほどの反応しかしていなかった。母はそれを見て、面白がっているようにも見えた。だから何度も私に聞いた。そのたびに私は困っていた。


 今となっては笑い話になっているこの話について、私が「どっちも」と答え続けた理由を、「ふつう」と言い続けた理由を、知っている者は誰もいない。








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私がいつも、ふつうと言う理由 真倉樺 @Makurakaber

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