よいこと

九JACK

シャンディガフ

 とあるバーにて、カウンターで一人項垂れている青年がいた。座っている姿を見ただけでもわかる。痩身の青年は手足が長くすらりとした印象だ。顔の造形も整っている。その目が真っ暗な洞のように光を失っている様も、ある種人目を惹き付ける。

 向こうのテーブル席ではその青年と同じ年の頃の男女がきゃいきゃいとはしゃいでいた。尚のこと青年の纏う空気が際立つ。いや、向こうの男女が青年を嘲笑っているようにさえ見てとれる。

 からん、と店の扉が開いた。新たな客がまた一人。それはしゃらんと鳴る眼鏡チェーンと貫禄のある雰囲気が特徴的な老紳士だった。年齢を感じさせぬしゃっきりとした佇まいには、なんとなく見ている側も背筋をぴんと伸ばしてしまう。そんな迫力、或いは魅力のある眼鏡の老紳士だった。

 老紳士はきんきんとする若者たちのはしゃぎ声が障ったのか、一度向こうのテーブルを見るが、特に何も言うことはなく、項垂れている青年に話しかけた。

「お隣、よろしいだろうか?」

「……あ! は、はい。どうぞ」

 声をかけられて初めて、青年は老紳士に気づいたようだった。老紳士は一礼して青年の隣の椅子に座ると、見兼ねたように青年に言葉をかける。

「もし。余計なお世話かもしれないが、何かありましたか」

「あ、いえ……大したことではないので」

 青年は慎ましく……というよりは自信なさげに老紳士に返す。

 老紳士はその顔を一瞥してから、言葉を次ぐ。

「私にとっては大したことではないかもしれない。けれど、君にとっては大したことなのだろう? どうせ今晩限りの逢瀬だ。一つ話してみてくれないか」

 気を遣ってくれているのだろう、と青年はすぐ気づいた。故に逡巡する。このまま誤魔化すこともできる。洗いざらい話すのも手だ。どちらがこれ以上、この親切な老紳士の心を傾けさせずに済むだろう、と考えたのだ。

 今晩限りの逢瀬と言っているからして、老紳士は少なくともここの常連ではないことが伺える。それにその言い回し、そして迷わずに自分の隣に来て声をかけてきたことを踏まえると、この人物は、気なんて遣わずに話してほしいのかもしれない。

 青年はそういった計算を重ね、語り始める前に老紳士に確認する。

「話を聞いて、笑いませんか?」

「笑い上戸じゃない自信ならあるよ」

 よほど面白い話でないと笑わないらしくてな、愛想がないと連れにも倅にも笑われる始末だ、と老紳士は嘆息する。聞きようによっては惚気に聞こえるこの一言でも、老紳士は苦笑の一つもこぼさなかった。きっと笑うのが苦手なのだろう。

 堅物、という言葉が似合うようなこの眼鏡の老紳士、そんな些細なことで悩ましく語る辺り、周囲が思うより人間味がありそうだ。この僅かなやりとりで、なんとなく青年はこの老紳士を信頼することができた。意を決して紡ぎ始める。

「実は僕、麦酒が飲めないんです」

「ほう……だが、そこにあるロックグラスのウイスキー、香りからして度数は高いように思えるが、君が飲んでいたわけではないのかね?」

 眼鏡の老紳士はかちゃりと眼鏡をかけ直して、青年の前にある丸い氷の入ったグラスを示す。半分ほど入った液体は琥珀色をして、光の反射で中の氷を宝石のように艶然と煌めかせていた。

 はは、と青年は苦笑し、グラスを手に取り、中の酒を一口含んだ。それは確かにこくりと嚥下され、青年の内腑に染み渡っていく。眼鏡の見立てでは、アルコールが苦手なものなら、一口で引っくり返るレベルのものだ。それを意に介した様子もなく、青年は飲んでみせた、ということは、麦酒を飲めないというのはアルコールが体に合わないという問題ではないらしい。

 青年が語り始める。もしかしたら、今の一口は口の滑りをよくするためのものだったのかもしれない。

「自慢ではないんですけど、僕、酒にはめっぽう強い方で。あそこのテーブルで賑やかにしてるのがいるでしょう? 彼らと一緒に来たんです。彼らは僕が酒に強いことを知っているから、余興でテキーラを一気飲みさせてきました。もちろん、美味しくいただきましたよ。……ただ」

 そこまで楽しげで朗らかだった青年の声が翳りを見せる。老紳士は先の展開がなんとなく予想がついたが、先を促すようにしゃらりと眼鏡チェーンを鳴らして青年の顔を覗いた。

 青年は苦笑いと悔恨の入り交じった表情で続ける。

「その後、みんなとりあえず麦酒を飲もう、ということになって……僕が麦酒を飲めないと言ったら、みんな笑い出して」

 青年が目元を手で覆う。

「僕は麦酒の味が苦手なんです。ただただ苦くて、美味しく飲めないから。そのことも含めて話したら、みんな更に笑って。けらけら笑いながら、『麦酒が飲めないなんてださい』とか『空気読めよ』とか『味が苦手とかガキかよ』など……散々な言われようで……」

 まあ、確かに飲みの席は白けてしまっただろうが、人に得手不得手があるのは当然のこと。酒が一種類飲めないくらいで人を馬鹿にする言葉がよくもまあこんなにも出てくるものだ。

 麦酒とは大衆に愛される……身も蓋もない言い方をすると、安酒の代表である。多くの者が愛飲する。家畜に飲ませて肉質をよくしたり、料理の隠し味にも使える手頃で身近な酒だ。

 子どもの頃にはジョッキに溢れんばかりの泡を湛えた黄金色のその飲み物に憧れたものも多いことだろう。大人になったからこそ、というものの一つでもある。あの若者グループが麦酒で乾杯したい気持ちもわかるというものだ。

 眼鏡の老紳士は、ふむ、と一つ頷く。それから運ばれてきた水を一口飲み、問いかけた。

「それで、居づらくなって、カウンターに?」

「それもありますが……『酒に強いからって調子に乗るな』とか『人に合わせられないやつはどっか行け』と言われまして……やけ酒しようか悩んでいるところです」

 それはあんまりな言われようだ。余興でテキーラを一気飲みさせられたらしいが、そのためだけに呼ばれたのではないだろうか。なんにせよ、まだまだ人生これからというような青年が酒の一つも楽しく嗜めないのは由々しき事態である。

 老紳士はなるほど、と小さく呟いて、それから少し考えてから、青年に告げる。

「君は麦酒を飲めるようになりたいか? それとも彼らのところに戻りたいか?」

 低く渋い声色の中に何を感じたのか、青年は目を細めてここではないどこかを見つめた。

 諦めと決意。相反するような二つの光を宿し、青年は老紳士に返す。

「麦酒を飲めるようになりたいです。苦手があるのは恥ずかしいので」

「そうか」

 それは別に、彼らのところに戻りたくないと言ったわけではない。「彼らのところに戻る」というのは単に老紳士が示した選択肢の一つに過ぎない。

 麦酒を飲めるようになる。なるほど、根本解決だ。賢明な判断と言えるだろう。少なくとも、気まずい気持ちを抱えたまま彼らのところに戻ったり、理性を飛ばすような無茶苦茶なやけ酒をするよりはよほどいいだろう。

 眼鏡の老紳士はマスターを呼び、飲み物とグラスを注文した。飲み物の一つは麦酒である。

 出てきたのがボトルだったので、青年は、この老紳士、実はかなり飲むのでは、と勘づいた。来て一番最初の注文でボトルの酒を頼むとは豪気だ。

 麦酒とあるものがボトルで出てくる。青年は注文を聞いてはいたが、その頭には無数の疑問符が浮かんでいた。

「ジンジャーエール……?」

「ん、グラスも来たな。乾杯するとしよう」

 特に説明もなく、二つのグラスを並べた老紳士は、まず麦酒の瓶を開ける。とくとくと、麦酒がグラスに注がれる。その黄金色は青年にとっても美しく見えた。

 と、見ていると、グラスの半ばほどでその水面が静まる。青年が不思議そうにしていると、もう一つのグラスにも同様に麦酒が注がれ、続いて、老紳士はジンジャーエールの瓶に手をつける。ぽん、と爽快な音を立てて開けられた瓶から、少し深い色の液体が麦酒のグラスへ注がれるさまを青年は目を真ん丸にして眺めていた。

 ちょうど一対一。麦酒のジンジャーエール割りが出来上がった。

「飲んでみるといい」

「え、はい」

 青年は少し不安そうに、けれど好奇心に目を輝かせて、グラスに口をつける。

 きんきんに冷えた炭酸がしゅわ、と広がる音がした。

「美味しい……麦酒のえぐみみたいな苦味がジンジャーエールの味と香りで緩和されてる……」

「なんだ、ご老人、シャンディガフなら作りましたのに」

 マスターがにこにこと笑いながら老紳士に言った。老紳士は真顔で返す。

「作り方が簡単だからな。間近で見せて、覚えた方がこの子にはいいだろう」

「シャンディガフ……? もしかして、カクテルですか?」

 青年が目をぱちくりとすると、店主がご名答、と解説する。

「ご覧の通り、麦酒とジンジャーエールを半々で割ったカクテルだ。麦酒の苦手な人は代わりによくこれを飲むと聞くよ。作るとは言ったけど、メニューにはないな」

「まあ、普通からしたら、麦酒はそのまま飲むものという認識だから、別の飲み物で割るという発想がないのだろう。口に合ったならよかった」

「ありがとうございます」

 青年は老紳士に言うと、一口、また一口と、大切そうにシャンディガフを飲む。

「苦手なものをすぐ好きになることはできない。克服には時間がかかるだろう。代わりになる飲み物としてもシャンディガフは悪くないはずだ」

「カクテルは一つ上級な酒の飲み方みたいなものですからな」

 店主の一言に、眼鏡の老紳士は苦笑を浮かべた。

「酒の飲み方に上級も下級もないさ。飲みたいように飲めばいい」

 苦みを帯びているとはいえ、その老紳士が浮かべた初めての笑みだった。

 いつの間に飲んだのか、空になった自分のグラスに麦酒とジンジャーエールを注ぎながら、老紳士が言う。

「好きなように好きなものを飲むのが一番さ。そういう意味では彼らは間違っているのかもしれないな。だが、いちいち指摘して矯正するような労を負う必要はない。シャンディガフのカクテル言葉を知っているか?」

「いえ」

 青年の声を聞き、老紳士はグラスに広がる琥珀色の水面を見つめた。何かを見定めるように。

 そのまま、ぽつりとこぼす。

「無駄なこと」

「え」

「……シャンディガフのカクテル言葉は『無駄なこと』というのだよ。

 彼らは君の友人かもしれない。彼らは間違っているかもしれない。もしかしたら自分が間違っているかもしれない。様々思い悩み、苦しむことが多いだろう。ただ、相手を否定したり、矯正したりするのは何も生まない。生まれるとして、友情の皹か、君がしていたような沈鬱な面持ちだ。

 どうしようもないことは、無駄なことだと思ってしまうと楽になる。無駄なことには興味も関心も湧かず、感情を抱くこともない。だから」

「無駄なこと……」

 青年は復唱し、こくり、とシャンディガフを口に含んだ。彼の苦手な苦味はそこにはない。ジンジャーエールの効果で爽快ですらある。

 その隣で眼鏡の老紳士もシャンディガフを飲み干す。

 ことん、しゃらん、と空になったグラスと眼鏡チェーンが同時に鳴る。それは思わず居ずまいを正してしまうようなしゃんとした音色だった。

「君は麦酒を飲めるようになるという自分が具体的に努力する方法を選んだ。シャンディガフの麦酒の割合を高めていって、苦味に慣れることができなくても、そう努力したことは無駄ではないし、シャンディガフが飲めるのなら、麦酒が飲めたのと似たようなもんだ」

「あはは、強引ですね。まあでも、ウイスキーも水や炭酸で割りますもんね」

「ああ。飲むなら楽しく飲みなさい。……ああ、乾杯でもしようか」

 既にものすごい速さで三杯飲んでいる老紳士が思い出したように言ったのが、なんだか面白くて青年は笑った。それは人好きのする笑顔だった。

 シャンディガフを注ぎ直して、二人はグラスを合わせる。

 ちん、と軽やかな音が鳴った。

 新たな門出を祝うように。

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