第9話

 さて、最近になって新しい常連さんが来るようになった。

 年齢は30代位だろうか、いつもカウンターの端で本を読んでいる。

 名前をつけるなら・・・「坊っちゃん」。


 そういう名前が付いたのには理由があって・・・。


 ある日の夕方に「坊っちゃん」が初めてやって来た。

「いらっしゃいませ。」とおしぼりとお水をだす。


「当店は、ブレンド珈琲しかございません。がお客様のご要望に応えて淹れさせて頂きますので、リクエストがあればお気軽に言ってください。」


「じゃぁ、まずはスタンダードなブレンド珈琲をください。」


 マスターが豆を炒り始める。店内に珈琲の香りがたちこめる。


「いい匂いですね。」と「坊っちゃん」が言ってくる。


「はい、当店は注文を聞いてから豆を炒りますので、お出しするまでは20分程、お時間を頂いております。」

「それは良かったです。」と鞄から本を取り出した。その本のタイトルが「坊っちゃん」だったので、いつもの常連さんが付けた「あだ名」になったのだ。

 30代の男性に向かって「坊っちゃん」はどうなの?と思っていたら

「僕は夏目漱石が大好きですから、光栄ですよ。」微笑みながら理解していた。

 そこから「坊っちゃん」という名前で定着したのである。


 この「坊っちゃん」は結構、珈琲にこだわりがあるのか、「この前のスタンダードにもう少し酸味が欲しいかな?」と言えば、「この前の味からスッキリとした感じで」と徐々に自分好みの味にして行く。


 このリクエストにマスターは「職人魂」に火が付き、毎回のようにブレンド方法、焙煎の仕方、ドリップの速度と研究を重ねて3か月、「この味ですよ!この味!」と喜んでいた。


「坊っちゃんブレンド」の完成である。


「坊っちゃん」は週に2階、いつも決まった時間にやって来る。

 そしていつものように、一番端の席に座り、本を読む。

 とは言え、いつもの常連さんが来れば、話しに鼻を咲かせているので、本を読む為だけではないようだ。


「カランカラン」扉の鐘が鳴る。

「こんにちは~、納品に来たわよ。」とパティシエ店長がやって来た。

 パティシエ店長が自ら納品に来るのはこのお店に来て珈琲を飲むのが目的の為である。

「数を確認してね!それにしても良かった!このお店で私の店のお菓子が評判良くって。」  パティシエ店長専用のブレンドコーヒーを飲みながら、話している。


「香ちゃん、もう慣れた?」と聞いてくるので

「接客には慣れましたよ。みなさん良いお客さんばかりだから、毎日が楽しいです!」

「そう、よかったって、あなた、何してるの?」と「坊っちゃん」に話しかける。

「あっ、店長!」と本を閉じ、挨拶をしている。


「店長、もしかしてご主人ですか?」

「違うわよ!私の店の店員!あなたも知ってるでしょ?」

 え?知らない・・・。


「あなたが、あそこの珈琲が不味いって店に駆け込んできた時にアップルパイを食べたでしょ?あれは彼が作った物よ。」

「え?知りませんでした。」

「僕は香ちゃんの事は厨房から見ていて知っていましたよ。なんせアップルパイを1ホール1人で食べてましたから」と笑いながら「坊っちゃん」が言う。

「ほう、そんなことがあったのですか?」とマスターが聞いてくる


 私は顔から火が出そうな位に恥ずかしくなって「だって、本当にあの店の珈琲が苦かったんですよ!アップルパイのホールの1つや2つ、食べますよ!」と涙目で訴えた。


 すると「坊っちゃん」は「僕もあの店に行きましたけど、確かに不味かったですね。本をゆっくりと読もうという気にもなれませんでした。もう、行ってないですけど。」


「ちなみにね。」パティシエ店長が口を挟む。

「ここに卸してるケーキの考案も彼がしたのよ。」

「そうなんですか。いつもお世話になっています。」とマスターが頭を下げる。

「この店に合うケーキの考案の為に来てみたのですけど、あまりにも美味しいので、単なるお客さんになってしまいました。」と「坊っちゃん」は照れくさそうに話す。


「ここの珈琲の味が分かるだなんて、さすがは我が弟子!」とパティシエ店長が胸を張る。

「という事で、私共々、これからもよろしくお願いします。」と頭を下げパティシエ店長は店に帰って行った。


「なんで、あの甘味処の店員だって、言ってくれなかったんですか!」と「坊っちゃん」に噛みつく。

 すると「坊っちゃん」は「お店の店員だって言ったら、仕事モードに入ってしまうじゃないですか。僕はこの珈琲の味とこの珈琲にふさわしいお店を楽しんでいるんですよ。」

「あっ、そうか、そうですよね。」と舌を出す。


「正体もばれてしまったようねので、ここでお暇しますね。」と席を立つ。

 なんだか、もう来てくれなさそうね空気だったので「また来てくれますよね?」と言ったら

「もちろん、これからも「普通の客」として顔を出しますよ。」と言ってくれた。


 それから「坊っちゃん」はすっかり常連さんになり、たまにパティシエ店長と一緒に来るようになった。


「カランカラン」扉が開く鐘の音が聞こえる。


「こんにちは。」と「坊っちゃん」がやって来た。

 いつも同じ席に座る「坊っちゃん」は、美味しそうに珈琲を飲んでいました。


 いつもの常連さんが、やって来た。今回も少し遅め・・・。

「いらっしゃいませ。今日も遅いんですね。お仕事ですか?」と私が聞くと

常連さんは手を振りながら「違う違う、大したことじゃないよ。野暮用だ。」

「それよりも、知ってました?「坊っちゃん」がパティシエ店長の店の店員さんだって!」

「香ちゃん、知らなかったのかい?」と聞き返されたので、「私は今日、初めて知りました。」と答えた。


「そうかそうか、知らなかったんだな!俺は知ってたけどな!」カカカと笑う。

「何で知ってたんですか?」

「この間、甘味処にケーキを買いに行ったんだよ。そしたらさ、厨房の向こうから手を降ってくる奴がいてな、最初は誰だ?と思ったんだけど、良く見りゃ、「坊っちゃん」だったって訳。」

「何だ、そういう事だったんですね。店長も知らなかった見たいでしたよ。」

「そうかい!これからもよろしくしないといけないな!」


「おっ、今日はもう帰るわ!じゃあ、またな!」と常連さんは帰って行った。


「最近は常連さん、忙しいみたいですね。マスター。」

「え?ああ、そうですね・・・。」・・・マスターの挙動がおかしい。

「マスター?」

「はい、なんでしょうか?香さん。」

「何か隠しているでしょう?」

「香さんに隠し事はできませんね。実はですね、常連さんの奥さんが入院しているんです。お見舞いや、身の回りの世話で忙しいんですよ。」

「!」大変な時なのに来てくれてるんだ・・・。

「私が言ったことは内緒にしてくださいね。それから、明日からも変わらない接客をお願いしますよ。」

「私に出来ますか?」マスターに直球で聞いてみる。今の自分に自信がないからだ。

「香さんなら、大丈夫、出来ますよ。」マスターは優しく励ましてくれた。

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