Lily

liol

曖昧な感情は苦みで満たして。


 雨が降っている。駅まで歩くだけなことを考えれば傘を買うことは躊躇うけれど、歩き出すのも躊躇う程度の雨。天音は仕事終わりに職場のビルの前で立ち往生していた。

「ドラマ間に合わないな、配信いつからだっけ」そう呟いて空を仰ぐ。雨は微妙な強さで降り続けていた。「傘、ないんですか?」10分ほどスマホを見て時間をつぶしていると、自動ドアが開いて声がした。「ん、ないですけど。そのうち止みます」天音はスマホから目を離さずに答える。きっと傘をくれるか入れてくれるかしたのだろうが、不用意に人に借りを作りたくなかった。「……雨雲レーダーみました?これから強くなりますよ」彼は一歩引いた状態のまま話を続ける。「そうですか、それじゃあ今のうちに帰ったほうがよさそうですね。」天音は彼に目を向けることなく、駅に向かって歩き出した。


 雨の日の帰宅ラッシュの時間というのは、改札や電車の中が混雑を極める。いつもなら自転車を使う高校生まで電車を使いだすからだ。一本遅らせたいところだったが、あいにく田舎の電車というのは本数が少なく、一本遅らせたら帰りは1時間後になってしまう。天音は仕方なく改札を通り、次の電車を待った。


「入り口付近で立ち止まらないでください」少しでも多くの人を入れようとするアナウンスに従って列車の中に人が押し込まれていく。濡れた傘が足にあたって気持ち悪いだとかいう暇もなく列車は駅を後にした。5駅ほど過ぎて、最寄り駅に停車する。運よく雨が収まっていたりしないかと期待したが、むしろ雨音はとどまることを知らなかった。「あーあ、もうあの天気予報信じない」天音は、今朝、降水確率は20%だといった気象予報士を恨みながら家へと走った。


 家につき、濡れた髪を乾かすために洗面所へ行く。外は雨音が強くなり続けていた。「そのうち止みます。」ドライヤーをしながら、天音は先ほど職場の人に告げた言葉を反芻する。


 そのうち。そのうち戻るから。気の迷いだろうから。そうやって放置して隣からいなくなってしまった人を思い出していた。「流果」初めは良かった。当たり前のように傍にいて、一緒に見た月が綺麗だと笑いあった。そういう日がずっと続くのだろうと根拠もなく考えていた。けれどもしばらく会わない日が続いて、いつの間にか業務連絡のようにおはようと送っては、おやすみと返される日々。しばらく経ったある日、珍しく昼間にLINEが来たと思えば、一言「ごめんなさい」とだけ送られていた。さようならとか、別れよう、終わりにしようとかそんなことではなくただ謝罪だけがあった。それから流果がおやすみと返してくれることはなくなった。天音はその日久しぶりに涙を流した。


 土曜日の朝、天音はいつも行く場所があった。流果に会えないかと期待して、居ないことに安堵する。そんなことを毎週のように繰り返すコーヒーショップ。『Lily』と書かれたその店は、流果と一緒に行こうと約束して、結局行かずじまいになってしまった店だった。天音は店の中を一通り見まわして、今日も流果はいないことを確認する。それから自分の定位置と化したカウンターに座り、メニューを見ることなくいつもと同じコーヒーを注文する。店主も天音がこの時間にいつも同じメニューを頼むことを知っているので、待ち時間はなく提供される。


 「あっ」

 天音が目の前の雑誌に手を伸ばしたとき、袖口がカップに引っかかり揺れた。この店のコーヒーはカップの淵ギリギリまで注がれているため、少しの衝撃で零れてしまう。

 店員が気づくよりも先に、カウンターの隣からハンカチを持った手が延ばされる。

 「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

 軽くパニックを起こしていた天音は、半ば反射的にそれを受け取っていた。

「洗濯して返します。いついますか」

 天音はテーブルを拭いた後のハンカチを隣人に見せる。

「いいですよ。」しかし質問に答えられることなく、ハンカチは取り上げられた。

「すいません」どうしようもなかったので天音はとりあえず謝罪だけして、残ったコーヒーを飲みほした。いつもなら雑誌でも読んでゆっくりするところだが、なんとなく気まずさが残ったので、今日は早々に会計を済ませて店を出た。


 週末はこうしてコーヒーショップに行き、帰って見逃したドラマを見るのが日常だった。誰かのために出かけたことなど、ここ数年は経験していなかった。そうして自分のためだけの週末を過ごし、平日は会社のために働く。それが天音にとっての当たり前だった。


 1週間仕事をして、天音は今週もまた『Lily』のドアを開ける。流果はいない。いつもの席の隣には先週の親切な人がいた。その人はどことなく、流果に似ていた。言語化できないが流果を感じさせる何かがあった。その人は天音の視線に気づいたのか、飲んでいたカップから口を話して声をかけてきた。

「こんにちは。先週もいらっしゃいましたよね。よく来るんですか?」

「......ええ。一応。」

 天音は「先週はありがとう」と付け足そうか迷ったが結局言わず、その代わり店主にコーヒーを頼んだ。隣の客が飲んでいる甘い飲み物の匂いがする。いつも苦いコーヒーばかり飲む天音にとって、その匂いは珍しく、どうしてか魅力的に思えた。それに甘いものが好きなのも、流果と同じだ。提供されたコーヒーはいつも以上に苦く感じた。


 その後も毎週のようにコーヒーショップにその人はいて、いつの間にか天音はその人と適当な世間話をする程度の仲になっていた。会話の中で、名前を瑠衣ということを知った。いつしか店に行く目的は流果から瑠衣に代わっていった。連絡先こそ交換したものの、特に約束はせずにいつも同じ場所で同じ時間に会う、瑠衣とのその距離感が天音にはちょうど良かった。だからこそ、「日曜日に、会いませんか」金曜日に来た瑠衣からの連絡は天音にため息をつかせた。日曜日に会うというのはコーヒーショップの外で会うということだろう。瑠衣は天音との関係を進めることを望んでいるように受け取れた。




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