短編② ピアニスト

「ちぃがう……! 違う! 違う!」


グランドピアノに座っている少女の耳元で、女はヒステリックに叫んだ。


少女は瞳に薄い水の膜を湛え、赤い顔をしてぷるぷると細かく震えている。


「ほらッ! もう一度よ! 次はに弾きなさい!」


女は譜面台の上を指差す。


そこには、書き込みで真っ黒になった楽譜が置いてあった。


鉛筆で強くなぞられたクレッシェンド、細かいニュアンスまで書き込まれたアーティキュレーション記号、どれもこれも、理想的な演奏に必要な情報であった。


少女に視線を戻す。


少女は、力が入らず閉じかかっている手を、ピアノの上に添えていた。


「ほら」


女の掛け声と同時に少女はピアノを弾く。


その曲は『カノン』であった。


寸分違わぬ正確さで鍵盤を叩いている少女。


お手本と言っても差し支えない。


そして、そのままカノンを弾き終えた。


「だいじょうぶ……?」


涙がぼろぼろと溢れる瞳で女を見上げる。


しかし、その瞳に映ったのは、失望が混じった表情であった。


「……………………」


しばらくの沈黙。そして、突如女は眉を吊り上げ、顎が外れそうなくらいに口を開け、怒鳴った。


「違う! 違う! 違う! 違う! 違う!」


そして、平手でグランドピアノの本体をバンバンバンバンバンと何度も叩いた。


「違うわ! 作者の意図をちゃんと分かっているの!?」


フゥフゥ息を整える女。そして次は諭すように言う。


「作者の意図は絶対よ。曲解してはならないものなの。〇〇ちゃんはそれを愚弄しているの」


女は少女の椅子を引き、退室を促す。


「今日のレッスンは終わりよ。次までにはしっかり直しておきなさいね」


念を押すように、しかし、脅迫めいた雰囲気で告げる。


その言葉を聞いた少女は、席を立ち、急いでガラスの重い扉を開けて退室する。

すると、入れ替わりでまた違う女が入ってきた。


「大丈夫でしたか? ウチの子。ちゃんと弾けていましたか?」


母親と思しきその人は、申し訳なさそうに中にいる女に話しかけた。

女は、質問に対し、「あの年齢ではよくやっている方」と伝えた上で返す。


「いえ。まだまだです」


「……そうですか。表現の自由って難しいですよね」


「えぇ…… を保護するためには仕方がないことです」


女は、ピアノを優しくさすりながら伝える。


「そうしないと、社会に嫌われてしまいますからね」


女の顔はどこか寂しそうだった。

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