愛なる血路

燈と皆

第1話 愛文子


 さて、我々は実に楽しみながら小説というものを、文章というものを書き連ねる者達である。そこに多少、お金が欲しい賞賛が欲しいはあるだろうが、おしなべてしまえばどれも前向きである事に変わりはないだろう。

 

 そんな皆様が承知の事事の中で、コンテストという催しがある。

 

 作品を選定され、良ければお金と書籍化の権利か義務かが渡される。

 好きで書いて挙げ句それらを頂けるのならば、とても素敵な喜ばしである。

 ただ、ふとこの先の事を、私は想像してみたのだ。それはコンテストの結果云々の時ではなく、作家や物書きという者が何かこの世に微弱な、卑しい程僅かにでも影響を齎す事の一切が出来なくなる間際の時である。

 

 人が、何か物を書くという事、その真に触れられる機会もやがて減っていく。生きるという限られた時間が尽きるよりも前に、その機会は消失する。人が書いたか自動生成かも分からないものを読み、楽しみ、己が書いたものをまたその様にして読まれる。既に始まっているその変化、或いは進化は、ある到達点において完成する。

 「良いものは良い。それだけでいい」の見解を一般の大抵が示す時、そこが到達点である。

 ネットで小説を掲載しているユーザー数は二年前で既に二百万を超えている。書く事を生業とする作家さんなどを含め、物を書いている存在として広義に括っても三百万が良いところであろう。

 それに対し購買意欲が見込まれるとする、日本の六十五歳未満の人口は八千八百万人。

 物書きの割合は三.四パーセント。

 果たして、いつまで対抗出来るだろうか。

 技術が頗る進歩したとして、それでも人間が書いたものの方が望まれる世界であり続けるだろう、と、そんな見解を抱く方も多い。

 だが、本当にそうだろうか。

 既に、広告から端を発した企業のGAN画像起用、並びにその画像はスマホを介して大衆の目に触れている。という事は、各ネットサービスに触れる度にそれらが散見される訳であり、それはつまり、ユーザー側の受け入れを促す慣らしが始まっているという事を示す。

 慣れが終わる頃、ユーザーは何を思うだろうか。これは人が作った画像であるか否かをいちいち選別するだろうか。

 AI生成への慣れが済めば、その価値観はどんどんと果てしなく色々な創作の定義を塗り替えていく。

 もう、「人でなくても良い」という価値観を見出す事になるだろう。

 とても残忍な事に思えるでしょう。

 

 だが、私達もそうしてきた。音楽であれば生演奏でなくとも、ミキサーやソフトで作られた音楽を聴き、絵であればCGでなくとも、PCで作成されたイラストや動画を見て、食物であれば海外の様な自動栽培でなくとも、機械でカットされた野菜や肉を補給する。

 「機械は色々な事を可能にする」という価値観は生成されている。後は、「人の手を介しているか」の差である。

 そして、AI半導体製造元のNVIDIAの勢いは衰えを知らず、生産拠点の一つである台湾に有事があろうとも不安は無いとしている。

 AIの多用は目に見えている。

 既に、待ったなしなのである。

 

 AIは文章のみならずイラストや映像を自動生成した。芸術とされるものであれば、後は音楽や体現するものである。

 

 抗う事は不可能なのだ。

 文は出来ても、小説だけはそうならないなんて、都合の良い話は無いのだ。

 AIは、人間が出来る事のうち、死ぬ事以外のほぼ全ての行為を行えるものとなる。

 それを、人間というものが欲するからだ。

 人間は欲深い。一つ叶えばあれもこれもとなってくる。それは例えば家電であり、世のシステムであり、貴方の日々や時々の様である。

 だからこそ、技術は確実な進歩を望まれ、技術者がそれを愚直に取り組み成果で答えるのである。

 

 何かを失せた気と成って貰いたい訳ではない、ただ事実をつらつらと記しているだけである。

 

 これからがこの稚拙な著作の本題となる。

 

 間もなく、人間が物や事を書く行為は、伝達する以外の意義を失うもしくは剥奪される。それは簡易的なセンシティブの排除から始まり、危険思想の検閲を経由し滑らかに。また、それらに織り交ぜながらAI技術は力をつけ、様々な事を可能にしていく。

 気づけば、世間に流通する大半の文というものが自動生成されたものとなる。

 AIの文は的確で安全で、コストもかからず都合の良いものとして、世間の認知が広がる、もしくはそう認知させられる大衆となる為である。

 

 だからこそ、私は記したい。

 

 意味や意義という不粋なものを穿ち砕き壊して風雅な粋を取り出すのは、物を書くという事において貴人方の前を走る者はいない。貴人方の専売特許です。

 

 どうか活路を。

 

 流行りは乗るものでは無く、己の中で爆ぜた喜ばしを、周りが勝手に渦中と見立てて沸き立つ事、それが流行りと、知らしめてみて下さい。

 人が書く物が何たるかを、見出し見せつけて欲しい。意味や意義ではない、もっと別次元の方程式を。

 書く事でお金や名誉をその手中に収めるのは良い。けれどもそれは途中の事。目と手と頭を囚われてしまっても、信念だけはそうさせないで欲しい。

 目的がそれだけにとどまらずで好きが勝つなら、どうか夢への梯子を、天まで届かない雲の様なものに架けないで欲しい。もっと高く、それこそ人間一人も残さず平伏してしまう極意が行き交う様な、そんな空気の薄い所に架ける梯子を夢の道として、貴方の内なる部屋に臨むその道をどうぞ悠々としながら登って欲しい。

 

 盲目に生きる事を通さず、我と同じ道を通るであろう者達の為にと、先覚者たるかっこいい皆様でいて欲しい。

 

 作品は、己の様々な経験と、日々の努力と、そして時に笑ったり、または入り込んで涙したりしながら、我が子の様に愛を注いで生まれる。

 来年には様々なコンテストにて、そうして作った我が子の隣に自動生成されたものが正体を隠して並んでいるかもしれないのだから。

 私は、自動生成された文章に軍配が上がるその傍らで、泣き崩れる我が子も、その親の姿も見たく無い。

 

 どうか愛なる血路を。


 どの世代までとも無く、とても果てしなく、「人は書く。素晴らしいから」が紡がれる事を願うばかり。

 

 

 

 若輩者で無知で恥知らずな私だからこそ、そんな事をつらつらと述べられる。

 

 こんな恥で塗り固めたような文に、失笑や侮蔑なる大袈裟なものを用いる必要なんてございませんが、どうぞよしなに。

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愛なる血路 燈と皆 @Akari-to-minna

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