安全の確保は輸送の生命、姉の制御は――
「本当に、エスプロリスト号に残る気はないかい?」
カエルム船長がおどけた表情でそう言う。
「いいえ、船長。覚悟は決まりました」
「私もです」
私とルナがそう答えると、船長は満足げに微笑んだ。
「そうか、よかった」
サリー少尉がそれに続く。
「ヒカリ、火星でも頑張ってね~」
「ありがとうございます。メッセージ送ります」
サリー少尉は、ルナに話しかける。
「ルナ准尉、安全の確保は!」
「輸送の生命!」
「姉の制御は?」
「妹の義務!です」
「よろしい」
私をからかう流れに、案の定クレイ中尉も乗っかってくる。
「火星のコンジットを摩耗させるなよ、頬ずりで」
……まって、私の扱い微妙に酷くない?
最後に、シエラ副長から事務通達である。
「気をつけてね。火星の情勢は今のところ安定しているようだけど、危険を感じたらすぐに連絡してね。できる限りのことはするから」
「ありがとうございます」
「あと、亜光子と小惑星を利用した加速マニューバーについては論文を書くつもりだから、よかったら共著者にあなたの名前を書いておくわ」
「それならルナ准尉の名前も入れてください」
「もちろん。それから、エアセクションの件については、あなたとルナ准尉の共著で論文を書いてみてはどう?」
「私、共著者としては何回か名前が載っていますが、実質的に、アンケート卒論しか書いたことないんですよね……」
アンケート卒論とは、大学卒業のためのセーフティネットである。指導教官の専門分野に合う研究テーマを見つけられなかった学生が、最後に縋るのが「アンケート結果の統計」である。私のテーマは「エネルギーコンジットにおける聴覚を用いた異常検出のための統計的アプローチ」であった。
「もちろん、読みました。いいじゃない、卒業後に同じテーマで論文を書ける卒業生は滅多にいないのよ。論文指導はちゃんとするから、草稿ができたら送ってね」
「ありがとうございます」
「亜光子渦流の周波数が狂っていた理由まで特定できればベストだから、もし何か分かったらメッセージちょうだいね」
「了解しました、副長」
そして、私はブリッジクルー全員に対して、頭を下げた。
「みなさん、本当にお世話になりました」
ブリッジが拍手で満たされた。
しばらくして、カエルム船長が言い出しづらそうに切り出した。
「さて、そろそろ時間だな」
「はい。それでは――」
私とルナは船長に向き直り、姿勢を正す。
「船長。二名の離任を許可願います」
「ヒカリ・サガ少尉、ルナ准尉。ただ今を以てエスプロリスト号における全ての任を解き、火星アストロ・レールウェイ公団への出向を命ずる。地球と火星の人々の心を結び付けるよう、尽力すること」
「はい、船長!」
「はい、船長!」
「健闘を祈る」
私達は、船長と握手を交わし、別れを惜しみながら、ブリッジを離れた。
乗降口の扉が開く。
黄昏時のような空の下、赤褐色の不毛な平原がどこまでも広がっていた。そよ風に与圧用フォースフィールドがざわめいている。
「火星だ……!」
写真やホログラムシミュレーションでは何度も見た景色。でも、これは本物だ。本物だ!
地球からやってきた人類が、およそ二世紀半の時を経て再び火星の地を踏む。私とルナは手を繋ぎ、万感の想いを胸に仮設プラットホームへと足を降ろした。
と、来れば、あの名言を言わざるを得ない。
「これは新人類にとって小さな一歩――」
しかし、次の瞬間だった。
私達に白い粉が降り注いだ。
「べふッ……ゲホッゲホッ、何これ」
「ふぎゃ、殺虫剤の成分ですね」
防護服を着た係員達が寄って集って私達に噴霧器を向け、容赦なく粉を浴びせている。何故なのか。
波状攻撃は続く。今度は霧状の液体だ。しかも微妙にネバネバしている。
「ブベッ……」
「エタノールとキサンタンガムですね、げほっ」
お酒と増粘剤で歓迎とは気が利いている。そのうち壷の中のクリームや塩を身体に揉み込めと言われても驚きはしない。そういえば、『銀河鉄道の夜』も『注文の多い料理店』も宮沢賢治の著作だったか。しかし、ジョバンニとカムパネルラも、まさか山猫軒に迷い込むとは思うまい。
検査器のようなハンディ装置で全身を念入りにスキャンされた後、ようやく私達は解放された。
火星の寒空の下、全身ぐっしょりとエタノールに濡れ、ダマになった白い殺虫剤の粉がベットリと貼り付いた姿で私達は取り残された。エタノールが揮発して、体温が奪われていく。
「歓迎されてるね」
「……」
こうして、火星での波乱が幕を開けたのであった。
第一部おわり
第二部へつづく
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