アストロ・レールウェイ ―火星姉バカ放漫軌道―
井二かける
第一章 火星行き試運転編
セクション1: スタートライン
夢と現実
夜空を見上げると、赤い星が輝いていた。火星である。火星のコロニーには、今も暮らしている人々がいるという。
私は幼少期の頃から夢見ていた。いつかこの足で彼の地を踏み、その文化や技術を間近で見てみたい。そして、願わくば――いやむしろこちらが本望なのだが――人々の暮らしを支えてきた歴史あるエネルギーコンジットの振動を! 頬ずりで! 堪能したい!
歴史、コンジット、振動。
……最高かと。
その夢は思わぬ形で叶うことになった。
「ヒカリ・サガさん、惑星間鉄道事業は知っていますね」
「は、はい、もちろん」
「あなたを地球側の職員として、火星に派遣することが決まりました」
「え……私ですか?」
文化技術復興省の下っ端職員である私に、白羽の矢が立ったのである。
それは、地球と火星、分断された二つの世界を数世紀ぶりに一つに結ぶ、歴史的な事業だ。しかし、あれは内閣評議会の直轄案件だったはずなのだが。
「意外?」
老齢の女性大臣が、そう悪戯っぽく笑う。
私のような下っ端職員が大臣室に呼ばれるのは極めて珍しい。あるとしても、せいぜい、災害級の怒られが発生するときぐらいだ。『私、また何かやっちゃいましたか?』などと内心思っていただけに、その言葉は、意外といえば意外であった。だが、私が選ばれることに心当たりがないわけではない。
「……私が、ハイブリッドだからですね」
私の身体は、混じり合うはずのない二つの種族が混じり合って出来ている。旧人類のヒトと、新人類の人工生命体NebulAIだ。サイボーグとかキメラとかのほうが実態に近いのかもしれないが、両親の遺伝情報を受け継いでいることを大切に思っている私は、自分のことをハイブリッドと呼んでいる。
火星、そして内閣評議会案件と聞けば、身体的特徴が理由で選ばれたとしか考えられない。
……正直、喜ぶにも喜べなかった。それは私にとって最悪の理由であったからだ。
しかし、大臣は肯定も否定もしなかった。政治家の立ち回りとして、マイノリティに対して迂闊なことを言えないのだろう。けれどもその目は、氷のように冷たかった。やがって大臣は口を開く。
「……不服そうな顔ですね」
実際、私の顔には嫌悪感すら表れていたかもしれない。
「……少なくとも、私の能力が認められた訳ではないのですね」
大臣は、肯定しないが、否定もしない。しかし、私のような無能がこのような大役に選ばれるはずがないから、それは明らかだ。
「これは高度に政治的な判断です。様々な事情から、両政府が正式に外交関係を結ぶための糸口として、あなたは都合が良い存在なのです」
「都合……ですか」
確かに私は都合が良い存在なのだろう。頭では分かっている。
現在、地球はほぼ新人類のみ、火星は完全に旧人類のみの国家だ。火星政府は新人類を人類として認めていない節がある。だからこそ、新旧人類のハイブリッドである私は、まさに火星側の出方をうかがうには都合が良い存在なのだ。
「――もちろん、その重要な役割を入省二年目のあなたに任せることに反対意見がないわけではありません。しかし、社会の発展のためには、やむを得ないという判断です」
「それならお断りします。私の身体がどうこうという理由で一方的に決められるのは、正直、とても嫌です。これは尊厳の問題ですから」
しかし、大臣は表情を変えない。
「あなた以外の者を火星政府は受け入れないでしょう。我々もあなた以外の者を送るのではメンツが立たない。この機会を失うのは、国益、いえ、社会全体にとって損失となります」
「その犠牲になれと」
「犠牲? 違います。平和な未来への貢献です。ちっぽけなプライドとどちらが大切ですか。あなたも大人なのですから、我が儘など言わず、広い視野で物事を考えなさい」
これは、我が儘なのだろうか。視野が狭いのだろうか。確かにそうなのかもしれない。平等という大義名分の下に、「◯◯だから」という理由だけで要職に登用されてきた人々は数知れない。そういった人々は社会の発展のために喜んで、あるいは辛酸をなめながらも受け入れてきたはずだ。
私にとっては、嫌なものは嫌なのだ。けれども、確かに、もし私が拒否すれば、国益や社会全体の利益に反する。これでも中央省庁の役人の端くれだから、『我が儘』を通せば自分にどのような不利益が降りかかるかは容易に想像できた。事実上、私に拒否権はないということだ。
もし今同意すれば、夢が叶う。国益にも適う。これはラッキーなことなのかもしれない。ただし、尊厳と引き換えだ。できれば、これだけは犠牲にしたくなかった。けれども……。
「……分かりました。お受けします。ただし、三つだけ、条件があります――」
それが私にできる精一杯の抵抗だった。
こうして、私は尊厳もプライドも捨て、火星に派遣されることとなってしまったのだ。
それでも、私はこのときの判断を悔いてはいない。私は人生の友……いや妹と出逢い、かけがえのない時間を共にし、新たな時代の幕開けを最前線で見届けることができたのだから。
これは、惑星間鉄道「アストロ・レールウェイ」が開業するまでの、紆余曲折に満ちた、私たちの記録である。
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