16 華呪 〜百日紅〜(2月4日更新)
「……元気そうだな」
「詩梛か」
病院着に身を包んだ佩李は読んでいた文庫本にしおりを挟むと、ベッドサイドに置く。目覚めて早々に壱景が持ってきたミステリー小説だった。他にも漫画や雑誌など様々なジャンルの本が置いてある。
「どうだ…体は?」
詩梛はミネラルウォーターのペットボトルを佩李に渡し、横に並べられていたパイプ椅子に座る。
「…悪くはない」
実際、佩李の体に大きな怪我はなかった。ただ、疲弊した体は思うように動かず目覚めてすぐの状態では黒司の手伝いがないと立ち上がることすらままならなかった。しかし、【首切り蟲】との舞踊から三日が経過した今、既にある程度のことは生活に支障がないまでに回復していた。
「明日には退院するつもりだ」
「そうか」
詩梛は佩李の方を向き直る。
「佩李……今回の一件、妹を救ってくれてありがとう」
詩梛は細い体をぎこちなく曲げるように頭を下げる。いつも気怠げな表情を浮かべていた詩梛とは違う芯のある表情だった。
「お前のおかげで千梛は助かった……感謝する」
詩梛は深く頭を下げたまま、全てを言い終えるまで顔を上げることはなかった。
「元々は俺と篇李が持ち込んだ呪いだ…千梛は、ただの被害者だ」
「だとしてもお前のおかげで助かった……俺たちでは、どうすることもできなかったさ」
きっぱりと言い切る詩梛の視線は、佩李を責めるようなものではなかった。
わずかな間、二人は互いに口を開かなかった。沈黙が続く中、廊下ではパタパタと看護師たちが忙しなく移動する足音が聞こえる。
そして、詩梛は肩を震わせながら足を組み、顔を下げる。
「佩李…篇李のことだが…」
「……ああ」
詩梛は先ほどと変わって躊躇う様子であった。言葉を慎重に選び、こちらを探るように語りかける。それは佩李に対する優しさだけではないのだろう。
何よりも詩梛自身が答えに迷っているようだった。
「……これ以上、華呪を深追いするのは止めろ佩李」
「言うと思っていた」
その言葉に詩梛は苦笑いを浮かべる。
「今回の一件で分かったが………華呪は人を殺す呪いじゃねぇ。あれは、化物をこの世に生むための儀式。その一部だ」
佩李もその意見には同意していた。 華呪は『目的』ではなく『手段』。それが佩李と詩梛の導き出した答えであった。
「華呪・百日紅は、【首切り蟲】に対する餌としてのマーキングにすぎない………その副次的な効果として……死後、体内の血液が百日紅の花びらに変わるだけであって、これ自体に人を死なせるだけの力はねぇ…」
「それ以外の華呪も同様か…」
「そう考えるのが妥当だな」
詩梛は腕を組むと、考えるように天井を見つめ、また佩李を見る。
「つまり、華呪を呪いとしてこのまま闇に葬るのが一番いいんだ……佩李」
「…………」
「このまま華呪を『解明できない未知の呪い』として処理すれば……誰にもその真実を認知させずに、この事実を無かったことにできる」
「………この世に怪物を生み出さずに済むということか……」
「その可能性は高い」
呪いにおいて最も重要なのは『認知』である。
例えば偶然人が事故で亡くなったとする。人為的なものではないにも関わらず、誰かがそこで「あいつは呪いによって死んだんだ」と疑念を抱き、人にそれを広めたとする。さらに、その人物の過去や前日の行動からそれを呪いと断定するだけの最もらしい理由が見つかったとすれば、人の疑念はもっと強い呪いになっていく。それはやがて大衆を動かし本物の呪いになっていくのだ。誰かの思い込みであっても、邪念が生まれ形となってこの世に生まれる。
「多くの人間が怪物たちを認知すればするほど、怪物たちは呪いとして確立されていく。俺たちが、あいつらに実体を与えていくことになるんだ」
「…………」
「篇李に宿る華呪をそのまま葬るんだ…………今を生きる人間のために世界を危険な目に遭わせるな、佩李」
二人が向かい合う病室には再び静寂が、訪れていた。
———『死んだ人間のためではなく、これからを生きる人間のために生きるべき』…か、
【首切り蟲】を前にして佩李はそう思っていた。確かに、いくら佩李が呪死体を供養しようと、死んだ人間が生き返るわけではない。供養は死者の肉体を浄化し、生者の心を救うもの。ただ、それだけなのだ。
「俺は…」
篇李が救われるのではなく結局は佩李自身の心の問題なのだ。だからこそ、自分が納得すれば、そこで終わる問題なのだ。
「詩梛。それはできない」
佩李はそう言い切ると、詩梛からもらったミネラルウォーターを口にする。一度に500mlの水を全て飲み切り、口の端からこぼれた水滴を拭う。
「篇李の存在は、俺にとって最後のつながりだ……自ら断ち切ることはできない」
「それが、つながりという名の『呪い』だとしても、か…?」
佩李はそこで面食らったような顔をした。それから、その言葉を噛み締めるような苦笑いを浮かべ、やがて目を閉じる。目を閉じると篇李の顔が浮かぶようだった。
「『弟』という名の呪いかもしれないな…」
「クク、兄としては、それは強い呪いだな」
詩梛は佩李の浮かべた笑みを見て、全てを悟ったかのように立ち上がる。
「……これまで通り、お前の付き人には千梛を当てる」
詩梛はそれ以上何も言わず、ゆっくりと病室の出入り口へと向かう。そして、ドアノブに手をかけると、自分に語るように静かに言った。
「佩李……苛立つのはお前だけじゃない。俺にも、この世界を少し憎ませろ」
詩梛は振り向くことなく、病室を去っていった。
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