02 白布の大男① (12月12日 更新)

 02

「今日は一段と顔色が悪いですね…吉野先生」

 自習ブースの一角で、吉野光一がテスト採点をしていると学生服に身を包んだスラリと背の高い少年がこちらを見ている。胸には数冊の参考書が抱えられており、そのどれにも付箋が顔を覗かせている。

「ああ、折木くん…ごめん、気づかなかった」

 思わず立ち上がり声のする方へと顔を向けると、少年———折木 亜坐あさの視線とぶつかる。

「何かあったんですか、先生」

「………そんなに、顔色悪いかな…」

「大学のことですか?」

 折木は吉野から視線を外そうとしなかった。少女のように大きく丸い開かれた瞳が、吉野を見透かすようだった。実際、折木は優秀であり、このマルセキ塾でもトップクラスの成績を誇っている。難関大学への進学も視野に入れる少年からすれば、人の表情を見て感情を推測することなど容易なのだろう。

「まぁ、そう。大学のことなんだけどさ……」

「僕に話してみます?」

 折木は吉野の躊躇いを物ともせず、返答を聞かずにそのまま自習ブースの椅子に腰掛けた。ブースには生徒と教師が並んで座れるほどのデスクが向かい合うようにいくつか設けられており、机同士はグレーのプラスチック板で遮られている。午後十一時を回った今、自習室は閑散としており、人の気配はない。

「ああ…ううーん」

 吉野も渋々、折木の横に座る。特段、話したいと思ったわけではなかったが、彼の視線を避けるためには横に座るほか無かった。

「あのさ、折木くん……誰にも言わないでくれるかな…」

「言わないことで好転する内容であれば、もちろんですよ」

「嫌な言い方だね」

 そう、折木はこういう言い方をする少年なのだ。まるで、こちらが何を期待し望んでいるのか先回りし考えて行動するような人間だ。

 それでも、吉野はこの時、誰かと話したい気持ちがわずかに生まれていた。大学の友人に話せば事は大きくなる。そう思うと大学の交友関係とは無縁の人物の方が幾分か話しやすいものだ。それに、折木は賢い。客観的な他者からの視点もあれば、違った結論が生まれるかもしれない。

「…少し、オカルトな話でもあるんだけど」

「それは興味がありますね。ぜひ、聞きたいところです」

 折木は退くことなく、吉野の方に身を寄せた。彼の制服からは、男子生徒のような汗の匂いではなく、柔軟剤かシャンプーのような甘い花の匂いがした。

「ことの発端は、僕たちが卒業旅行で廃墟を探索したことにあるんだ…」


 ◇ ◇ ◇


「廃墟で…一番怖いことが何かわかるか、光一?」

 助手席に座る吉野光一に対して、杉浜直弥は運転席から声をかける。先ほどから顔をこちらに向ける度に、車体は大きく揺れ、車道の端へとそれていく。杉浜の運転が悪いのか、車はよく上下に揺れた。嘘でも快適とは言い切れない、乗り心地だ。

「杉浜。危ねぇから、前見て走れよ」

 後部座席に座っていた深田廉が杉浜を嗜めるように声をかけた。

 吉野を含めた大学四年の男三人で、卒業旅行に出ようという話になったのは六月ごろ。杉浜がバイト先の写真屋で『良い廃墟がある』という話を、後輩から聞いたことがきっかけだった。

「…随分、面白くて絵になるそうだ」

 以前から一度は廃墟の写真を撮りたいと杉浜は言っていた。それもあってか、出発前から口数がいつもより多かった。吉野としては、もう少し観光に向いた場所の方がよかったが、特に希望もなかったので、断りはしなかった。三人は、写真をきっかけに出会った間柄だ。三人とも写真を趣味としており、これまでも何度も旅行し共に撮影を行ってきた。様々なコンテストに応募し、写真の出来栄えで競い合うなど、その関係は友人を超えて良きライバルとしても深いものだった。

「廃墟での写真は初だな……楽しみだ」

 杉浜は先ほどから、その話題ばかりを繰り返している。

「だーから、わかったって………光一、ホテルは大丈夫か」

 深田が念を押すように吉野に言った。

「うん……ちゃんと要望通りのところとったよ……」

「そうか」

 深田は安堵したように浮かせていた腰をシートに下ろす。

「ホテルから三十分としないところに廃墟はあるようだ……荷物を置いたらすぐに行こう」

 深田と吉野は顔を見合わせ、お互いため息をついてみせた。しかし、この実直なところが杉浜の良いところでもある。


 ホテルは随分とキレイであった。荷物を部屋に置き、車に乗り込むと出発する。荷物が減ったせいか、車内には随分と余裕ができていた。乗り合わせた当初、宿泊の荷物と撮影機材を詰め込んだ車内は身を動かすほどの隙間もない状態だった。

「杉浜、場所はわかっているんだろうな」

「ああ。任せておけ」

 杉浜の運転で、廃墟へと向かう。彼が説明していたように、場所は三十分とかからないところにあった。

 

 午後三時。

 親戚が住んでいなければ———いたとしても訪問すること自体をためらいそうなほど廃れた町だった。中途半端に開発が進んでいたであろうこの町は、特産品として名を挙げられるものもなく、自然を売りに出せるほど管理が行き届いているようにも見えなかった。

「なんか、ホラー映画で見たぞ、こんなとこ」

 人一人見えない様子も相まってか、その言葉は冗談だと笑いきれなかった。

「…もうすぐだ」

 人工的なフラッシュよりも自然光にこだわりがあった杉浜の念願が叶い、天気が崩れることはなく太陽はちょうど良い具合に西から日が差し込む形になっていた。

「この上か」

 山の頂上へ向かう森の入り口を前にして、ようやくその場所の全貌が見えてくる。入り口は車で入れなくもないが、対向車が来ればバックで戻るしかないほど細い一本道であった。対向車が来るとも思えなかったが、杉浜は慎重に上へと向かう。木々が重なり合い、トンネルのように道を覆っている。車が揺れると、ルーフから葉と触れ合うような音が車内に響く。

「……郷土資料館?」

「元はそうだ」

 深田が目にした苔だらけの鉄の看板には明朝体で書かれた『資料館』の文字が見える。その前に書かれた文字は日焼けとサビの影響か、完全に消えてしまっている。

「…進むぞ」

 木と木の間を縫うように、杉浜は車を器用に動かしながら、山頂を目指した。

 やがて開けた場所に出る。看板にもあったように、フロントガラスの向こうに見える建物には資料館の文字が見えた。

「…おおぉー!」

 思わず三人は歓声を上げた。

「おい、杉浜。これは、かなりの穴場かもしれねぇぞ」

 深田は興奮のあまりか杉浜の肩に手を置き、左右に揺さぶった。

「ああ…俺たちの卒業旅行にふさわしい場所だ」

 駐車場らしき場所に車を乱雑に停めると、カメラを手に取りそれぞれが浮き足立つ様子で降りる。草木をかき分け、廃墟になる前は出入り口として使われていたであろうドアの前に立つと、室内の様子が見えてくる。ガラスは無惨にもほとんど全てが砕かれ、辺りには破片が転がってキラキラと光が乱反射している。杉浜は割れたガラスで手を切らないように慎重にドアを押すと、ギギギと、重厚な音を立てて開かれる。

「オイ、あれ」

 深田が指差す方向を見ると、通路には熊や鹿などの剥製が並べられ、床にはパンフレットらしきものが散乱していた。雨水と湿気のせいか、パンフレットは紙同士が張り付き、丸まってしまっており、泥汚れもひどく読めそうにはなかった。

「いかにも…って感じだな」

 杉浜は既にカメラを構え、フェンダー越しから辺りを眺めていた。

 吉野は少し身震いした。外との温度差や、明暗さ、そしてこの少し異質な空間があまりにも現実離れしているように感じたのだ。両側の壁に並ぶ均一な窓を覆う植物の緑が、その雰囲気に拍車をかける。そして、その上から被せるようにしてイタズラ書きが大量にある。荒々しい『参上!』というポピュラーな文字から、解読できそうにないグラフティのようなものまで多種多様だ。

「それでは、少し探索時間といこうか」

 早く一人で写真を撮りたい興奮を抑えられない杉浜はそう提案した。仲良し写真グループとはいえ、準備や補助を除いて写真撮影は一人で行いたいという願望がそれぞれにある。場所が被らないように、どこを撮影するかは事前に伝えておくことが三人の暗黙のルールだった。

「俺は一階を中心に撮影する…お前たちは…」

杉浜は真っ先にそう切り出した。

「僕は二階から攻める。撮り終わったら下に行く感じで」

 吉野の言葉に、深田は少し迷う素振りを見せながら相槌を打つ。

「じゃあ、俺も上から。……いいだろ、俺と一緒に行動しようぜ」

 深田の調子の良い言葉に吉野は思わず苦笑いを漏らす。

「それでは、三十分後に一度玄関で集合だ」

 杉浜の合図で三者に別れた。





 ———「『廃墟で…一番怖いことが何かわかるか』………」




 杉浜は、あの時、吉野に対してそう言った。吉野は二階へ向かう階段の踊り場で、そのことを思い出していた。階段の踊り場からは二階の様子が窺える。広い空間が見える。



 そして、


 ———「『……廃墟で一番怖いのは、な…』」


 杉浜が、運転をしながら神妙に言っていた。吉野たちは、写真を趣味としているが、廃墟探索がメインではない。だから杉浜は忠告してくれていたのかもしれないと今になって思う。


 ———「……『いいか……幽霊でも、動物でも、事故でもない……それは』」


 それは、


 ———「…だ」



 不思議そうな顔を浮かべる吉野に、杉浜は続けた。

が廃墟に来るときには必ず理由がある。俺たちみたいに、写真を撮りにきたヤツもいれば、ふざけた落書きをしにきた奴、度胸試しや、マイナー雑誌の取材など、理由は様々だ……」

「うん」

 吉野は相槌を打つ。会いたい人種ではないものの、そのどこに心配があるのか吉野に思い当たるものはなかった。

「だが、理由が様々であるということは、よからぬ理由で来るやつもいる……」

 その一言に、吉野はハッとした。その『よからぬ理由』にどれだけの幅があるのか、瞬時に想像が及んだからだった。

「……何かを埋めにきた奴、何かを取引しにきた奴、何かを消しにきた奴……」

 杉浜は笑っていなかった。

「だから、誰かに出会ったら…『』を見る前に……逃げるんだ」




 吉野はハッと我に返る。


 ———やばい。これは…やばい

 吉野は階段の踊り場で震える手を必死に抑えようとした。首から下げていたカメラがジャケットにあたり、カチッカチと、音を立てる。


 二階の通路には上裸の大男が立っていた。身長は優に二メートルを超え、天井につきそうなほどである。それに加え、鍛え上げられたギリシャの石膏像のような白い体には、血のような赤い絵の具でびっしりと記号らしきものが書かれている。

 そして、何より異様なのはその頭である。その大男は頭に袋をかぶっていた。素材はガーゼのような白い布で、無造作に被せられたものではない。意図的に被ったかのようにシワ一つない布だ。

 そして、吉野はその大男と目が合ってしまっていた。顔は見えないが、それだけは間違いなかった。


 ———あいつは、僕を…見ている。


 ドッと噴き出た冷や汗は、胸元をつたって下腹部に溜まっていく。恐怖と、吐き気が一度に襲ってくる。思わず震える手を抑えた時、プツプツと鳥肌が浮かびあ上がっているのがわかる。

「……お、おい……光一…」

 後方から深田の囁く声がして、自分の袖口を引っ張っていることにようやく気が付く。深田は視線を2階に向けたまま、引き攣った笑みを浮かべている。恐怖のあまり元に戻せなくなってしまった顔を、必死に動かして呼吸を整え、声を出す。

「に、逃げるぞ…おい…」

 吉野は無言で頷き、視線で大男を捉えたまま、ゆっくりと足を後ろに踏み出した時、


「ぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃ」


 反響し、鼓膜を破りかねない大音量が、廃墟中にこだまする。一瞬、あの大男が発している音かと思ったが彼は相変わらず身動きひとつしていない。ゆったりと構えたままこちらの様子を伺っているようだった。

 ただただ、そこに存在するだけの男の周りを包み込むように、音だけがこちらを襲ってくる。それが彼らにとって、何にもまして不気味であった。


「おい‼︎行くぞぉ!」


 深田と吉野は走り出す。階段を転げるように下ると一階で撮影を行なっていた杉浜が、両耳を押さえながら不安そうに部屋から出てくる。

「な、なんだよ、この音…」


「逃げるぞぉ!杉浜ぁ!」

 深田の刺すような剣幕に、杉浜は事態もわからぬまま、つられるように出入り口へと駆け出した。


ぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃぢぃ


 大音量で鳴り響く中、深田が一瞬、後ろを振り返る。


「……クソっ!」

 しかし、すぐにまた、先ほど入った玄関ドアを目指し、駆け出した。

 三人が車に乗り込むと、杉浜はすぐにエンジンをかけフロントガラス越しに廃墟に目をやる。


「何してんだよぉ‼︎車を出せぇ‼︎」

「……えっ」

「いいから早くしろよぉ‼︎バカがぁ‼︎」

 深田の怒声に、杉浜はすぐさま車のギアをバックに入れ、アクセルを踏み込む。杉浜は首を後ろに捻り、ハンドルを捌きながら一気に斜面を駆け降りていく。


「………クソ、クソクソ…仕方ねぇだろぉ…………なんだよ、あいつぅ……」


 深田が後部座席で頭を抱えたまま、呻くように何かを呟いていた。その間、吉野は恐怖のあまり下を向いたまま一言も声を発せずにいた。


「と、とにかく……車を止めるな、杉浜‼︎」

「……あ、ああ」

 その後、車は山を下りホテルへと向かった。その間、三人は無言のままであった。

「あ」

ようやく部屋の前で、財布を取り出そうとポケットに手を入れた杉浜が、短い声を出す。杉浜が全員分のルームキーをまとめて持っていたのだが、どうやら全て一緒に落としてしまったようだった。しかし、そのことを責める気持ちにすら無かった。


 その日、三人とも口を開くことはなく、眠れない夜を過ごした。


 翌日、早々に帰宅した三人であったが、帰宅する道中、これといった不可思議な事は起きなかった。あの白布の大男が自分達の後を追ってくるのではないかという不安もあったが、家に帰宅するとその心配はいくらか薄らいでいた。

 それから一週間が経過したが、吉野の前に白布の大男が現れることはなかった。吉野自身も午前中は大学で講義を受け、午後はマルセキ塾の講師としてバイトをする生活を繰り返していた。あれだけの経験をしながらいつもと同じように生活する様子に、二人からは随分と奇妙に見られていたようだったが、吉野にとっていつも通りの日常を送ることの方が余計なことを考えずに済む分、ずっとマシだった。

しかし、二人はそうでは無かったのだ。

その日、いつものように個別指導を終えた吉野は講師控室に戻りスマホを開くと、メッセージが一件、来ていた。相手は深田から。

 一抹の不安を抱えながら、吉野は深田からのメッセージを開く。


『十四時五十二分・これから杉浜とあの廃墟に行く。確認してくる。日帰りで帰るから、もし連絡がなければその時は、頼む』


 たったそれだけのメッセージである。それが送られたのが、吉野が授業を始めた二時間前———おそらく、深田たちはすでにあの廃墟にいる頃だろう。

「『僕も行けなくてゴメン。終わったら連絡ください』」

 吉野はそうメッセージを返した。


 しかし、それから返信が来ることは二度となかった。

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