物や思ふと

棚からぼたもち

物や思ふと

 高校の同窓会であった彼女は、前よりも美しくなっていた。容姿の話ではなく、彼女にはドロドロと音を立てて渦を巻く嫌悪と、流れの強い濁流のような悲観とがまとわりついていて、それでいて、それを全く持って外界には出さないその強かでなまめかしい美しさが僕の嗅覚に反応したのだ。


 そこからは早かった。多少、同窓会の熱に流されるままに飲み込んだ酒が影響したのもあったんだろう。僕らは二人でこっそりとその下賤な熱から抜け出し、もっと可憐な熱を作り出した。まるで季節になると誰にやれとも言われず花粉を飛ばす草花のように、ほとんど言葉を交わさずに交わりあった。


 彼女は僕が今まであったことのないような不思議な魅力を持っていて、とても不思議な人間だった。彼女はあまり笑わない。だからと言って冷淡な人間ではなく、とても温かみのある話し方をする人間だった。植物に口を付けたような、そんな人間である。彼女はたまに自分が壊れてしまうのを拒んでいるような様子で、ふと笑う。その儚さも、僕が魅かれた一つの理由だったのかもしれない。それに彼女がつけている香水の香りが、僕は全く好きだった。あくまで自然体で、それでいて存在感のある香水の香りが。彼女との行為は、さざ波のか細い音が、鼓膜の奥をこするような心地よさで、僕はすっかり虜になってしまった。それはとても濃いもので、まるで僕たちは互いの愛情を確かめ合うように絡み合った。それから僕は彼女との行為が忘れることができず、それからは頻繁に連絡を取っては、ホテルに行き、交わった。彼女はそれを拒否するでもなく、むしろ嬉しいと言って尻尾を振って喜ぶのでもなく、ただ、僕の性欲のはけ口として機能した。僕らの関係は簡潔であって複雑だった。


 


 彼女はその日、行為が終わると僕と体を合わせながら、淡々と話しをした。彼女の芯から湧き出る体温を感じながら聞くユーモラスで肌触りの冷たい話は、言葉というにはとても力強いものだった。


「私の夢に出てくるはいつも不確定なの。それは形があって形のない、匂いもしない、味もない、かといって無機質なものではない。そんなものなの。でも何となく、それがということは直感でわかる。それは海の底でその時を待っていて、その時が来たら、きっと今の私にとって代わるの。」


「それは恐ろしいもの?君はいつも恐れているように見えるよ。」


「そうよ。恐ろしい。だけれど、彼女が私にとって代わることは、悪いことではなく、むしろいいことなの。今の私よりずっとね。」


「それの何が恐ろしいんだい?僕にはそれがいいことにしか思えないが。」


「私が私でなくなってしまう。それでいて、それは私だということが、ひどく恐ろしいの。」


そう話した後彼女は、僕の目をまっすぐに見つめた。彼女の話はとても突拍子もないものだったが、僕はそれを冗談だとは思わなかった。僕はずっと、彼女の中にそれに似たものを感じていたからだ。僕はそれから彼女の瞳の深い黒に明らかな確信を持った。




 ある日、いつもと同じように彼女を呼んでホテルに行く。濃厚な前戯を済ませた後、彼女に挿入しようとしたとき、ふと僕は彼女との行為に、特別な感情が芽生えていることに気が付いた。僕は彼女のことを...。僕はその時、彼女に挿入しようとしたその体を止めた。刹那、彼女は起き上がった。彼女はまるで心の底に隠しておいた僕の感情を見透かしているようだった。もしかすると彼女は僕の心の底にあったその感情が油断を見せて浮上してきたころに食ってやろうと、ずっと狙っていたのかもしれないと考えたが、すぐにその考えは杞憂だということになった。彼女は起き上がって。そのまま服を着た。まるで、成虫になった蝉が抜け出したはずの殻にまた入っていくような、そんな焦らしとなまめかしさが、一層僕の鼻腔をくすぐった。そして彼女は言う。


「私はその気持ちにはこたえられない。あなたの気持ちにはずっと間から気づいていたの。それでいてあなたに近づいた。でもごめんなさい。やっぱり無理だったの。あなたの気持ちにこたえてしまったら、私はきっと私ではなくなってしまうの。だからごめんなさい。私だって、私も。」


そう言って彼女は颯爽とホテルの一室を出ていった。部屋に一人取り残された僕は、一人、呑気に彼女の最後の言葉を反芻しては、僕の恋が成就する可能性に、心を奪われていた。だけれどそれから、彼女の連絡はコツと途絶えてしまった。僕はそこでやっと、彼女の放った言葉が理解できた。


 


 次に彼女と出会ったのは、それから数年たった夏だった。


 僕は大学院に入り、毎日のように本を読んでは、机に向かっているばかりだった。夏は僕の感情の隙間に、湧き水のように入ってきては、自分と他人との境界線を曖昧にし、焦燥と葛藤を募らせた。つまりは、自分は自分の人生に納得いっていなかった。かといって何があるわけではなく、その感情が人生の糧になるわけでもない。大学院という鳥籠に甘え、飛び立つ勇気を持たなかったのだ。


 あれからとても考えた。僕はなぜ受け入れてもらえなかったのだろう、と。彼女が言っていた海の中に存在するもう一人の彼女が起因するのだろうけれど、それでも自分に非がないとは思えなかった。結局僕が辿り着いた答えは、きっと僕が彼女よりも、ずっと子供だったからだろうというものだった。彼女にとって僕との行為は、保育士が子供をあやすのと同じで、子供という弱者を前に、圧倒的な権力による優越に浸っているだけだったのだろうと思う。


 その日は珍しく、休日という休日だった。机に向かってばかりで錆びついてしまったであろう自分の容姿の錆を取ってやろうと出かけた帰り。彼女は西日を反射する、お洒落な看板を持つ、カフェの窓越しに難しい顔をしてパソコンを見つめていた。その姿は美麗で、いつだか見た時より、一層美しかった。


「こんなところで何をしてるの。」


そう僕が聞くと彼女は、まるで僕が店の外にいたことをもとから知っていたように、滑らかな手つきでパソコンを閉じて、僕のほうを向いた。


「あなたは?」


「僕はただ、きっと君に会いに来たんだと思う。」


「そう、きっとそうね。それじゃあ少し、私と喋りましょう。」


彼女と僕の会話は、まるで数年の時など感じさせないほど滑らかだった。


 西日に染まる郊外の公団住宅は、とても厳かで、いつもより大きく見える。愛のチャイムが鳴る前の、ひんやりと熱が冷めるような雰囲気と、それでもなお活発的な子供の声が僕らを包む。カフェから数分歩いた間、僕らは一言も発さずに、ただ歩いた。それはそのときが来るのを待っていたといってもいいかもしれない。


「あれからいろいろ考えたんだ。君が僕を拒んだのには君が言うもう一人の君が起因してる。それは僕だってよくわかってる。だからと言って、僕にも思い当たることが無い訳じゃない。僕は幼稚だった。結局、僕は君との、ただの友達という関係に甘えていたんだ。だから君は僕を拒んだんだと思う。違うかい?」


彼女は振り向きもせず、ただ僕の前を歩いてこう答えた。


「いいえ違うわ。私があなたのことを拒んでしまったのは、そんな大層な理由じゃない。私はあなたが思っているよりもずっと、臆病なのよ。」


そういった彼女に、僕は不意に後ろから抱きついた。彼女は、何も、言わなかった。その時、僕の恋はもう成就しないとわかってしまった。僕は彼女の顔を見ないで彼女の手を引いた。




 ゆっくりと服を脱ぐ。美しいその体があらわになり、僕は心の底から興奮する。彼女の唇に手を当てて、キスをする。彼女が拒むことはない。ゆっくりと、そして濃厚に、前戯を行う。ゆっくりと、彼女の体のすべてを舐めまわすように。そして僕は彼女の前に膝を立てて、挿入しようとする。彼女は顔を見せてはくれない。手で覆い隠しては、拒もうとはせず、ただ、流されるがままに、濃厚な行為をした。それはドロドロとした沼に、自分の体を投げ入れるような感覚で、僕はその沼と僕の体が溶け合っていく感覚を楽しんだ。彼女は行為の後、僕の腕に頭を乗せ、背中を見せていた。そのまま、僕は疲れて眠ってしまった。


 朝僕が起きると、彼女はいなくなっていた。枕元には彼女がつけていた香水の香りが、うっすらと残っていた。その時僕は初めて失恋というものを経験し、大人になるということは、子供ではなくなるということとは違うんだと感じた。部屋の冷房が、私の体を芯から冷やしてくれた。




 それから彼女とは連絡を取っていないし、彼女から連絡が来ることもない。ただ一つ、気がかりなのは海の底には今、僕の知る彼女がいるのだろうか、ということだ。一体、彼女は今本当に彼女なんだろうか、それはきっと彼女ではない、なのではないか、そんな疑問だけが心残りだった。それでも彼女との出会いは、僕にとってとても大きな出会いであり、僕にとってとても大きなことを残してくれた。彼女のつけていた香水の香りが、僕の鼻腔にはまだ、残っていた。

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