外れ者の赤

アルストロメリア

世界樹≪ユグドラシル≫

第1話

 自身の記憶の始まりを思い返すとき、ノーアの脳裏にはいつもあの澄んだ湖が浮かぶ。春の終わり、芽生えた若葉は色濃い緑へと染まり、燦燦さんさんと降り注ぐ陽光に眩しく煌めいていた。湖畔に茂る柔らかな下草と水の匂いは爽やかで、東南の一角に群生したゼラニウムからは甘い香りが漂い、桃色の花の狭間を虹色のコウシゲチョウが飛んでいた。澄み切った湖水は僅かな濁りもなく、白砂を揺らしては水面にさざなみを立てる水の精霊クーラの囁きのような声と、小鳥の鳴きかわす声、木々たちのさざめきが、音の波のように満ちては消えていった。ノーアにとってはそのさやかな音色が子守唄であり、当時知っていた唯一の『歌』であった。

 

 当時、つまりはノーアが世界樹の麓で暮らしていた折、彼には『ノーア』という名すらなく、それ故に彼はただ単純に、しかし確かな侮蔑ぶべつをもって『赤髪』と呼ばれていた。彼は世界樹から生まれた妖精としては至極普通なはしばみ色の瞳と緑がかった茶色の髪、陶器の人形めいた整った美貌を持っていたが、その前髪の一房だけが人間の流す血のように赤く、それが彼の出生を否が応でも示す烙印らくいんとして機能したためだった。すなわち、彼が忌まわしい人と妖精の『混ざり者』であることの。

 世界樹の麓で暮らす者にとって、世界樹から生まれた妖精というのは一種特別な存在である。世界樹と大気に満ちる生気、ないしは魔力、あるいは世界を統べる女神の吐息が混ざって生まれる彼等は、女神と世界樹に次ぐ位でもって迎えられるのが常だ。勿論、この世界で最も優れて尊ばれるべきは全天の女神その方のみではあるのだが、滅多に姿を見せない彼の御方と比べて、生まれてから死ぬまでを世界樹と共に過ごす妖精は、ほかの者達にとってより親しみやすく、敬いやすい存在であったのだろう。

 そのような、ある意味では世界樹に端を発する階級社会の中で、世界樹と人間の『混ざり者』として生を受けた妖精の少年は、その前髪一房の烙印でもって、妖精として『正しくない』者と見做みなされたのであった。彼は名を与えてくれる師父を持たず、迎え入れてくれる仲間も持たなかった。一方で妖精としての生命力は並外れ、同時に人間らしい頑健さと学習能力の高さもその身に備えていた。故に彼は数百年の孤独に耐え、長い年月としつきの中で、ただ独りで生きる術をいつの間にか身に着けていたのであった。彼は誰に教えられるでもなく星を読んだ。大気の中に流れる無限の魔力マナの使い方を知り、言葉を持たぬ種族とはむしろ親しみを込めて接した。彼は異端の『赤髪』であったが、気が付けば世界樹から生まれた妖精の中でも最も実力のある一人になっていた。

 

 力を得た『赤髪』は、しかし他の妖精達と同じく、世界樹の麓を離れることはしなかった。それは本能的に世界樹を『母』と想っていたためでもあったし、ほかに行く先がないということも一つ大きな理由ではあった。そんな彼に苛立ち紛れに文句を言った友の一声から、彼の物語は始まる。友はいつものように世界樹の麓で大気の歌に耳を傾ける『赤髪』の髪を引っ張ると、彼の耳元でこう言い放ったのだった。

 

「おい、お前はいつまでこんな田舎でくすぶってるつもりだよ?」


 問われた『赤髪』は、こちらは対照的にのんびりと顔を上げると、目の前で宙を舞う友人にやんわりとした苦笑を向けた。そうしていると彼は、どこか幸が薄そうな線の細い美少年といった風情であった。身に纏うのは草木染めのチュニックと柔らかな兎の革のパンツ、そして彼自身の魔力と空の精霊エアリアルの羽を織り込んだマントという軽装である。背の真ん中まで伸びた髪を草の蔓で縛った『赤髪』は、ほっそりとした顔をちょっと傾けて、「田舎なんて言うなよ」と優しい声で友人を窘めた。


「世界樹様の麓なんて、大抵の島よりは余程価値のある聖地だろう? 比べるものじゃあないさ、フュリー」

「比べる比べないの話じゃなく、現実にここはとんでもない田舎じゃないか。お前くらいの魔力があれば、ここを離れれば魔術師として身を立てることだって十二分に出来る筈なんだ」


 『赤髪』の言葉をばっさりと切り捨てたフュリーは、こちらは小さな太陽のような魂を持つ風の精霊シルフの少年であった。身の丈は三十センチメートル程しかなく、翠玉エメラルドの糸と絹糸を編んだ貫頭衣をその小さな体に纏っている。背から生えた二対の羽で『赤髪』の周囲を飛び回り、キンキンと甲高い声で訴える彼は、余程怒り心頭に発しているのか、青緑色の蓬髪ほうはつを猫の毛のように逆立てていた。


 言い募るフュリーに、しかし『赤髪』は困り気味の苦笑を浮かべて見返すばかりである。フュリーはそんな友人の様子に薄緑色の羽から鱗粉を撒き散らすと、小さな手でポカポカと彼の頭を殴り付けた。


「いいか、そもそもお前はお人好しがすぎるんだ。普通の魔術師だったらティアー金貨一枚は取るような仕事も無償で受けやがって! この馬鹿、阿呆、図体ばっかりデカい考えなし!」

「おいおい、痛いからやめてくれよ。……なんだお前さん、俺がベッジの依頼を受けたことをまだ怒ってるのか?」

「それ以外に理由があるかよ、この大馬鹿!!」


 大声で罵って流石に疲労したのか、フュリーは肩を揺らして大きく息をつくと、近くの枝に飛び上がって腰掛ける。柔らかな苔の生えた枝の上で器用にバランスを取った彼は、行儀悪く片膝を立てて、実に不機嫌そうにその膝頭に頬杖を付いた。フュリー、と物柔らかな声で『赤髪』が呼ぶ。その声に小さく鼻を鳴らしたシルフは、ややあって声のトーンを落として言葉を続けた。


「なぁ、本当にここを離れる気はないのか? いくらここが聖地の一つだとしても、お前が一人で寂しく生きていくのなんて、俺は見たくないぜ」

「別に寂しいとは思ってないよ。それに、俺は一人じゃないからな」

「どういう意味だ?」

「だって、お前さんがいるもの。一人にはなりようがないだろう?」


 あっさりと『赤髪』は言うと、整った顔に心からの笑顔を浮かべる。それに虚を突かれたような顔をしたフュリーは、何事か言いたげに口をもごもごと動かした後、徐に宙へと飛び上がった。その白い頰は熟れた林檎のように赤かったが、『赤髪』が何か言うよりも先に、彼は口早に言葉を紡ぐ。


「そういう言葉は惚れた女にでも言えよな、全く……。よし、今日は島外れの『白砂の湖』まで行くぞ。気晴らしだ、気晴らし」

「はいはい」


 先に立って飛んでいく友人に、笑いながら『赤髪』も立ち上がる。そのまま小さな背中を追おうとした彼は、しかし足を止めると辺りを見渡して、ほぅと一つ息を吐いた。彼は、いくらフュリーが世界樹を「田舎」だと断じたとしても、こんなに美しい場所がほかにあるだろうか、と思っていたのだった。


 彼等がいたのは、巨大な世界樹の木の根の上であった。人間の大人が三十人で手を繋いでも囲めないような大樹は、木の根一本であっても樹木の幹のような太さを持ち、根の下の地面は柔らかな苔がふかふかと茂っている。根と根の隙間に広がる空き地の外側、世界樹の根が途切れるところからは、世界樹程ではないにせよやはり巨木の並ぶ森が続く。にれに杉、樫に赤松、ヤヨイイチョウに銀欅といった木々が立ち並ぶ森は、世界樹の生気を分け与えられて、春の終わりの今はどの木々も青々とした葉を茂らせていた。

 黙って美しい森を眺めていた『赤髪』は、はらりと舞い落ちてきた顔程も大きさのある木の葉を受け止めると、そのまま天を仰ぐ。遥か天の彼方まで伸びる世界樹の向こうには、抜けるような青空と白い雲が広がっている。空中では薄いガウンを羽織ったエアリアル達が世界樹の手入れに勤しみ、その鮮やかな絹織物や彼等の髪を七色に輝かせる。緑に、青に、黄金に染まる世界樹の幹は、穏やかな陽光を浴びてどんな宝石よりも眩しく煌めき、大気に淡いマナの流れを生んでいる。虹色の流れにそっと手を翳した『赤髪』は、大気を泳ぐあえかな川のようなマナを指先で花の形に結ぶと、水に木の葉の船を浮かべるように手放した。マナは『赤髪』にとって、姿の見えない母よりも、ともすれば小さき友人よりも親しい隣人だった。それが彼にとっての当たり前であり、マナさえ共にあれば、彼は決してその身に寂しさを感じることはなかった。


「……俺は、自分をそこまで不幸だとは思わんのだがなぁ」


 『赤髪』は呟く。彼は、彼の友人が時たま烈火のように怒り狂いながら彼の身を「不幸」だと断じることの意味が今一つ分かっていなかった。当たり前のことではある。彼は生まれた時から独りであり、齢八百を数える今となっても、友人らしい友人などあのシルフの少年しかいなかったのだから。彼にとって家と言えば世界樹の洞であり、母と言えば世界樹そのものであり、父の顔は知らずとも、フュリーという友人がいれば話し相手には事足りていた。彼はそれだけで十二分に満足であった。


 ──知らないものを我慢することは、容易い。何故なら、其れ等は全て、最初から彼の手元にはないものであるが故に。


『赤髪』が付いてこないことに気が付いたのか、フュリーが少し離れたところから「早く来いよー!」と叫び声を上げる。それに手を振って返すと、『赤髪』は落ち葉を地面に放って、身軽な足取りで彼を追いかけたのだった。



【続】

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外れ者の赤 アルストロメリア @Lily_sierra

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