第4話

 *


「――――、か、穂香!」

「……………ん」

 自分を呼ぶ声がして、穂香はそっと目を開ける。

 目の前には苦手な世界史の教科書が見開きの状態で置かれている。その下に敷かれたノートには「明治時代の文豪」と大々的に書かれたタイトルだけで、それ以降は新品同様に真っ白だった。手の中にあったはずのシャーペンは教科書を横断するように遊んだ後が薄っすらと残り、机の端で止まっていた。

 穂香が顔を上げると、隣の席の友人が焦った様子で黒板に向かって指をさす。教卓で世界史の教科担任であるやま先生がこめかみの血管を微かに動かしているのが見えた。ああ、これはやらかしたと、未だ覚醒しない頭で現状を察した。

「藤宮、話を聞いていたか? 明治の文豪、夏目漱石の代表作は?」

「……『月が綺麗ですね』?」

「『こころ』の説明をしていたのによくそれが出てきたな。夢の中でプロポーズでもされたのか」

 葉山先生が呆れた顔で返すと、周りの生徒もクスクスと小さく笑う。

 黒板の上で動いている時計はすでに授業開始から約四十分も経過していた。板書どころか、あと五分もしないうちに授業自体が終わってしまう。昼休み後の授業だから睡魔に襲われてもおかしくはないが、教室にいる全員が同じ条件下にある。言い逃れはできない。

「ちなみに『月が綺麗ですね』は、夏目漱石が英語の教師を受け持っていた頃に使われていた教材で『I love you』を翻訳する際に使われたことから生まれたという逸話だ。……最近はいろんな諸説が出回っているけどな」

 捉え方は各々に任せる、と適当に生徒に投げたところで授業終了のチャイムが響いた。

 挨拶を終えてすぐに先生は穂香を呼んだ。教卓へ向かうと、早々に先程の居眠りの件で問われる。

「最近多いな。ちゃんと寝ているか?」

「大丈夫です。すみません」

「……無理はするなよ。不安なのもわかるけど、保健室に行くことも選択肢に入れろよ」

 葉山先生が深く追及しなかったのは、ある程度の事情を把握しているからだ。それが半年経った今も解決していないことも知っている。心配かけまいと穂香は笑ってまた「大丈夫です」と答えるが、それでも先生の顔色は晴れなかった。

「わかった。……そうだ、明日はノート提出日だから準備しておけよ?」

「……へ?」

 きょとん、と先生の顔を見ると、今度は大きな溜息をついた。

 時はすでに十二月。多くの授業が学期末に向けて定期テスト後に回収する板書用のノートが、世界史だけは先生の都合の関係でテスト前に回収することになっていたのだ。

「事前に告知しただろー。今日の分まで入ってなかったら再提出だぞ。ちなみに、明日の一限目から世界史だからな。しっかり書いておけよ」

「うえぇぇぇ……」

 言葉にならない悲鳴のような声が出た。先生が教室を出ていったと同時に慌てて黒板に目を向けるが、すでに日直によって消されており、白い靄だけが残った状態だった。

 穂香はすぐさま席に戻ると、隣の席で今か今かと待ち構えていた友人――西にしかわすずに手を合わせる。

「鈴乃さんノートを、世界史のノートを恵んでくださいー!」

「そうだろうと思って準備してたよ。はい、どうぞ」

 可愛らしい桜色のノートを開けば、今日の授業の内容が事細かに書かれている。授業終わりに穂香が間違えた『月が綺麗ですね』も、端に緑のペンで小さく書かれていた。

「やっぱり鈴乃のノートが一番綺麗で読みやすい! ありがとう」

「板書だけは好きなのに成績が伸びないのが難点だけどね。さっさと書いちゃって」

 鈴乃はそう言って次の授業の準備を始めた。

 中学に入学した当初、周りに知り合いがいなかった穂香は、教室の端で孤立していた。そんなときに声をかけたのは、遠い席に座っていた鈴乃だったのだ。

 話していくうちに、食べ物や音楽、俳優などものの見事に好きなものが同じだと知ると、休日も出かけるほどの仲になり、気付けば二人は一緒にいることが多くなっていった。もはや親友といっても過言ではないと、お互い自負している。

「でもあの真面目な穂香が授業中に寝落ちするなんて珍しいね。最近多くない?」

 世界史のノートを書き写していると、次の授業の準備を終えた鈴乃がこちらを見ながら聞いてくる。先程先生にも言われたせいか、無意識に書き写す手が止まった。

「そうかな?」

「そうだよ。……もしかして、何かあった?」

「何もないよ」

 そう返すも、鈴乃はじっと穂香を見つめてくる。

 穂香が何か隠していると察するたびに、鈴乃は決まってまっすぐ見つめてくるのだ。耐えかねて口を滑らせた結果、毎度しょうもない話で終わるのだけれど、今回ばかりは必死に飲み込んだ。

「本当に大丈夫だよ。最近ハマったアニメがあって、気付いたら夜中まで観てるの。きっと寝不足もそれだと思う」

「そう……? 無理してない?」

「してないよ。大丈夫」

 鈴乃は漫画やアニメがあまり得意ではない。だからそうやって言い包めれば、追及してこないと思った。予想通り鈴乃は「分かった、けど溜め込む前に言ってね」と笑って続ける。

「お姉さんに相談できなかったら、私にしてくれていいから」

 穂香は目を細めただけで、またノートに目線を戻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る