水星研
海屋敷こるり
水星研
「水星の地図を作ってください」
仮想空間に入室するや否や、耳に嵌めたイヤホンを通じて、汎用合成音声が勤めて明るく新たな課題を伝えてきた。
伏見はすぐに返事をせず、かつて人類のすぐそばで共に宇宙を公転していたと言われる「水星」という星についての知識を、脳のずっと奥の方から引っ張り出し始めた。
「失礼。このような場で惑星を通称で呼ぶことは控えるべきでしたね」
博士は伏見の考えていることを勝手に読み取ったらしい。
伏見は博士の顔を直接見たことはないが、自分の姿どころか肉声すらも頑なに表に出さず、どんな小さな指示でも必ずこの仮想空間に人を呼び出したうえで、わざとらしい抑揚の合成音声を使って一方的なコミュニケーションを行う彼のことをどうしても信用することができないでいる。
「ここで言う水星とは、惑星W12-LeV。かつて太陽系に存在した水星のことではありません」
かつての水星は、遥か昔に天の川銀河ごと爆発して消滅してしまった。今存在している人類は、まもなく消滅する死の星を命からがら抜け出し、遠い彼方の新しい銀河になんとか棲みついた、言わば二代目の人類であった。
「惑星W12-LeV――以降は『水星』と呼称します――は、H2Oのみで構成される惑星です。ミネラルの含有量が極端に少ないため、かつての地球の『海』のような生態系は存在しません。真球状の巨大な水と氷の塊を、分厚い水蒸気の雲が覆っています。そのため、宇宙空間から内部の様子は観察できません」
博士は惑星W12-LeVの情報を一気に合成音声に読み上げさせた。「さっさと情報を頭に詰め込んで作業に取り掛かれ」という圧力だろう。
伏見は早速、今いる仮想空間から退出し、件の惑星へ出かける準備を始めた。
「水星の地図を作ってください」
合成音声が、不快なゆっくりさで5分前と同じ文章を読み上げた。
*
深い闇に浮かぶもやもやとした白い球の中に、一人乗りの小型宇宙船が突き刺さった。水蒸気の塊は突き進む宇宙船の形に沿って穴を開けたが、すぐまたもやに覆い隠されて、占い師がまじないをかけた瞬間の水晶のようにただもやもやとした球体に戻ったようだった。
徐々に減速しているものの、依然高速で推進し続ける伏見には、実際のところ己の開けた水蒸気の穴が今どうなっているのかなど確認のしようがない。
「着陸だ」
着"陸"というよりは着水と言った方が正しいだろう。どぼん、と大きな音を立て、小型宇宙船は惑星に到達した。
巨大な水の塊と正面衝突した宇宙船は、一気に速度を失ったまま静かに水の中を沈み始める。
「巨大な風呂桶の中にいるみたいだ」
水星の海は、薄めた牛乳の中を漂っているかのように空虚で満たされた空間だった。
不純物をほとんど含まない純水の海は、白い空から差し込む新太陽のやわらかな光を右から左へ受け流すように百パーセント透過する。
水の空間を通り過ぎた光はそのまま、これまたどこまでも不純物を含まないがゆえにその存在を疑うほどに透明な氷の核へと到達し、潮の満ち引きによってわずかにでこぼこした氷の表面で乱反射する。その反射した光によって、完全に透明なはずの海は乳白色を帯びているようだった。
「作業の時間は限られていますよ、伏見君」
自らの体表と完全に同じ温度のぬるま湯に浸かっているときのように、なんの快も不快もない奇妙な空間に、放っておけば伏見はそのままとろけて同化してしまいそうなほどうっとりしていたが、耳をつんざくような合成音声のアラートにすっかり現実に引き戻された。
「さあ。そのまま海を漂っているわけにはいきませんね。どうやって宇宙船を停泊させようか」
先ほどまで固い丁寧語を貫いていた博士の合成音声の口調がわずかにほころんだのを、伏見は聞き逃さなかった。そして心の中で舌打ちをする。
博士の口調が砕けるとき、それは彼を必要以上に試しているときであるからだ。
「この惑星の核となっている氷の層は随分分厚いようです。杭を打って固定させてみますよ」
残された時間は少ない。成功するまでトライアンドエラーを繰り返し、確実に結果を出さなければ。
宇宙船から発射されたアンカーは、運よく水底の氷の塊に突き刺さったようだった。伏見は酸素マスクのスイッチをオンにして、人一人がやっと這い出せるくらいの小さなハッチから水中に泳ぎ出した。
残り少ない入浴剤を、溜めたばかりの白湯のなかに溶かしたような、煙のような乳白色の中を泳いで回る。どこまで行っても変化のない景色を漂いながら、伏見は手がかりになりそうなものをきょろきょろと探した。
「そういえば、どうしてこの惑星の地図の作成が難しいのか把握していますか?」
博士からの問いに、伏見は淡々と回答を述べる。
「この惑星に居住地を作るにあたり、地図の作成が急がれているが、まだ正式にどこの国の領地とするか決定していない状況でむやみな建築や掘削は禁止されていることに加え、この通りの綺麗な白一色ですから、図にも絵にもしようがない、で合ってます?」
「さすが、満点です。ささやかながら加点を差し上げましょう」
見えない顔が、胡散臭いニコニコ笑顔を浮かべているのを想像した伏見はそれ以上会話を続けようとはせず、思考を続けた。
海図、というものがある。海を渡る航海士が、己の船の現在地を知るための水上の地図だ。見渡す限りの大海原の地図は、主に地点ごとの水深データをもとに作成されていると聞いたことがある。
しかし、この水星では水深を根拠に現在地を特定することは難しいだろう。この星は、巨大な氷塊が新太陽の熱によって溶かされ続けることで真水の層を形成している惑星だ。いわば常に溶け出し続けているグラスの中の丸氷のような星の表面に、はっきりとした高低差など存在しないだろう。
マスクの中の酸素の残りが五十パーセントを切ったことを知らせるアラートが、伏見の心をざわつかせる。
博士はいつも無駄なディテールに懲りたがる。
今、伏見の体は安全な地上の屋内にいて、呼吸など嫌になるほどすることができるにもかかわらず、博士は毎度仮想空間において必要のない「酸素残量」などというリアリティを勝手に持ち出してきては、伏見が慌てふためくさまを鑑賞するのだ。
伏見は溜息をついて、深い水の中をしばし仰向けになって漂った。
「陸地のない惑星の地図を作る」などという一見無理難題にも思える課題だが、いくら底の知れない性格の博士と言えど、答えのない作業を与えるほど底意地の悪い人間ではない。考えれば、答えは必ずあるはずだ。
白い雲によって適度に和らいだ新太陽の日差しが心地良い。
実際にはVR機器を通して感じさせられているただの電気刺激であるとはいえ、非現実的な風景と相まって、伏見は一種のセラピーのような安らぎを感じていた。
ぐん、と、腰に取り付けられているワイヤーが引っ張られる衝撃を感じ、伏見ははっと我に返った。
浮かんでいるうちに、いつの間にかワイヤーの延伸限界まで波に流されていたらしい。
ただの水の塊といっても、新太陽の引力で潮流は発生しているのだ。
「どこまで流されても水平線だな、この星は」
見渡す限り、緩やかな弧を描いた水平線が、白い霧のはるか遠くに見えるだけだ。伏見は水面から頭だけを出してバレリーナのように体を回転させ、水面に小さな水流を作って遊び始めた。
伏見は投げやりになってくると、小学生が授業中にする手遊びのようなくだらない行動で頭の中をリセットする癖があった。
何度もぐるぐると回るうちに、伏見はある一つのことに気が付いた。前と後ろで、遠くに見える水平線の弧の角度が微妙に違う気がするのだ。
置いてきた宇宙船に背を向けたとき、つまり新太陽に背を向けたときは、半円に近いのに対し、太陽の方を向いた時、つまり太陽に照らされている部分の水平線は、直線に近いカーブを描いている。
伏見はぴたりと回転を止め、浮かび上がった仮説を急いで頭の中で組み立てた。答えを出すまで、もうあまり時間はない。
ここで黙って熟考する時間すら惜しくなり、伏見はほとんど考えるのと同時に、導き出しつつある回答をマスクに取り付けられたマイクに向かって話し始めた。
「この星は、もとは大きな氷塊だったものが、新太陽の高温によって溶かされ、水と水蒸気の層を形成したものです。従って、新太陽に接している面だけが、常にその反対側よりも強く融解していると考えられます」
伏見は長く深い息を吐き、焦りで苦しい呼吸を整えた。
「この星は完全な球体ではなく、新太陽に合わせて平らな面を徐々に移動させながら公転している、ドーム状の惑星です」
この惑星は、時間によって地形が変わるのだ。地上のような地図でなくとも、今見える水平線の弧の角度と腕時計を照らし合わせれば、おおよその位置は把握できるだ
ろう。
「酸素残量限界です。回答を止めてください」
キリ良く時間切れのアナウンスがかかった。伏見はふぅ、と息をつき、後頭部の布製のバンドが汗で湿っているのを感じながらVRゴーグルを外した。
「伏見君、合格です」
イヤホンから、博士の合成音声に結果を告げられる。
「満点には惜しくも届かずといったところですがね。『氷に杭を突き刺す』というのは国際法に抵触するおそれがありますから、もう少し穏便な方法を考えてみましょう。しかし、新地球の形成について学習前にここまで自力でひらめくことができるなら、高校受験は安泰でしょう」
「ありがとうございます。これからも精進します」
定型文で返事を返し、そそくさと教室を出た伏見は水上に浮かぶ巨大な埋立地の無骨なコンクリートの道路を小走りで帰っていく。
遠い昔、人類は旧地球から脱出した後、運よくこの惑星W12-LeVに辿り着いた。
時間で変化する地形と時間の組み合わせによって割り出された特殊な地図のお陰で、真水しかないこの惑星を人工土壌で埋め立て、旧地球のように豊かな海を再現する作業は効率的に進行された。
今は海と陸地の広がる雄大なこの星が、かつて母の腕の中のようにただ白一色で埋め尽くされていたことをその目で直に見たものは、もうこの宇宙には存在しないだろう。
水星研 海屋敷こるり @umiyasiki
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