第十九話 佞言断つべし
エアハルトがさらに何か言い掛けた時、こちらに歩いて来る人間の気配がした。咄嗟に二人で口を閉じる。
やって来たのは、知っている人間だった。ただ、ヒルトの前世の記憶の中にある人間と言うだけで、実際には会うどころか顔を見るのも初めてだ。
大佐の階級章を付けた二十代後半程度の男。
背が高く随分と細身の、どこか陰気な印象がする人間である。特に黒い瞳に異常に光が無い。
ヒルトの前世でもこの男はこのタイミングでヒルトに接触して来ていた。多少歴史が変わっても、結局それは変わらなかったようだ。
何か警戒したのか、エアハルトがそっと私の前に立ち、男に向けて敬礼した。
「失礼ですが、何か御用でしょうか?」
「ヒルトラウト・マールバッハ少将ですな」
男はエアハルトの事を無視し、私にそう尋ねて来た。
「そうだけど……あなたは?」
私は形式的に訊ねてみた。彼が何者なのか、ここに何をしに来たのかはよく分かっている。
「お初にお目にかかります。イェレミアス・フォン・フレンツェン大佐です。此度の昇進、おめでとうございます」
そう言って彼は私にだけ向けて敬礼した。仕方ないので私も敬礼を返す。
「フレンツェン大佐ね。どう言った要件かしら」
「実は私は先日までハーゲンベック家私設艦隊の軍事顧問を務めておりました」
大貴族の私設軍隊に監視を兼ねて帝国軍から軍事顧問が送られるのは良くある事だった。
「あら、だとしたら叛乱に加わっていたのかしら」
私は分かり切った事を訊ねた。もし叛乱に加わっていたのだとしたらこんな風に宮廷を自由に歩き回っている訳がない。
「いえ。ハーゲンベック様の軽挙を諫めようとしたのですが敵わず、その後は帝国軍人としての責務を果たすために脱出し、叛乱の情報を本国に持ち帰りました」
「それはお手柄じゃない。それで、その話が私に何の関係があるのかしら?」
「はっ。その結果として私は今役目を失い、宙に浮いた状態にあります。いずれはどこか新しい部署へと配属されるでしょうが、もしよろしければ新しく分艦隊司令になられるであろうマールバッハ少将の幕僚に加えて頂きたく」
そう、この男はここで自分をヒルトに売り込みに来るのだった。
その結果、この先ヒルトの参謀として長く彼女に仕える事になり、彼女の意思に応じて様々な政略や謀略を発案する事になる。
何の実力も無い世間知らずのお嬢様であるヒルトが概ね悪い方向にとは言え散々に世の中を引っ掻き回せたのは、この男の献策による所が多い。
そしてヒルトが最終的に破滅する時になると、何の責任も取る事も無く、雲隠れしてしまうと言う客観的に見ればかなりロクでもない人間だった。
エアハルトは終始この男を危険視し、遠ざけるようにヒルトに進言していたのだが、それが聞き入れられる事は最後までなかった。
「あら、それは光栄ね。でもどうして私を選んだの?どうせなら飛ぶ鳥落とす勢いのエーベルス伯の一派に行った方がいいんじゃない?」
そう言いながら私はフレンツェン大佐の能力を見てみる。
統率52 戦略90 政治95
運営97 情報99 機動18
攻撃20 防御21 陸戦20
空戦29 白兵73 魅力45
ここまで優秀だったのか……
ステータスだけ見れば是非手元に置いておきたい人材ではあるけど……この世界はシミュレーションゲームでは無いのだ。
「上に立つ人間には、上に立つ人間に相応しい高貴さと言う物があるでしょう」
フレンツェン大佐が静かに答えた。
「残念ながら、エーベルス伯とその周辺の者達にはそれがありませぬ。私は是非あなたにあの方よりも上の位階に登って頂きたいと思っております。そのためのお手伝いを致したく」
本来のヒルトなら「その通り!」と全面同意するセリフだった。
実際、前世のヒルトはこんな冷静に考えれば頭がおかしいとしか思えない佞言にほいほい乗ってしまって彼を腹心にしてしまうのである。
「それってひょっとしてギャグで言っているの?」
私は内面の嫌悪感と滑稽さを半ば隠す事無く答えた。
「は」
「本気で言っているのだとしたら残念だけどあなたと私じゃ人間を測る基準が違うようね。それとも世間知らずの貴族のお嬢様ならそんな風におだてあげれば簡単に取り入れるとでも思っていたのかしら」
いやまあ、実際それで簡単に取り入れたのだから、そこを責めるのは少し気の毒だが。
「いえ、私は」
フレンツェン大佐が戸惑ったような声を出す。私はそれを遮った。
「残念だけどお引き取り願うわ、大佐。今の所私の腹心は彼で間に合っているの。そして彼を無視するような無礼な上に人を見る目が無いような人間を私の幕僚にするつもりはないわ」
私はエアハルトと腕を組み、半ば彼の影に隠れるようにしてあっかんべーをしながらフレンツェン大佐に言い切った。
フレンツェン大佐はしばらく非友好的な視線をこちらに向けながら沈黙し
「残念です、マールバッハ少将。そして非礼は詫びよう、ベルガー大尉」
私とエアハルトにそれぞれ敬礼すると背を向けて去って行く。
……本当はエアハルトの名前までしっかり事前に調べており、それでも敢えて無視していた、と言う事を伝えて来たのはわざとなのかどうか。
「……何者だったのですか、彼は?」
エアハルトが訪ねて来た。
「さあ。良く分からないけど何か気に入らない人間だったわね」
「良かったのですか?せっかくあちらから来てくださったのに、あんな断り方をして」
エアハルトもそう言いつつ、私がフレンツェン大佐を追い払った事にほっとしているようだった。
「いいのいいの。あんな佞言で人に取り入ろうとする奴なんてどーせロクな人間じゃないわ」
正直能力は惜しかったし、上手く使いこなせれば、と思わなくも無かったけど。
恐らくあの男を手元に置けばいつのまにか私の方が踊らされているだろう、と言う恐怖に近い確信があった。
ヒルトの前世の記憶を、第三者の視点で見つめ直すと———彼女もフレンツェンを使っているつもりで実は良いように使われていたのではないか、と言う気すらしてくるのだ。
それにヒルトの前世ではエアハルトが散々に警戒していた相手だ。わざわざ近くに置くべきでは無いだろう。
「ただあの男のこの先の動向、少し気を遣っておいて。私に振られて次はどこに行くのか、ちょっと気になるわ」
「はい」
単に軍人としての栄達を目指すだけなら、どう考えても私よりもティーネの所に行くべきだろう。彼の能力であればティーネの幕僚としても十分に通用するはずだ。
そうしなかった、と言う事は彼の目的は軍人としての栄達でない、と言う事になる。
ならば何が目的だったのか、と言うと、それに関してはヒルトの前世の記憶を振り返ってみてもなお、はっきりとはしなかった。
私に取れ入れなかった事で大人しくしてくれるのならいいのだが……放っておくとどこかに別の宿主を見付けて何か始めるかも知れない。
「さ、帰りに帝国図書館と後は適当なカフェにでも寄って、帰りましょう。今日は疲れたわ。特に今ので、どっとね」
私はそう言うと踵を返して歩き始めた。エアハルトが慌ててそれを追う。
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