私の話を聞いて

相原梨彩

第1話

 耳がぶわんぶわんする。


 進路希望調査表と睨めっこしている最中、耳に違和感を覚えた。


 耳の中にナニカが入り込んで鼓膜を揺らしているような感覚がした。


 まただ、またナニカが悪さをしようとしている。


 息が苦しくなる。ナニカが手を止める。ナニカが全てを支配しようとする。内側から込み上げてくる不安や焦り。ナニカが心を掻き乱す。きちんと一つ一つ並べていたレールを壊していく


 息がしづらくなった。喉にナニカがつっかえているような感覚がする。ナニカに支配されかけている。ナニカが心を壊そうとしている。ぐわぁっと血が全身を駆け巡る。体が熱い。


 拳をぎゅっと握れば痛みではやる気持ちが少しは紛れるような気がした。


 ♦︎

 

「それジョニーの友達じゃない?」


 冬の真夜中の公園、ベンチに腰掛けながらナニカについて相談すればレイはそう口にした。


 レイと呼んでいるが彼女の名前が本当にレイなのか僕は知らなかった。


 ただ彼女が僕と初めて会った時こう言ったのだ。


「ユー・レイって呼んで」


 外国っぽい名前だなと大真面目に受け取った僕は何かを企んでいるような悪戯っぽい笑みを浮かべるレイを見て初めて自分が揶揄われているのだと知った。


 新手のハニートラップなのか詐欺なのか、警戒する僕だったがあの日以降レイは冗談めいたことを言うこともお金を要求することもなかった。


 ただユーモアに溢れているだけだったのかもしれない。それならあの時渋い顔をせず笑ってあげれば良かったと今更ながら後悔する。


 ちなみに僕の名前は榊原だ。昔好きだったアニメのキャラにちなんでという単純な理由の名前は洒落た名前のレイに比べて見劣っているように感じる。


「ジョニーって何?」


 レイの言葉の中に突然現れたジョニーについて聞けばレイは言う。


「私もいるの。その、榊原くんが言うナニカってやつ。私はそれをジョニーって呼んでる」


「へぇ……」


 ナニカに名前をつけるなんて考えもしなかった僕は目を丸くした。


 レイと違いユーモアのかけらもない僕の反応にレイは特に何も言うことはなかった。


 レイといると心地良い所はこういう所なのだろう。レイは僕がどんなつまらない返しをしても愛想笑いをすることも苦笑いをすることもなく何も気にしていないように見えた。


 レイの方をふっと見ればレイはただ真っ直ぐ前を見つめていた。


 僕もレイにならって前を向けば自販機が目に入る。自販機の側面にはもう死を待つだけなのだろう弱々しいコバエがたまにほんの少しだけ羽をばたつかせ止まっていた。


「ねえ覚えてる?」


「何を?」


「初めて会った日のこと」


「もちろん」


 僕は大きく頷く。僕たちが会話を交わす間にもコバエは少しずつ羽を動かす速度が落ちていく。


「あの時、私おかしかったんだ」


 レイの悲しげに発する言葉に僕は遠慮がちにまた頷く。


 あの時のレイはおかしかった。いや、今も僕らは少しおかしいのかもしれない。


 高校生の僕らが夜、家を抜け出して公園でぽつりぽつりと話している姿は普通ではないだろう。けれどそんなことが比にならないくらいあの時のレイはおかしかった。


 ♦︎


 あの日も僕はいつものように両親が寝静まった後一階の自室の窓から飛び降り外へと抜け出した。


 いつからか習慣化した夜の街の徘徊。その日も適当に散歩をして自販機で飲み物を買ってそんないつも通りの夜が待っていると思っていた。


 けれどいつもの公園の自販機で飲み物を買おうと足を運べばそこにはいつもと違う光景があった。


 弱々しい光の街灯で照らされたベンチの下には明らかに人がいた。


 視界の端にしか入っていなかったベンチに焦点を当てる。


 初めはホームレスか酔っ払いのおじさんだろうと思っていた人がベンチに近づくにつれそうではないと知った。


 ベンチの下に横たわり目を瞑っているその人は黒く艶のある髪を顔周りに纏い制服を着ていた。


 以前姉が通っていたことから見覚えのある彼女が着ている女子校の制服に僕は驚きつつ彼女に近づく。


 体は揺れていた。息をしていることが分かり少しだけ安心する。


 ただ女子高生が真夜中の公園のベンチの下に眠っているという異様な光景は変わることがなく僕は戸惑っていた。


 彼女が自分の意思でそこで眠っているのかどうかは分からなかった。けれど自分の意思にしろあまり防犯上良くないだろう。


「大丈夫ですか?」


 勇気を出し声をかける。彼女は僕の声を聞くと瞑っていた目をゆっくりと開けた。黒目の大きいまん丸とした虚ろな目が僕を捉える。


「どちら様?」


 彼女の声は細く美しかった。透き通った綺麗な目を見ながら僕は答える。


「通りすがりのものです。大丈夫かなって」


 僕が答え終わると同時に彼女は足を使いベンチの下から頭を出した。足を地面に滑らせ体もベンチの外へと出す。上半身が出た時体を起こし残りの下半身もベンチの外へと出した。


 彼女は立ち上がり両手で制服についた土を払う。その間、彼女の頭では細いポニーテールを結った赤いリボンが揺れていた。


「あの、大丈夫ですか?」


 返事がない彼女にもう一度問いかけると彼女は無言のままベンチに座る。


 聞こえていないのだろうかともう一度口を開こうとした時彼女は唐突に口を開いた。


「ねえ、君はコバエについてどう思う?」


「……え」


 思ってもみない言葉に僕の声は裏返った。


 何と返事をするべきなのか、そもそもコバエについてなんて考えたことがない。


 たまに家にふらっと入ってきて僕は潰そうとコバエを追いかけ格闘する、僕とコバエの関係はそれだけだった。コバエの正式名称が本当にコバエなのかもコバエがいつどこで生息しているのかも知らない。


 そんな僕は彼女が求めている答えが分からずただ薄ら笑いを浮かべるしかなかった。


「コバエはね、成虫になったら十日間くらいで死ぬの」


 彼女はぽつりと言葉を溢す。


 十日、僕たちにとっては一週間と少しのわずかな期間、コバエたちはそれだけしか生きられないらしかった。


 彼女は少し変だ。見ず知らずの僕に急にコバエについて話し出す変な人。けれどそれを言ってしまえば僕だって大概変な人だ。訳の分からない彼女の話に足を止めているんだから。


「きっとコバエは十日間で子孫を残そうだとか楽しもうだとかそうやって頑張って生きてるはずなの。たったの十日間。その十日間をいかに有効活用しようかって生きているはずなの。なのに私は適当に生きてる」


 僕は彼女の言葉に何も返すことはできなかった。ただ彼女のうつろな眼差しを追っていた。


「ねえ」


 彼女は僕を呼んだ。彼女の黒い瞳は僕を捉える。


「私の話を聞いてよ」


 彼女は笑っていた。けれど彼女の笑顔は何かを諦めたような絶望したかのような物悲しい笑顔だった。


 レイは私の話を聞いて、と言ったのにも関わらずその日名前を名乗っただけでそれ以上口を開くことはなかった。


 ただ真っ直ぐぶんぶんと飛び回っているコバエを見てたまにため息を吐いてそのまま朝日が昇る直前に夜に溶けていった。


 またね、唐突に告げられた別れの言葉に僕はああ、とよく分からない返事しか返すことが出来なかった。ただレイのまたねという言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。


 それはきっともう既にレイに僕が虜になっていたのだろう。


 といっても恋愛的な意味ではない、人としてだ。レイなら僕のこの息苦しさも何となくずっと突っかえてるように感じる喉もナニカにずっと掻き回されている体も全部全部治してくれるような気がしたのだ。僕のことを分かってくれるような気がした。誰も分かってくれない僕の苦しみを共有してくれるような気がした。


 だから僕はそれからも毎日レイを探した。時間が悪いのかと朝まで徹夜で粘ったりもした。けれど一ヶ月近くレイに会えることはなかった。

 

 段々と記憶が曖昧になっていく。レイなんて本当はいなかったんじゃないか、僕の妄想だったんじゃないか、そんなことまで考えるようになった時レイは突然現れた。


「ねえ」


 ベンチに腰掛けうとうとしていた僕の頭の上から声が降ってくる。それは僕が一ヶ月以上焦がれたあの細く美しい声だった。


「私の話を聞いてよ」


 レイはそう言って笑った。その笑顔はこの間とは違う太陽みたいに眩しい笑顔だった。


 僕は夢なのか現実なのか少しふわふわとした感覚から抜け出せない。


 そんな僕を見てレイは制服の胸ポケットからシャープペンシルを出すと僕の太ももを突いた。


「いたっ」


 声を上げる僕を見てレイはケラケラ笑う。


「忘れちゃったの?」


 揶揄うように言うレイに僕はぶるんぶるんと首を振る。


 この一ヶ月間レイのことを忘れたことはなかった。そうレイに一生懸命話せばレイはベンチに腰掛ける。


「良かった」


 レイはこの一ヶ月何をしていたのか語らなかった。僕もレイの聞かないでオーラにやられ聞くことはなかった。レイがここにまた来てくれた、僕に話しかけてくれた、それだけで十分だった。


 その代わり僕は初めて会った時から疑問に思っていたことを投げつけた。


「何で制服を着てるの?」


 当たり前な話だが真夜中のこの時間、制服を着ている必要はない。だるだるのTシャツにズボン、サンダルを履いた僕と違ってレイは制服を身につけ革靴を履いていた。


「制服が可哀想だから」


 大したことないように言うレイに僕は首を捻るとレイは続きを口にする。


「私、不登校だから制服着てあげられないの。だから夜くらいは着てあげないと可哀想かなって」


 レイは独特の感性を持っていた。意味がよく分からないこともあったがそれ以上にそんなレイに惹かれていた。


 それからレイと僕の真夜中の密会は続いた。特に何をするわけでもない。他愛もないことを話し二人でぼうっとしているだけだ。けれどそんな時間が僕にとって一番大切な時間であり幸せな時間だった。


 色々な思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る中、レイは言う。


「あの時本当におかしくてずっとジョニーが私の中を支配してたの」


 僕は現在に意識を引き戻されレイの話に頷く。


 ジョニーというのは僕でいうナニカの友達だとレイはさっき言ってた。きっと僕がナニカに支配される時のようにレイはジョニーに支配されていたのだろう。


「ペットみたいに可愛がれば少しは楽になるかなとか思ってジョニーなんて名前つけてでもそんな簡単には変わらなかった。家にいるのも何だか苦しくて駆け出してしまいそうになって駆け出してでもそんな自分が馬鹿らしくなって何処かに消えてしまいたくなって。そんな時、ベンチに隠れた」


 あの日の経緯を話すレイは苦しそうだった。そんなレイの表情を見ているのは僕も苦しかったけれど止めることはしなかった。


「そしたらね榊原くんが来たの。あの時とにかくジョニーを追いやりたかった。何処かへ飛んでいって欲しかった。だからよく分からないままいつも考えていたことを口にしたの」


 レイはコバエを見つめる。


「でもそんな簡単に治らない。誰かに話を聞いてもらえれば治るかななんて考えて私の話を聞いてって言った。でも私にはあの時コバエ以上のことを話す勇気なんてなかったんだ」


 僕は手のひらを見つめる。昨日ナニカを追い出そうと格闘していた時に拳を握りしめたからか手のひらは爪が食い込んだ跡が赤く残りヒリヒリと痛んでいた。


 レイもジョニーと格闘している。僕と同じようにジョニーに支配されないように頑張っている。


 レイはコバエから僕の手のひらに視線をうつした。


「榊原くんも自分の体、傷つけることあるんだね」


 レイは笑った。その笑顔は少しでも突けば壊れてしまいそうな脆い笑顔だった。出会ったあの日に見たような笑顔に僕の胸はきゅっと掴まれる。


「傷つけたというか、ナニカから逃げようとしたら自然にって感じなんだけどね」


 僕の少し無理した乾いた笑い声は一本の街灯に照らされた公園内に響いた。


「そっか」


 レイは事前に買っておいたのであろう缶コーヒーのプルタブを少し伸びた爪で開ける。そのままの勢いでくいっと煽り飲み干すとゴミ箱の中へと缶を投げ入れた。缶はカランカランとゴミ箱の側面に当たりながら回転しやがて動きを止める。


「私はね、たまに無性に自分を傷つけたくなるの」


 レイは一呼吸置くとまた言葉を紡ぐ。


「だって痛みを感じている間は生きていることを実感できるでしょ?」


 そう言うと突然、数秒の間こちらが見ているだけで痛々しくなるほど頬を強く引っ張った。白く痩せ細り骨張った手が一層痛々しさを感じさせる。


 レイの腕には見えているだけでも十数個の傷があった。


 日に日に増えていく傷を見る度に何かを言おうとしてやめた。


 レイはきっと傷のことについて触れられることを望んでいない。


「やっぱり何回やっても痛いね」


 レイはほんの少しだけ口角を上げた。いつもそうだ。レイは僕に心配をかけないようにと引き攣った笑顔を見せる。きっと今もレイは苦しくて痛くて辛いはずなのにレイは僕だけのために笑っていた。


 レイの腕の傷を見る。


 一人、自分の腕を傷つけた時レイはどんな表情をしていたのだろう。


 今のように笑っていたのだろうか、それとも泣いていたのだろうか。


 いくら僕らが似ているとは言ってもレイの苦しみを完全に理解してあげることは僕には不可能だった。


 ただ一つ僕が分かるのはレイがこの瞬間ももがき苦しんで生きていることだけだった。


「……何で缶はゴミ箱に捨てていけるのにジョニーは捨てられないんだろうね」


「え?」


 ぽつりと呟いた僕の言葉にレイは首を傾げる。


「だっていらない物だってごみだって捨てて行こうと思えば捨てていけるのにジョニーはどこにも捨てられない。ゴミ収集車ですら持っていてくれない。ジョニーを捨てられればいいのに。お金を払ってでもいい、簡単にポイって捨てられれば僕もレイもこんなに苦しまずに済むのに」


 一生懸命、レイに僕の想いが伝わるように少し早口で喋る。いつも短い言葉でしか話さない僕には珍しいことだった。レイはそんな僕を見て目を丸くした後ふっと微笑んだ。


「榊原くんはいい人だね」


 僕は少し戸惑い首を傾げる。


「私、榊原くんと出会えて良かった」


 そう笑うレイの顔はさっきの悲しげな笑みではなかった。心から笑っているように見えた。そんなレイの表情を見て僕も思わず笑みが溢れた。


 これからも僕とレイの密会は続くのだろう。いつまで続くのかは分からない。いつの日か突然終わりを告げるのかもしれない。けれどそれでも良かった。レイが笑ってくれるならそれで良い。街灯に照らされるレイの横顔を見ながら僕はレイの幸せを願っていた。

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私の話を聞いて 相原梨彩 @aihararisa

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