第2章 一日目

 長崎県皆島列島の中心地、親頭島の大浜港にフェリーが着いたのは、七月十日火曜日の午後一時を過ぎたころだった。空は快晴。七月の熱く眩しい陽光は、首すじの肌を強く刺激してくるが、肌に感じる空気には、しっとりとした水分が感じられ、海風が心地よい。


 東京都杉並区荻窪にある下宿先を出たのは、今朝の五時前。我々の搭乗した日本航空605便が羽田空港を離陸したのは七時ちょうど。そして長崎空港から高速バスとフェリーを乗り継ぎ、ついにここまでやってきた。

 昨夜、発生した台風四号の影響か、船の揺れは大きく、航海中のほとんどの時間を、僕はトイレと客室を往復して過ごすことになった。このあと、さらに小さな船に乗り換えて二時間と聞いて、ぞっとしているところだ。


「次の船まで九十分ある。何か食うか?」


 青い顔で屋外待合所のベンチに座り込む僕とは対照的に、三輪さんは日の光の下、意気軒昂とした様子で仁王立ちしている。背中には荷物が詰まった七十リットルの巨大なザック。何を持ってきたんだか。それにしても、今日もでかいなこの人は。


「食欲ないです。先輩おひとりでどうぞ」


 出航後十分で船室横のトイレに駆け込んで以降、何度も出入りを繰り返し、僕の胃袋は、今も絞られるようにムカついている。


「ダメだぞアオイ。船酔いで一番わるいんは、胃が空っぽなことや。吐くに吐けないから、余計に苦しゅうなる。ここは体力をつけるため、そこの食堂でカツ丼でも食おう」

 カツ丼……、聞いただけで吐きそうだ。ただし乗り物酔いの対策で、胃に何か入れたほうが良いって話は僕も聞いたことがある。


「カツ丼は勘弁してください。何かこう優しいものはないですか」

「優しいものか。そうは言うてもなー」


 額に掌を当てて三輪さんが辺りを見渡すが、九州本土から船で二時間あまりの港には、目の前の古ぼけた大衆食堂の他に開いている店舗はないようだった。


 我々の乗ってきた長崎国際フェリーは皆島列島への大動脈で、この船の到着時刻に合わせ、港の店も開き、来客は次の島への連絡船を待つ間、買い物や食事をするはずなのだが……、残念ながら肝心の旅行客が非常に少ないらしい。


「失礼かもしれませんが、よろしいですか」


 今の苦しい状況に対し、あまりにも場違いな可愛らしい声が、うずくまる僕の頭上から聞こえてきた。視線をあげれば、大きく花の絵が描かれたニットTシャツに白いレースのロングスカートを纏った女の子が、心配そうにこちらを見つめている。女の子と表現したが、実際は僕と同じ年くらいだろう。足元にはピンクの大きなキャスターバッグが置かれているところを見ると、どうやら僕たちと同じ船でこの島に着いたところらしい。


「はい、なんでしょうか?」


 三輪さんが、僕の前にずいと出て、彼女に返答する。心なしか声が上ずっているような気もしないではない。


「体調が悪いようですが、大丈夫ですか」


「はいはい、こんなの何でもないんですよ。ただの船酔いです。ほんま情けないやつで」

「何か食べられるところを探しておられるように聞こえたので、失礼かと思ったのですが、お声をかけさせていただきました」

「ええ、ちょうど昼ですし。何か食べといたほうが良いですからね。どこか良い店をご存知なんでしょうか」

「はい、もしよろしければなんですが、あの建物の裏に小さなカフェがあったと思います。あそこなら、洋食メニューの他に、スープやアイスクリームもあったはずなんですが」


 アイスクリーム……良い響きだ。甘く冷たいアイスなら、吐き疲れて麻痺したようになっている口にも入れられるような気がする。


「カフェは良いですな。よし行きましょう」


 おいおい決断が早すぎるぞ先輩。尋ねるような彼女の視線を尻目に、三輪さんは高らかに宣言するとすでに歩き出していた。まあ何も言わず、僕の荷物も担いで行ってくれるのが、この先輩の良いところなのだが。

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