カブで儲けよう

笠井 野里

カブで儲けたはなし

「へぇ。このおじさんはカブを買って儲けたのか。よし、カブを買おう」

 高そうな革靴履いたおじさんの自慢話を聞いていた浮浪孤児ふろうこじで靴磨きの少年は、近くの八百屋にかけて行きました。

 靴磨きの少年は、店の看板が傾いた、なぜか水っぽくジメッとした八百屋の前まで来ました。野菜の香りさえ陰気に感じられるし、見渡してもだれもいないので、店をやっているのかさえわかりませんでした。


「カブください」


 少年が店の奥に届くように声を出すと、足音がパタパタと聞こえ、娘が顔を出しました。歳は中学生ぐらい。お姉さんだ、と少年は思いました。

 娘は少年のもとに来て、大きいカブを探して選んでくれました。近づいて来た娘の、小さな顔に不釣り合いとも思える太い眉毛と、頭一つは高い背が、少年の目には印象的でした。


「これが一番大きいかなァ」

 娘はカブを一束渡しました。たしかに大きかったのです。

「いくらですか?」

 この八百屋には値札もついていませんでした。

「ええと…… 二二〇円」


 少年はポケットに手を突っ込んで小銭を出そうとしましたが、ポケットに穴が空いていることに気が付きました。あ、お金が空っぽだ。

 少年は焦ってポケットを漁りますが、お金がありません。なぜか恥ずかしくなって、慌ててポケットをまさぐりますが、やっと出てきたのが五十円玉二枚でした。


「お金ないの?」


 娘の問いかけの優しい声色に、少年はなにか悲しみがどっとこみ上げてきて、涙がぽろりと零れ落ちました。

 娘も、少年の涙が頬から口元に落ちてゆくのを見て目頭めがしらが熱くなりました。娘は、唯一の肉親である父親が二年前に病気になって家で寝たきり状態。看病しながら一人でこの店を回していたのです。

 娘は少年に「つらかったねえ」と、自分に言っているのか相手に言っているのかわからない慰めの言葉を吐きながら、二人手を取って泣きました。


――――――

家がない靴磨きの少年と、働き手がいない八百屋の娘は、いっしょに住むことになりました。お互いの利害が一致したことが決め手となりましたが、言葉にできない、同情や憐憫れんびん、共感と言われる感情のほうが多分たぶんに影響をしていました。娘の父親も靴磨きの少年を住まわせることに反対しませんでした。

 少年が八百屋に来てから、彼が靴磨きで磨いた話術や客寄せで店はまた繁盛し始めました。なぜか水っぽい売り場や、傾いていた看板もキレイにして、そうなると不思議なことに八百屋の親父の病気もなんだか治ってきて、とにかく万々歳ばんばんざいです。


 病気が治った八百屋の親父は少年を正式に家族として迎え入れ、中学校に入れてやりました。よくできる、頭の良い生徒になり、靴磨きの間出来なかった学校や勉強というものを思い切り楽しみました。

 そしてやはり八百屋のことが頭にあったのか、商業高校に入学し、簿記会計や算盤電卓、商取引の技術と首席の座を引っ提げて卒業しました。


 少年は八百屋を継いで、堅調けんちょうに利益を出していきました。彼には、拾ってくれた「家族」に恩返しをしたいという思いがずっと片隅にありました。昔の父親の、病気のことを考えると、広い家でのびのび健康に隠居してほしいという思いも結びついて、彼は家族の家を買うことを目標にしました。


 そういう少年、もはや少年と呼べる歳ではない少年が、あるとき街路を歩いていると、駅前で、近頃めっきり減った靴磨きが仕事をしている様子を見かけました。

 懐かしげに眺めていると、靴磨きとスーツ姿の客の会話が聞こえてきます。


「お客サン、いい靴持ってますねぇ」

「株のお陰で儲かっちゃってネ、羽振はぶりがイイのさ。ホラ、この時計、実は百万はするんだ。この服なんて……」


 この会話を聞くと、居ても立っても居られなくなりました。

 再開発ブームで住宅価格が跳ね上がり、夢が遠くなっていることもあって、少年は株を買う決意をし、そしてすぐさま暮雨ぼう銀行という、高い利益率を誇る都市銀行の株を買いました。


 そこから数カ月は調子が良かった株式市場も、いつの間にか続落の文字が続くようになり、安いイマが買い時と暮雨銀行の株を買い増し、買い増し、いつの間にか、少年の金どころか家族の金さえ暮雨銀行に全投資されてしまいました。

 暮雨銀行の高利益の理由がハイリスク・ハイリターンの融資戦略ゆうしせんりゃくだと気がついたとき、つまり金利が上がり好況こうきょうがおわり、暮雨銀行の赤字が膨れて株価が全盛期の三割まで落ちたとき、少年はようやく株を売り、途方に暮れました。夢のマイホームは夢のまた夢に。いつの間にか桁が一つ減ってしまった銀行の通帳を見てはため息をつく生活になってしまいました。


「最近元気ないけどどうしたの?」


 晩ご飯を食べながら訊ねる姉の心配そうな瞳が、少年には嬉しくもあり苦しくもありました。家族に投資を隠しているのがバレたときのことを思うと、冷たい汗が脇から流れました。


「私達には話せない?」

 姉のやさしさは、鬼のようでした。親父の優しさも、同じ血筋でした。

「散歩にでも行こうかな」

 親父はそうしてどこかに、いつの間にか飯を食べ終えて、ふらふらと消えてゆきました。


 少年はついに音を上げて、

「株で失敗しちゃって……」

 もう少年は手に持っている御椀おわん一つとその中の米粒三十三粒しか見る勇気がありませんでした。

「カブ?」


 姉の怪訝けげんな声色に、少年は狼狽うろたえそれを見せないようハッキリと、しかし妙に子供っぽく、

「投資で失敗して、貯金が半分ぐらい無くなっちゃった……」

 と言って泣きました。その様をみた姉は、出会ったときのように一緒には泣かず、ウフフと控えめに笑って、その後なんだかこらえきれないみたいにハハハの声になりました。


「なぁんだ。カブって株式のことね」

 予想外の答えに、なんだか心のつかえがとれたような脱力感におそわれました。もう涙は止まっています。


「姉さん、他になにがあるのさ」

「そりゃ野菜のカブよ。初めてあった日にカブを買おうとしたの…… 覚えてないかぁ、もう」

 少年は、この家に居着くキッカケがカブであることを忘れていたのです。

「あのときはカブを買えなくて泣いてたの。で、今回は株を買って泣いてるなんて、ねぇ」


 少年はなんだかおかしくなって姉と一緒に笑ってしまいました。姉の太い眉がせわしなく動いて、懐かしい気持ちになりました。

「……本当は株で儲けて、家を建てようと思ってたんだ、お世話になったから。けど…… 損しちゃった」

「何いってんの。お世話になったのは私達だし。ボロボロだったこの八百屋を復活させたの、誰だと思ってるの?」

「でも……」


 と言ってモゴモゴする少年を制すように姉が続けました。

「だいたいね、株で損した男なんて今の不景気ごまんといるよ。借金さえこしらえたやつもいる。半分残りゃ上出来じゃないの?」 

 少年は、姉が話している間、ずっと眉を見ていました。その力強い形に、勇気づけられました。


「これからまた、増やせば、それでいいのかな」

「そうよ。もともとウチの弟が株を買って損しただの、得しただの、ちゃんちゃらおかしいってのよ」

 少年は姉の言いたいことがわかったらしく、笑って、

「僕はカブを買えなかったおかげで、優しい姉さんと親父の家族になれたんだから」


――――――

 そんな八百屋の奥から聴こえる会話と微笑に耳をすませていた男が一人、涙を拭いて空を見上げ、夜空の奥に見えた月が、白くてカブみたいだ、なんて風情のないことをぼやいて、満足げにしているのでした。

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カブで儲けよう 笠井 野里 @good-kura

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