君を忘れない

プロローグ

あちこちから冬将軍の話が、テレビのニュースで話題となっていた。そして今日は、今年一番の寒さだとアナウンサーが伝えていた。

アキラはお気に入りのカフェで、古めかしいガラスの器に入っている、プリンアラモードを食べ終わったあと、レトロ感たっぷりのコーヒーカップで、ブラックコーヒーを飲んでいた。

アキラは甘党だ。だがコーヒーはブラック派。なんともチグハグな注文だが、それが昭和の名残りが漂うこのカフェでのアキラの定番メニューだった。

カフェの名前は『カランコロン』。入口のドアに、始めは小さな可愛らしい音色のカウベルを付けていた。その音色からカフェの名前を取った。しかしカウベルのわりには小さすぎて、厨房の奥にまで音が聴こえない時があったから、大きいカウベルを付けることにした。今では可愛らしい音色はガランゴロンと大きく変わってしまっていた。

薄らとオレンジ色の光を放つ店内には、年季の入ったカウンター席とテーブル席がある。

その奥には縦型のピアノが置かれていた。

そのピアノは、以前マスターの奥さんが弾いていたもので、今では誰も弾く者はいなかった。

店内には、仲良しグループであろう60代前後のオバサン達が、やや大きめの声で、嫁の悪口やら近所の誰それさんがどうしただのと、怪訝そうな話をしたかと思うと、度々大笑いしながら沢山の話題で盛り上がっていた。

その他には時々居合わせる、杖を着いたダンディなオジサンが、オバサン達の声の大きさを気にしながら、新聞を広げてコーヒーをおかわりして飲んでいた。

アキラは窓際の定番の席に座り、リラックスしながらパソコンに向かい、一足早く大学院生活最後の論文を書いていた。

マスターは入店し帰った客の食器を洗い、その隣りにはアキラより少し年下かなと思うような年頃の女の子が、せっせと洗い終わった食器を布巾で拭いていた。

店内のジャズの音楽は、アキラの論文が書き終えるのを待つかのように、ゆっくりと、時にはテンポ良く、アキラがパソコンを打つ音に合わせているかのように流れていた。

マスターの隣りの彼女はここの看板娘で、園田初美という名前だ。

童顔の初美は黄色のエプロンを身につけ、それが妙に似合っていた。

初美も大学生だったが、二年前に大学に行く途中、歩道を歩いている時に自転車と接触し、5メートル程飛ばされ交通事故にあった。それからというもの、時々頭痛がして体調が悪くなったり、もの忘れが多くなっていた為大学は休学届けを出していた。ある意味、トラウマも、休学している理由になっていた。

アキラと初美は会話らしい会話をしたことがない。あくまでも店員と客の立場だ。それは初美が人見知りが強いことと、大人しい性格ということもあった。

初美は、アキラがパソコンを打つ姿を見て、少しうらやましく思えた。アキラは時々ため息をつきながら、論文をパソコンに打っていた。初美も本当なら、今頃は大学生活を悠々自適に過ごしていたかもしれない。

初美は両親から離れたくて、両親の反対を押し切り、東京の児童教育学科のある大学に入学した。幼い頃からピアノを習い、将来は小学校の音楽教師になるのが夢だった。

二年前の交通事故にあった時、両親は地元に戻って来るように強く言ったが、初美はこのまま中途半端で帰りたくないと言い、両親の心配をよそに、東京に残ることにした。

このカフェのマスターは、初美の交通事故の第一発見者だった。マスターがいち早く救急車を呼んでくれたから、初美は頭を強くアスファルトに打ったが、一命を取りとめた。言わば初美にとってマスターは命の恩人だ。

初美が入院中も時々様子を見に、お見舞いに来てくれていた。

初美は両親の前では泣かないようにしていたが、不思議とマスターの前では素の自分を出し、泣くことができた。それはマスターがかもし出す優しさからだった。

退院してから、大学は休学したとマスターに言うと、

「だったらうちのカフェで働いてみないかい?ちょうど手伝ってくれる人を探していたんだ。無理にとは言わない。気が向いた時だけでもいい。初美ちゃんの体調の良い時だけでもいいよ」

初美は始めはためらったが、体が次第に思うように動けるようになると、マスターの優しさに甘えるようになっていた。

もしマスターに出会っていなければ、初美は家賃五万五千円のアパートで、一人孤独と虚しさと戦っていただろう。両親に、東京での暮らしをもう少し頑張りたいと言ったのはいいが、交通事故にあってからは、しばらくカーテンさえも開けることが出来なかった。

入院中病室で、念の為マスターと連絡先を交換していて良かったと思った。そうしていなければ、不安と恐怖で外にも出ることが出来なかったかもしれない。

初美は少しづつ明るさを取り戻していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る