でも、別に悪くない

コバヤシ

第1話 はじめに① 中年へのシフトチェンジを余儀なくされる

数年前、ついに40代という藪道に足を踏み入れた。まあとにかく、歩いているだけで枝葉が身体を傷つけていく、いろんな意味で。


私だけでなくおそらく全人類がそうだと思うが、10代の頃というのは皆がおとぎの国に住んでおり、「自分だけは老けないかもしれない」という可能性を捨てきれないため、いつかは40歳になるということに対して実感が湧かないという以前に、自分のゆく道だとはなかなか思い至らないところがあった。


だがしかし、ウジ虫がやがて蠅になって華麗に羽ばたくように、ちゃんと10代ホップ、20代ステップ、30代ジャンプときて、40歳という砂利場に着地したし、「華麗と加齢をうまくかけることはできないだろうか」と即座に考えてしまう程度にはダジャレに傾倒しつつある中年になった。


ところで、私がまだ20代の頃、母が「30歳になった時には何とも思わなかったけど、40歳になった時にはちょっと嫌だったわ」と近所の奥様方と話をしていたのを、「ふーん」と他人事のように聞いていたが、自分が40歳を過ぎたとき、「確かに」と膝を打った。


40歳という年齢に対し母たちが主に嫌だと言っていたのは、逃れようのない「おばさん」という現実が突き付けられたことだ。何せここは傾国の國ニッポン、他国より頭5つ6つ抜きん出ていることといったら、加齢女性に対するおばさんハラスメントよりほかにない。じじいが同い年のばばあをこき下ろすという不条理を臆面もなくやっちゃう男共はもちろん、たとえ同じ女同士であっても、若い乙女と加齢女性は同じ人間ではないと思わせるような言動が飛び交っているような世界だ。そんな国で性の多様性を説かれても、「それが大事なのはわかるけど、いまいち説得力に欠ける」と思ってしまうのは私だけではないはずだ。


なんにせよ、30代であれば「まだ若い。まだギリいける」と自分や他人を惑わせることも可能であるし、なんなら「本当に若いか…?」という疑念をスモウレスラー並の力技でもって土俵際でうっちゃることもできよう。


しかし40歳ともなるとさすがにそうもいかない。どの角度から見てもまごうことなき立派な中年だ。若いよ、と言ってくれるのは70歳を過ぎた諸先輩方くらいのものだろう。ちなみに母曰く、60歳になった時にも同じ心境になったそうだが、言わずもがな、この時には「おばあさん」という現実が突き付けられる。


あくまで私の体感であるが、20代から30代になるのと30代から40代になるのでは、あらゆる点で全くといいほど違ったのだが、まず手始めに、肉体の衰えという分かりやすい形で老化は姿を現した。


20代から30代へ移行する時は正直、老いを自覚するような症状はほとんどなかった。うすぼんやりと、なんとなく違うかもしれないと感じる程度だ。


しかし35歳あたりで、あれっ、と思うことが増える。

串揚げ屋に行っておきながら、スタートからゴールまで揚げ物一本やりだという当たり前の事実に慄くし、朝目覚めて顔を洗おうと洗面所で鏡を見た時に、ぐっすり眠ったにもかかわらず昨夜より疲れ果てた顔をしている自分がそこにいるし、飲みに行っても日をまたぐ前に帰りてぇとなるし、夜更かしをすれば次の日の仕事中に猛烈な眠気のために「今ここで布団を敷いて眠っていいのならば、社長の靴を舐めてもいい」とすら思う。


そして準備万端、満を持しての40代突入である。

40代へ突入するや否や、もうごまかしきれないということに気付く。20代の頃を振り返ってみると、全身フルモデルチェンジしたのかってくらいの変わりようである。


疲れが取れず、朝すっきりと目覚められることが少なくなってくる。髪に元気がなくなり、なぜ自分の髪がこんなモズクの様になっているのかと何の責任もない担当美容師に詰め寄りたくなる。もちろん白髪も増え、目の下にはクマが現れ、顔全体がくすみ、シャベルで丁寧に掘ったのかというようなほうれい線がいくらあがいても消えない。身体のあちこちにいつできたのか分からない痣やシミが現れ、それに負けじとほくろやイボも続々と湧いてくる。体の内側から押し出される脂肪の圧に皮膚が耐えられず、様々な部位がたるんでくる。その他、全て挙げ連ねても構わないのだが、それには甘く見積もっても3時間くらい頂きたいのでここでは割愛する。


それら全てが私に「中年」という二文字を突きつけるのだ。これだけ「中年」を突きつけられて、それでも「いやいや、私はまだ若い、まだ中年なんかじゃない」と言い張るのは、防犯カメラに犯行の一部始終を記録されているのに、「万引き…? え…? なんのことですか?」と迫真の演技ですっとぼける犯人くらい往生際が悪いし、万引きGメンに「そういうのいいから、腹に隠した鰹節出せや!」とばかりに顔を雑巾でぞんざいに拭かれ、厚塗りファンデーションの下に隠れているシミを発掘されるくらいみっともない。


身体的に無理をしないよう心掛けるようになるのは、「寝れば疲れが取れる」という魔法がとっくに使えなくなっていることを思い知るからだ。昨日のダメージが癒えないまま今日のダメージが上積みされ、そして明日のダメージも蓄積される、ということが延々と続くのだろう。


また、他人の意見に惑わされず好きなものを着ればいいんだという意見にもっともだと頷きつつも、とりあえず中年の熟成された身体と顔にふさわしい服装を選ぶようになるのは、長い一生の中でおそらく中年という趣深い期間だけはパステルカラーなどのキレイ色が似合わなくなるという事実を受け入れているからである。


己の頭部を構成するくすみ・シワ・たるみ、そしてツヤのない髪の毛と、きれいなパステルカラーの服とのマリアージュを鏡越しに見た時、そのコントラストの妙に、ワイングラスを傾けながら「ほぅ……、これは老いましたね」と思わず唸る時が全ての人間に来るのである。そして自分が「老いた」と初めて自覚した時には、そのはるか以前から周囲には「もう十分老いている」と思われていると思って間違いない。


おそらく肉体に関しては、大多数の人々は30歳~40歳の間に「若者」から「中年」へのシフトチェンジをごく自然に行っていると思われる。いや、連日、源泉のごとくぼこぼこと湧いてくる身体の異変によって、「はいはい、昨日まではあんな感じだったけど今日からはこんな感じね」というあきらめにも似た心境になり、シフトチェンジを余儀なくされているのだ。


夜布団に入りそっと目を閉じると、自分を織りなす数多の細胞達が東尋坊のがけっぷちに列をなしている様が瞼の裏に浮かんでくる。今この瞬間も次々に死にゆく細胞の叫びに耳を傾けつつ、40歳を迎えた者は悟っている。40歳以降は毎日少しずつ老いていくことを実感し、それを死ぬまで受け入れていくものなのだと。


かようにして人は痛む膝をいたわりながら、若年から中年、中年から老年へと階段をゆっくりゆっくり登ってゆくのだ。


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