第2話
第二話
二人目の入水自殺願望者
登場人物
[サイモン] キャンピングカーで浜にやって来たインテリ中年。入水しようと浜に入るが、マモルとジョージに連れ戻される。そしてジョージと意気投合し彼の社会復帰を後押しする。
第二の入水自殺未遂者
キャンピングカーの中では、車の持ち主である六十前の男がカジュアルなシャツとコットンパンツのままベッドに横たわっていた。車内には少し前に淹れたコーヒーの香りがまだ残っている。
男は目を閉じていたが眠ってはいなかった。今夜これから永遠の眠りにつくのだから、うたた寝さえもしようとは思わなかった。ブルートゥーススピーカーから低い音量で流れる“the lark is ascending”を聞きながら、自分のいくらか波乱に富んだ足跡をランダムに回想している。
決して順調な人生ではなかったが、大して辛いことも事故や病気もなく、中年になってからは経済的にもほどほど豊かで、それなりに楽しく自由に生きて来た。妻との関係が悪化するまでは。
妻との離婚がいよいよ現実味を帯びてきた頃に、この中古のキャンピングカーを妻に内緒で手に入れた。それ以来、家にはほとんど帰らず、この車で過ごした。
男は引き篭もりの一人娘、メグとはほとんど顔も合わせていなかった。離婚が決まり、自分一人が当面生きていけるだけの現金を残し、貯金のほとんどは妻と娘に残した。家族を捨て(正確には捨てられ)、このキャンピングカーが男の全てである。
(もう十分生かさせてもらった)
そう思って、男はこの海岸にやって来たのだ。
灯りが点いたキャンピングカーの中で、男は冷めてしまったコニャック入リコーヒーの残りを飲み干した。流れる曲は中島ミカが歌うアメイジング・グレイスに変わっている。ランダム再生だが最後に聞く曲としては悪くないと男は思った。
スマホを手に取り音楽を止めると、ベッドから降りて素足にスニーカーを履いた。そして、コーヒーテーブルの上に置かれた二つの封筒を手に取った。
お気に入りの秘密基地をゆっくりと別れを惜しむように一通り見回し、目を閉じて微笑むと意を決したようにサイドドアから外に出てドアを静かに閉めた。自分が死んだ後の処理がしやすいようにロックはしていない。
男は海岸に降りる小道を探しながらゆっくりと歩いた。
少し行った所に自転車が放置されている。少ない明かりの下ではあるが、それはずっと放置されていたように錆だらけである。風雨にさらされたようなくたびれた衣類が、ハンドルやサドルにかけてある。もしかしたら、この自転車の持ち主だった人は自分より前に何とかここまでたどり着き、この浜で自分の生命の循環を断ち切ったのかも知れないと男は思った。
その人は多分、自分よりもっと辛い思いをしてきたのかも知れないと思うと、(大変だったんだね)と自転車に同情を示した。そして男は自転車を横目に見ながらさらに歩き、浜ヘ続く小道を下って行った。
浜ではジョージが擦り切れた毛布を被って焚火で暖を取っていた。大きな火ではないが、冷えた体には何より嬉しい。マモルもジョージの側で、火に背を向けて暖を取っている。ジョージは自殺しそこなったことより、キャンピングカーの持ち主が生きていた事にがっかりしていた。持ち主がいれば自分のものにできない。
浜に降りたキャンピングカーの男は、先客と連れの犬がいる事に気付いたが、意に介さず一度も立ち止まらず波打ち際を目指した。
マモルはすぐに男の気配に気付き、“ウフッ”と小さく吠えて立ち上がると、警戒するように男のいる方角を見ては時々ジョージを振り返る。ジョージがマモルの視線の先に目を凝らすと、淡い月明かりに人影が浮かぶ。シルエットから男である事が分かる。
(何やってんだ、あいつ?こんな時間にこんな所に一人で海を眺めて浜に立つ男って、何か訳ありだな)
ジョージは自分の事をさて置き、そう思った。
声を掛けてみようかと思った矢先、その男は履いていた靴を脱いで足元に揃えて置いた。続けて男はズボンのポケットから白い物を取り出し、左手首からキラッと光る物を外して一緒に靴の中に入れるのが見えた。その動きから、それは何かの封筒と腕時計だとジョージは思った。
その不審な男は、ゆっくり落ち着いた様子で真直ぐ前を見据え、しっかりとした足取りで海へ向かって歩きはじめた。
(えっ……何、え〜⁈、こいつ自殺しようとしてんの?)
驚いたジョージは男の方へ走り出した。自殺を止めなければと思ったのだ。
さっきの警察官に頼まれたからというより、人間の本能がそうさせるのだろう。ジョージの一歩先をマモルが吠えながら走る。まるで主人の先鋒を務める気持ちが芽生えたかのようである。
犬の吠える声とズンズンと砂利を踏みつける音で、男が一旦足を止め振り返ったが、再び前を向き同じペースで海に向かった。男が波打際まで来た時に、マモルは男に追いついたが、吠えるだけでどうしたらよいか分からず、うろたえながら相棒が追いつくのを待った。すぐに追いついたジョージは、息を切らせながら男に掴みかかって引き戻そうとした。相棒の意図を読んだマモルは、男のズボンの裾を咥えてジョージと一緒に引っ張った。
「おい、止めろよ!」
ジョージは必死に声をかけながら男の腕や肩を押さえて引き止めようするが、自分より体格のいい男は力強く深みに入って行こうとする。
(ヤベ〜!こいつマジだぜ!)
新たな自殺願望者は、上体を若い男に引かれズボンは犬に食い付かれたまま膝まで海に浸かっていては、バランスを保つのは至難の技である。男はたまらず水の中に倒れると、ジョージももつれるよう倒れた。水の中で二人と一匹は三つ巴状態である。
男は相変わらず冷静のようだが、ジョージは咳き込みながら”止めろ!”と叫んでいる。マモルはズボンを咥えたままなので低い唸り声しか出せない。
ついに男は抵抗を諦め、ジョージとその相棒に波打際まで引き戻された。ジョージは不機嫌な顔で深い息をして、マモルは舌を出してせわしなく喘いでいる。しかし男の息遣いは荒くもない。
「何で止めるんだ?」
男は邪魔された事を非難するように、しかし知的に落ち着いた声で聞いた。
「何でって、そりゃ止めるだろ〜が、フツ~。目の前に自殺しようとする人間を見たら誰だって!……それって人間の本能ってんじゃないのか?じゃ何か?目の前で自殺しようってヤツに"頑張れよ!"とでも言えってか?
刑事に追われた犯人だって、逃げ場を失って屋上から飛び降りようとしたら、刑事は"待て、早まるんじゃない!話せば分かる"なんて言うだろう?”死ぬんだったらサッサとやれっ、とは言えないよな、そうだろう!」
「アンタ、なかなか上手い事言うな」
(妙に説得力のあるヤツだ)
と男は感心した。
「ところでアンタはここで何やってんの?どうやらアンタも自殺しにここに来たんじゃないのか?この相棒も道連れに」
逆に男が聞いた。
「バカ言え!コイツは三本足なんだぜ!まともに泳げやしないんだぞ。オレはコイツに付いて来るな言ったんだよ!」
ジョージは自殺未遂を否定しようと思ったが、男の質問にアッサリと答えてしまった。
「まだここにいるって事は、途中で怖じ気付いて戻って来たって訳か?」
「ざけんな!オレはそんなヤワじゃねーぞ!(マモルを見て)コイツが必死にオレの後を追って来て溺れそうにもがいてたもんだから一旦中止したんだよ。後でまたやるだけさ」
そう聞いて男はフッと笑うとマモルの頭を撫でながら、
「偉いぞキミは!このお兄さんを助けてやったんだね」
「イヤ、そ〜じゃなくて、オレがコイツを抱いて浜に引き返したんだよ。偉いのはオレなの!」
「どっちでもいいよ、とりあえず自殺は未遂に終わったんだから。それより、縁もゆかりもないオレの自殺まで止める事はないだろう」
「あのさ〜、今日はオレが死ぬ日なの!浜には誰もいなかったから、今夜は貸し切りだと喜んでいたのにさ……オッさんは明日でも明後日でも、好きな日にやってくれよ」
「オイオイ、この浜は予約制じゃないんだぞ。一日何人までって人数制限もないし……。でも、何で今日にこだわるのかな?」
「今日はさ〜、オレの誕生日なの!だから今日じゃなきゃダメなんだよ!」
「へ〜、そうなんだ。それはおめでとう。でも死ぬんなら誕生日が終わってからでもいいんじゃないの?」
「オッさん、分かっちゃいね〜な。生まれた日に人生を閉じるってのが男の潔さじゃね〜の?それがオレ流のケジメってヤツ(ハ〜、ハクション!)」
言い終わる前に大きなクシャミがでた。両腕を胸に抱え込むようにして、身体を強張らせ、
「オッさんのせいで二度も海に入る羽目になっちゃんたんだよ!自殺しに来て肺炎で死んじまったらシャレになんね~よ!もう着替えはないし、少しの焚き火くらいじゃ追っつかないよ!」
「だから、オレの事は放っとけばよかったんだよ。とにかく着替えるのが先だ。オレの服をを貸してやるよ。とにかく車に戻ろう!」
「アレ、やっぱオッさんのなんだ?」
そう言って、ジョージは嬉しそうにキャンピングカーを指差した。
「あゝ、オレの秘密基地さ」
"秘密基地"と聞いてジョージのワクワク感が一気に高まった。
「じゃ、サッサと着替えようぜ!」
ジョージはそう言って先に車の方へ歩き出した。
「焚き火、あのままでいいのか?」
男が焚き火に顔を向けて聞いた。
言われてジョージも目をやると、火は大分小さくなっていた。
「放っておいてもすぐに消えちまうよ。(思いだしたように)それよか、オッさんの靴!」
ジョージはそう言うなり男が脱いだ靴を取りに行った。マモルもジョージがまた海に入るんじゃないかと心配してついて行った。
きちんと揃えられた男のスニーカーは、いかにも履き心地の良さそうなまだ新しい物だった。靴の中には、薄明かりの中でもキラキラ光っている時計と免許証、遺書らしい封筒が入っていた。
靴を手に取って戻る途中、ついでに片付けてなかったコンビニのゴミも拾って戻って来た。ジョージが手にしたゴミを見て、
「偉いな、自殺未遂のくせに、ちゃんとゴミを持ち帰るなんて」
と言って笑った。
ジョージは褒められたのか、からかわれたのか分からず、むすっとして男に靴を差し出しながら言った。
「靴も時計も随分高そうじゃないか。大事な遺書も入ってんだろう?」
「靴も時計も、よかったらアンタにやるよ。オレにはもう必要ないからな」
「エッ、マジいいのか⁈」
思いがけない収穫にジョージは眼を輝かせ、大事そうに靴を抱いた。
今度はキャンピングカーの男が先に車へ向かって歩き始めた。ジョージがウキウキと、マモルがピョコピョコと男について行った。
キャンピングカーの前に来たら、ジョージの好奇心は頂点に達しようとしていた。車の主がロックされていないドアを開け、ジョージに先に入るよう促した。ずっと憧れていたキャンピングカーの中に入れると思うと、さっきまでの自殺の意気込みはすっかり置き忘れて、まるでタイムマシンか、まだ一度も乗った事がない飛行機に乗り込むような興奮を抑えられないでいる。
ジョージは期待いっぱいの表情でキャンピングカーのステップに片足を乗せたところで、男の目を意識するように大げさに片足ずつ足裏を手ではらって乗り込んだ。それを見て、男のこの若者に対する好感度は大きく上がった。男はウロウロしているマモルにも「君もどうぞ」と声をかけ、マモルを抱き上げて車に乗せた。
車の中に入れてもらった瞬間から、ジョージの目は定まることなくせわしなく動いた。想像していた通り、キャンピングカーの中はまるで宝箱のようだ。どうにも興奮を抑えられない。自殺の鉢合わせという笑い話みたいな出会いではあったが、憧れのキャンピングカーに入れてもらえた。鉢合わせしいたのがこのオッさんで良かった、とジョージは運命のいたずらに感謝した。
突然、ジョージが壁を指さして噴き出した。
「何これ、オッさんの趣味か?」
壁には大判のルフィの海賊旗が掛けられている。
「何だ、ルフィを知ってんのか?」
「あゝ、拾ったコミック本に出てた。ヒヒヒ、いい歳したオッさんが、クククッ!」
「笑うな!秘密基地にはぴったりだろうが!」
男はやや自慢げに言った。
マモルもこの箱の中が大いに気に入った。草の上や岩影と違って雨や風を避けることができるだけでなく、暖かく快適である。
(この浜はオレの縄張りだが、この箱の中で寝泊まりしながらでもこの浜を仕切ることは出来る。当面こいつら二人に尻尾さえ振ってりゃ結構いい暮らしが出来そうだ)
マモルは二度と二人を海に向かわせるわけにはいかないと思った。
男は手際良くあちこちから着替えを引っ張り出した。嬉しい事に、新しいパンツまで出してくれた。二人は濡れた服を脱いでタオルで身体を拭き、スエットの上下に着替えた。体格のいい男の服はやや小柄なジョージにはダブついたが、気にしている場合ではない。
マモルは、男二人が着替えるのをチラチラと眺めながら車内の匂いを嗅ぎ回った。この〝箱”の持ち主は大きいほうの男だと匂いで分かった。女の匂いもしなければ、あの吐き気を催すほどの嫌な臭いがしない。
ニンゲンの中には紫色の煙を口から吐く奴等がいる。マモルはその臭いが我慢できない。大きい方の男は紫色の煙を出さないようだ。若い法の男も、体は臭いが煙の臭いはしない。煙を吐くニンゲンに飼われると、犬も猫も早死にするって以前老犬から聞いたことがある。
(こいつ等となら群れを作ってもいい)
とマモルは思った。同時に、
(一旦世話を始めたら最後まで面倒見ろよな!)
訴えるような眼が二人のニンゲンに向けられた。
「相棒もこれで拭いてやってくれ」
着替えが終わると、男は自分が使ったタオルをジョージに渡しながら言った。
「さ〜、お前も綺麗にしてやるぞ」
そう言いながらジョージはマモルを丁寧に拭き始めた。切断された前足だけは触られるのを嫌がるかと思い拭くのをやめた。
マモルを拭き終わると、ジョージは待ち切れず金色に輝く時計を取って腕にはめ、矯めつ眇めつ嬉しそうに眺めた。ジョージの細い腕にはベルトが長くゆるゆるだが、本人は意に介していない。
「ベルトは後で短くしてやるよ」
男は嬉しそうなジョージを見て言った。
「これって、もしかしてロレックスってやつか?」
「ああ、そうだ。知ってるのか。ずいぶん昔のものだけどな」
ジョージはブランド品買取店の窓ガラスに貼ってあった写真を見たことがあるが、本物を見るのは初めてだった。
「これって高いんだろう、本当にいいのか?後で気が変わった、なんて言わないよな」
「勿論だ。時計は他にもあるし」
そう言うと、男はキャビネットからGショックを手に取って腕にはめた。それを見てジョージは目を輝かせた。
「おっ、そっちもカッコいいじゃね~か」
「これもオレが戻らなければアンタのものさ。どうせあの世では時計なんていらないからな。だいいち溺死体の水ぶくれした腕に食い込んでいる時計では、どんなに高級でも誰も欲しくないだろうからな、ハハ」
男がシニカルに笑った。
「おいおい、気持ちワリィ事言うなよ。オッさんが水ぶくれになる前に貰えるものは何でも貰っておかなきゃな」
ロレックスの外にスポーティな洒落た時計も貰えると聞いて、ジョージは湧き上がる嬉しさを抑えられない。スニーカーも履いて何度か足踏みした。
「おっ、ちょうどいい!」
(ってか、ぶかぶかじゃないか)
男は笑ったが、ジョージがあまりに喜んでくれるから敢えて何も言わなかった。
ジョージはサイズの合わないスニーカーを履いて興味津々狭い車内をうろうろし始めた。ベッドを撫でたり、シンクをチェックしたり、少しもじっとはしていられなかった。
男はキャビネットから小さいボトルを取ってジョージに差し出した。
「なんだ、これ?」
「ヘアトニックだ、頭にかけるとすっきりするぞ」
ジョージはすぐに男の言いたいことが分かった。
「やっぱ、臭いのか、オレ?」
二度も海水に浸かったので幾らかマシになっているかと期待したのだが。
「あゝ、さっき浜で組み付かれたときに臭い奴だと思った」
「へっ、死ぬか生きるかって時に人の体臭まで嗅ぐ余裕があったのか?大したもんだよ」
「こっちの野良犬よりも臭かったからな、ハハ」
ジョージは一瞬ムッとしたが、瓶の蓋を取って香りを確かめ、頭にたっぷりと振りかけた。ついでに手のひらに数滴たらすと首周りにもはたいた。
「おいおい、頭につけるもんだぞ、それは」
「ケチなこと言うな。この匂い、嫌いじゃないし」
車内にシトラスの香りが広がると、マモルが気付いて顔を上げた。
マモルは(これで大分マシになったな)と言うような目でジョージを見たが、また床に伏せてしまった。
「運転席を見せてもらってもいいか?」
男が断わらないことを承知で聞いた。まだタオルで頭を拭いている男が「いいよ」と軽く返事をした。それを“運転席にも座っていいぞ”と勝手に受け取った。
憧れのキャンピングカーの運転席に座るのは、ジョージにとって人生に一度あるかないかの感動の瞬間だ。シートに座るなりハンドルをしごき回して大喜びである。男はそんな無邪気なジョージの後ろに立つと、黙ってその背中を見つめていた。若者の背中には、何度も挫折を味わった若い頃の自分が重なって見えた。そして彼に向かって無言で声をかけた。
(分かるかい?これから先もまだまだ楽しい事が待っているんだよ。死ぬのはまだまだ早いんじゃないの?)。
二人はキャビンに戻ると、ジョージはベッドに腰を下ろし、男はディレクターチェアに座った。
ジョージの興奮は収まりそうな気配がまるでない。
(この青年、結構素直で単純そうだからもう少しこの世に残りたくなるようにしてやるか)
と男は思った。
「今日はあんたの誕生日って言ったよな。それじゃ、改めてパーティをやるか!」
男はそう言うとキャビネットから赤ワインのボトルを取り出しジョージに差し出した。
「先ずはこれで乾杯だ!」
そう言ってコーヒーテーブルをベッド脇に引き寄せた。ワインを手に取ったジョージは、
「高そうなワインだな」
と言って、ボトルをコーヒーテーブルに置いた。
「そうでもないよ、市価で四、五万円ってところかな」
キャビネットからワイングラスを二個取りながら男は答えた。
「あ~むかつくなぁ。四、五万のワインがそうでもない値段かよ! 四、五万ちゅぁ、路上生活なら、一月豪勢に暮らせるぜ!」
「こりゃオレが悪かった。以前はもっと高級なワインも飲んでいたが、ここ数年はそんな事すらバカらしくなってね、今ではワンコイン・ワインでも十分満足するようになった。これが残り少ない万ワインさ」
そう言いながら男はキャビネットからウェイターズナイフを取ってワインを開けようとした。
「それ、オレにやらせてくれ。人生最初で最後の高級なワインを開けてみたいんだよ」
男は同意の代わりにウェイターズナイフをジョージに差し出しながら聞いた。
「これ、使えるのか?」
嬉しさのあまり、ジョージはそれをひったくるように取って
「ああ、随分昔だけどバイトで何度も使ったさ」
そう言ってワインを開け始めた。その動きは何かの儀式であるかのようにゆっくりだ。コルクを抜いたら、目を閉じてその匂いを嗅ぎ、なにやら納得した顔をした。勿論ワインの良し悪しがジョージに分かるはずはないが。
二つのグラスにワインが注がれ、男がスマホで操作して、スピーカーからハッピーバースデーの曲を流した。それを二人で聞き終わると、
「ハッピーバースデー!」
男が小声でと言いながらグラスを挙げた。
「サンキュー」
ジョージが応えると二人はグラスを合わせ、この気の利いた演出のワインをひと口ずつ旨そうに飲んだ。
この乾杯が、自殺目的でこの浜で鉢合わせし共に未遂に終わった二人に、奇妙な友情のようなものを沸き上がらせる瞬間となった。
「後はツマミだな。食材は大して残っていないが、何か用意するよ」
男はキャビネットを開け、パックに入ったミックスナッツを取って紙皿にあけテーブルに置いた。
「取り敢えずこれをつまんでいてくれ」
男はそう言うと、背を向けて他のツマミを作り始めた。ジョージは早速ナッツをつまみながら、自分に背を向けた男の大きな背中を見つめた。
赤の他人の背中がこれほど優しいと思った事はこれまで一度もなかった。父親を知らないジョージは、当然ながら父親の背中に抱き付いた記憶がない。
小さい頃からジョージにとって大人の男は全て怖いもので、成長するに従ってそれは敵となった。しかし、今自分が見ているこの男の背中に、ついさっき浜で味わったマモルの温もりと同じものを感じずにはいられない。
人生の締め括りのつもりでこの浜に来たはずが、一人と一匹の仲間を得るという、ジョージには思いもしなかった展開になった。
男が背中を向けている隙に、ジョージは靴の中の免許証を素早く見た。男の名は西門とある。名前の漢字は読み方が分からない。
「オッさんはニシモンって言うのか?」
男が振り返ると、ジョージは免許証を靴に戻すところだった。
「ハハッ、ニシモンじゃなくでサイモンと読むんだ」
「へぇ〜、サイモンって言うのか?外人みたいだな」
名前のほうは読めない恥ずかしさもあり、今は聞くのをやめた。
「じゃ、今度はアンタの名前を教えろよ」
サイモンがつまみを作りながら聞いた。
「ムラカミハルキ、ヤザワエイキチ、トコロジョージ、どれでも好きなのを選んでくれ」
「オイオイ、何だよいまさら」
「ジョージだよ」
止むを得ず本名を言った。
「へっ、(英語っぽい発音で)Georgeって言うのか。オレよりもっと外人っぽいじゃないか、ハハ!」
「笑うな、このヤロー!」
「で、苗字は?」
つまみを作る手を休めずサイモンが聞いた。
「カミムラ」
反射的に本名が口から出た。
「さっきはムラカミで今度はカミムラか?」
サイモンが呆れたように聞いた。
「いまさら偽名なんて使わないよ。靴も時計も貰ったし、万ワインも飲ませて貰ったんだからな。一応わきまえてるさ」
「そうか、カミムラさんか……」
サイモンはたいして関心なさそうにボソッと言って黙って手を動かした。
キャンピングカーでの一人暮らしに慣れているサイモンは、手際良く何種類かのツマミを作りジョージの前に並べた。缶詰のツナとコーンをマヨネーズで和えたものや、クラッカーに潰したサーディンを塗ってチーズを乗せたものとか、いずれも缶詰や保存の利くものばかりだが、世間並みにキャンプとかパーティに縁が無かったジョージにはたまらないほどオシャレである。
「お前もバースデーパーティのゲストだからな」
サイモンはマモルにも声をかけ、ブツ切りにした魚肉ソーセージの一部を紙皿にのせて鼻先に置いた。紙皿にワインも少しだけ注いで差し出した。マモルはこの赤い色の水にも目がない。すぐにペチャペチャと飲み始めた。
「この相棒の名前は?」
サイモンが振り向かずに聞いた。飼い犬なら名前があるはずだから、若い男と一匹の繋がりを確かめたかったのだ。
「あ、こいつ?マモル。オレの護り神さ」
「へ〜、マモルか、いい名前だ。じゃ、雄だな」
(やべ~、雄か雌かまだ確かめてね〜し)
ジョージは返事に困り横たわるマモルを見た。尻をこちらに向けていたのでそこに雄のシンボルを見つけてホッとして答えた。
「ああ、オスだよ。オレの弟分さ」
「そうか、アンタ達いいコンビだな」
そう言った途端、サイモンはまずいと思った。薄汚いホームレスと片方の前足を失った野良犬だからお似合いという嫌味に取られかねないからだ。
「そうさ、オレの唯一の身内だ」
ジョージがサイモンの懸念を跳ね返すように自慢げに答えた。
マモルが一気にソーセージを平らげたので、ジョージはツマミを幾つか取り合わせて紙皿に乗せ、床に置きながら「ほら、これも喰え」と声をかけた。ワインをもらって機嫌がいいのか、マモルは一段と強く尻尾を振り、懸命にパーティゲストの役を務めた。
ボトルのワインが減るに連れて、二人と一匹の仲間意識がどんどん膨らんで行く。大した料理はないが、この状況下では最高の演出である。とりわけ、ジョージには、こんなささやかなパーティでも夜が明けるまで続いてもいいと思い始めるほど嬉しかった。
「どういう事情か知らないけど……アンタまだ若いのに、死ぬなんてもったいなくないか?」
サイモンがポツリと聞いた。
「見ての通り、オレは住所不定無職、つまりホームレスってやつ」
「……」
サイモンは黙って次を待った。
「もう十年以上になるかな」
「ご両親や兄弟とか心配してるだろうに」
「オレはさ、天蓋孤独ってやつさ」
「そうか、いやオレも似たようなもんだ」
「そうなのか?でもホームレスじゃないだけましさ」
「オレのことはいいから」
サイモンはフッと笑ってその先を催促した。
「オレんとこは母子家庭でさ、物心ついた頃には父親はいなかった。母ちゃんと弟と三人暮らし。子供ながら分かったがそりゃ貧しかった。
その弟が小学校に入る前に病気で死んだんだ。それからすぐにお袋も身体壊して死んじゃった。弟が死んだショックと働き過ぎで無理がたたったんだろう。親戚は誰も助けてくれない。一人残されたオレはこのザマさ」
そこまで言い終わって辛かった過去を思い出したのか、ジョージはしばらく黙り込んだ。
「会ったばかりのオッさんに、何でこんな身の上話をしなきゃなんね~んだ?」
ややあって、現実に戻ったようにジョージが機嫌悪そうに言った。
「さっきオッさんも似たようなもんだと言ったけど、家族とかいね~のか?」
今度はオレの番か、とサイモンは苦笑した。
「オレは一人っ子だったし、オレが成人した頃に親父とお袋は二人一緒に交通事故で死んでしまった……」
ジョージは黙っているが、目が先を聞きたがっている。
「それでも何とか家庭を持てたし、生活はそこそこ順調だった。しかし女房とは五年前に別れた」
「へ~、そうなんだ。オレたち少しは似てるんだな。普通に育ったかそうでないかの違いだけだもんな」
ジョージは自虐的に言った。
「オッさんはさ〜、何も心残りはないのか?……最後に食いたいものとか、会いたい人とかしたい事、とかさ」
「ないよ。未練はきれいさっぱり片付けてきたからな」
(一人娘が唯一の気がかりだが)
ボトルの半分以上が消え、つまみも綺麗になくなった。マモルは寝込んでいる。束の間話題が途切れると、サイモンがポツリと言った。
「運悪く見つかってしまったけど……俺のことは気にしないでくれ、後でまたやるだけだ。今夜がダメなら明日もある」
「こっちにとっちゃ~、運良くだよ!あと何分か気が付くのが遅かったらオッさんに先を越されていただろうな」
「自分が自殺したいのなら、俺が死のうとするのもほっとけばいいだろうに……何で止めるんだ?」
「オレは一人で死にたいんだよ!誰にも見られたくないし……、それと明日死体が二つ上がったら男同士の心中かと疑われかねないからな」
「は〜、何それ?おかしな理由だな」
「オッさんは今日じゃなくてもいいだろう、明日以降ならいつでもやってくれ!」
「オイオイ、見ず知らずのアンタが何でオレの自殺の日にちまで口出しするんだ?それよりさっさと見本を見せてくれ!」
「ンなもん、人が見てる前で、はいそうですかって出来るか、見せもんじゃね〜んだよ!」
「あんた、本気で死ぬ気があんの?あっ、もしかして……カナヅチ?」
「あゝ、そうだよ、それが何か?泳げないから確実に死ねるんじゃね〜の?」
「泳げない奴ってさぁ、途中で怖くなって逆に必死に陸に戻ろうとするんだよな」
「オレはそんなヤワじゃね〜ぞ」
「じゃ、見届けてやるから、お先にどうぞ」
「自殺する奴を急かすなんて、聞いたことがないぞ。オレが溺れてもがくのを笑って見ていようっていうのか?」
「アンタさぁ、まだ若いんだから、死ぬことないんじゃないの?それに今日に拘ることもないし」
「さっきも言っただろう!生まれた日に死ぬ、なんかドラマチックでさ」
「(呆れたように)ドラマティックねぇ〜」
(チックをティックて言い直しやがって、嫌味なヤローだな)
とジョージは思ったが口には出さなかった。
「誕生日に自殺した事にしたかったら、昨日の晩に実行すべきだったな。明日あんたの溺死体が上がったら、もちろん運よく遠くに流されずにだけど、明日の日付けで処理されるからな。もっとも土座衛門が何処の誰かも分からなければ誕生日もなにもありゃしない。ふやけてブヨブヨになった死体はマニュアル通りに解剖されて、事件性がなければ、後は生ごみゴミ扱いさ。遺書とか遺品があれば、一応身元が分かるだろうがね」
「ね〜よ、そんなもん、身元が分かるような物は何も持っていないし、イショを書くにも紙もペンも無いしな」
「紙とペンなら貸してやるよ、身元が分かれば一応役所で記録されて、あんたがこの世に存在したことになるから……。どっちにしたって、寄ってたかって切り刻まれるけど」
そう言ってサイモンはニヤリとした。
「溺れて死んだらカイボーされるのか?」
「あゝ、法律でそうなってる。殺人かも知れないんでな」
そう聞いて、昔テレビで見た解剖シーンが蘇りジョージは嫌な顔をした。
「で、そのイショってさぁ、どう書けばいいんだ?」
靴の中の封筒をちらりと見て、
「あれ、オッさんのイショだろう?ちょっと見せてくれよ、参考にするから」
「おいおい、人の遺書を参考にするヤツがあるか、自分の遺書は自分で考えろ!」
「でもオレ、中学さえまともに行っていないし、昔から作文は苦手でね、うまく書けるかな……」
「レポートや論文ではあるまいし、自殺のいきさつと身元がわかれば十分だろう」
「でもさぁ、人生の締めくくりにふさわしい文章ってのもあるだろうよ……。オッさんは学がありそうだし、立派な遺書なんじゃね~のか?どうせ死んだら皆に見られるんだろう」
「おかしな奴だな。会ったばかりの他人に遺書の書き方を教えてもらうなんて」
サイモンは呆れた顔で言った。
「頼むよ、なっ、なっ!書き終わったらまた海に入ってくれ。もう止めないから」
そう言ってすぐに靴の中の遺書に手を伸ばした。が、それより早くサイモンが二通の封筒をさらった。
「ところであんた、今日で幾つになったんだい?」
話の流れを変えるように、サイモンがボソッと切り出した。
「三十四……、もう充分生きたよ」
「おいおい、三十四でもう折り返し点に来たつもりか?江戸時代じゃあるまいし。
人類は今や百年生きる時代だぞ、まだ三分の一しか生きていないじゃないか。今自殺するなんて勿体ないと思うけどな。せめて人生の半分まで生きてみたっていいんじゃないか?」
「こんな暮らしで折り返しまであと二十年?大して意味があるとも思えないがな」
ジョージは軽く抵抗した。
「坂を登り切った所、砂漠で砂丘を超えた所、そして山の頂上、そこまで行って初めて向こう側に何があるのかが見える。そこから前に進むか、来た道を戻るか、右か左かはアンタの勝手だ。折り返し点というのはそういうことだ」
ジョージはインテリサイモンの言葉に説得力があるのを認めざるを得ない。
「ということは、オッさんは登り切って先に何があるかを見た。そしてもう何もしない、ここで終わりにする、そう決めたのか?」
「そういう事だ」
「……」
ジョージには反論の言葉が出て来ない。
人生に未練がなくなったやつはクールに見える。
(オレは本当に後悔しないのだろうか?)
「人間以外の生き物は、今を生き延びることしか考えない。明日という概念すらない。それに比べて天敵のいない人間は、明日とその先をどうするかと悩むだけでいい。実に贅沢なもんだ……。
死はあらゆる苦悩からの究極の解放、或いは解決と信じる人もいるだろうが、そんな事はない。死んでしまえば全てがそこで終わる訳だが、これでやっと楽になれるとか救われる、という幸福感さえない。生きて苦悩から脱け出してこそ、本当の解放感を味わえるのさ」
サイモンの話が一層哲学的になって行く。
「……」
ジョージにはサイモンの言う事を消化するのに少し時間がかかった。
「オッさんの言おうとする事は分かるような気もするんだけど、オレには違う世界の事のように聞こえるんだよなぁ〜。何一つとして世間並みのものを持っていない人間にとっては、自殺だって立派な選択肢の一つだよ……。住所不定無職、近親者も友達もいないみじめな路上生活者に、まだ若いんだからやり直せばってか?」
ジョージは自虐的に答えた。
「オレみたいな中卒じゃまともな仕事にはつけないし、運転免許とか資格なんてモンは一切無し、身元保証人さえいないんだから定職にも付けやしない。せいぜい日雇いか、最低賃金以下のバイトを取っ替え引っ替えさ。
友達はもちろんいないし、彼女なんてハナっから無理だし……。こんな人生楽しいと思うか?思い直して、折り返し地点まで頑張れってか?無責任な事を言うなよ……。キャンピングカーで優雅に遊んでいる身分のオッさんに言われて、はいそうですねって素直になれるもんか」
ジョージはふてくされたように両手を頭の後ろに回した。
「ジョージ、だっけ……、アンタは自分には何の価値もない、そう思っているんだろう?」
サイモンがジョージを下から覗き込むように言った。
「人間、もちろん全ての生き物がそうだが、最初から勝者や敗者として生まれてくる訳ではない。この地球に生まれてくること自体が勝者なんだ。つまり生まれると言う奇跡を勝ち取った選ばれた者だ。その後は運や努力次第、豊かになったり貧しくなったり、あるいは幸せだと思ったり不幸だと思ったり、そういう事を繰り返したりするだけだがな……。
生命の継承も駅伝みたいなものさ。アンタ、父親を知らないって言ったけど、それでも両親から命を引き継いだ。今度はあんたが子供にあんたのDNAを引き継がせる義務がある。その子はさらにあんたの孫に。命のリレーには最終ランナーはいない。誰かが走るのをやめる時がレースが終わるだけだ」
男の知的な話にジョージはどんどん引き込まれている。
「この世に生まれて来た事をアンタは特に有難くは思っていないだろうが、生を受けた事自体がドラマなんだ。ドラマのない人生なんて一つもない。アンタは奇跡の塊なんだよ、最高傑作なんだよ」
「ざけんな!一体オレのどこが最高傑作なんだ、エッ?!」
「この広い宇宙にオレ達を照らしている太陽と、この地球という惑星が誕生した。だが、これはまだ奇跡ではない。宇宙には太陽なんて無数にあるし、地球のような惑星となるともう数えきれない]
「エッ、太陽って一つじゃないのか?」
「あゝ、宇宙には核融合で燃え続ける星は幾つもある」
「カクユーゴー?」
「原子炉みたいなもんだな。別に危ないものじゃない」
「オッさん、詳しんだな」
「天文学に少しは興味があったからな」
(天文学か、面白そうじゃん)
そう思うとジョージは続きを待った。
「そんなただの惑星の地球が、水と大気を持った事で生命が生まれた。これが最初の奇跡だな。あんたの命はな、地球上に生命体が誕生して延々四百万年も受け継がれてきた結果なんだよ」
(四百万年って言われてもな……)
ジョージは一瞬目を閉じてその長さを計ろうとしたが、すぐに諦めた。
「オレ達現代人の祖先がアフリカで誕生したのがおよそ三十万年前、そしてたった五万年前にその祖先がアフリカを出て世界中に移住し始め、ついには日本列島にも流れ着いた。今のアンタがここにいるということは、その気の遠くなるような命の連鎖が一度も途切れなかったからなんだよ。アンタは突然宇宙から落っこって来たわけじゃなく、連綿と積み重なった奇跡の結果今ここにいる。これって凄い事だとは思わないか?自分の存在を軽く見ちゃだめだよ!」
ジョージを諭しながらサイモンの語調が次第に強くなり、内容が天文学から考古学、そして少し哲学的になってきた。
(大学の講義って、多分こんな感じなのかな?)
ジョージは一瞬、昔テレビで見たことのある大学の講堂にいる自分を想像した。
「オレ達の祖先って、ホントにアフリカから来たのか?」
「ああ、そうだ。これまで多様な人類が生まれては絶滅したが、全てはアフリカから各地に広がったそうだ。今では世界中にいろいろな人種がいるが、元をたぐれば皆アフリカに行きつ着くんだ」
「金髪の白人もか?」
「見た目に関係なく、祖先は同じさ」
「オッさんに学があるのは分かったけど、たった今死のうとした人間がする話じゃないじゃね~の……」
「オレはちゃんと命を繋いだ。一応役目は終わったからな」
「命を繋いだって事は子供がいるって事だよな?」
「ああ、娘が一人……。最後の数年は嫌われたままだったけどな」
「おいおい!それじゃ娘さんが悲しむだろうが、オッさんが死んじまったら」
「こんな父親はいなくてもいいんだよ……」
サイモンが自虐的に言うので、ジョージはかける言葉に窮した。
少し間が開いたが、サイモンが話題を変えた。
「この地球は誰のものだと思う?」
「そんなの……みんなのものに決まっているじゃないか、当たり前だろう!」
「そうだ、地球の恩恵を受ける全ての生き物のものだ。だけどな、みんなのものである前にアンタだけのものなんだよ」
「はあ?言ってること、分かんね~し」
「アンタが死んでしまったら、この美しい地球の何もかも全て消えてしまうんだよ。毎日昇る太陽、きちんと変わる季節、水と空気、美味しい食べ物、アンタが生きてる時だけそこにある、という事さ。太陽も地球も、自分が存在した事さえ完全に消えてしまう……死ぬってことはそんな事なんだよ」
(やべ~、このオッさん、何か変な宗教とかやってんじゃね〜の?)
ジョージはそう思ったが、さすがに説得力があることも認めざるを得ない。
「オレが言いたいのは、生き物はいずれ死ぬんだから、何も今じゃなくてもいいんじゃないか、ということさ」
「オレに取っちゃあ、明日も今日の繰り返し、一日生き延びるという事に大した意味なんてないさ」
ジョージも負けずに言った。
自分のこれまでの苦労は、この若者の苦難には遥かに及ばない事は確かだ。そう思ったサイモンは、この青年にまだこうして生きているのが幸運だった事を知ってもらい、サイモン自身が自分の殻を破るため何をしてきたかを話すべきだと思った。
「オレだって二十代の頃は散々敗北感を味わったさ。田舎の貧乏暮らし、誰でも入れる高校は出たけど、大した仕事に就けるでもなく、毎日長時間働かされて……」
そこまで言ってサイモンは一旦止めた。この程度の苦労話はこの若者に言うには軽すぎると思ったからだ。
コーヒーテーブルの上に透明のガラス板がのせてあり、その下に写真やメモ類が挟まれている。ジョージは飲みかけのワインをすすりながらそれらを何気なくチラチラ見ていたが、一枚の写真に目が止まり少し前かがみになった。
その写真には、黒いガウンのような物を着て四角い帽子を被った若い人物が、数人の外国人と写っている。
「この写真、これってオッさんか?卒業式か何かって感じだけどな?」
サイモンもその写真を確かめて、
「それはMBAの修了式の写真だよ」
そう答えてワインを一口飲んだ。
「何だよ、そのエム何たらってヤツ?」
「経営学修士ってヤツさ」
「ケイエイガクシューシ?」
「経営を勉強するマスターコースだよ、大学院の」
「大学院って、大学のもっと上の学校だよな?おいおいオッさん、アンタそんなすごいとこ出てんのか?でもさっき高卒って言ったよな」
「そうだよ、高校を出てから一度は社会に出た。しかし、何とか自分を変えてくて、少ない貯金を全部持ってアメリカに渡ったんだ。英語はもともと得意な方だったから、語学研修のあと大学へ入れた」
ジョージが興味を持って聞いているので、そのまま続けて、
「入試に受かれば卒業出来る日本の大学とは違って、向こうの大学は付いて行くのが大変なんだ。あれ程勉強した時期は人生で他に無かったな……」
サイモンは自分を褒めるように言った。
「でもオレは高校も出てないんだぜ、そんな努力話を聞いたって、どこの世界?って感じだな」
「高校は出てなくても大学は行けるよ」
「出来んのか、そんなこと?」
ジョージが少し前のめりになった。
「ああ、以前は大検、今は確か高卒認定試験って言ったかな。とにかく大学受験の資格を認めてもらう方法があるので、それさえクリアすれば大学に入れるさ。あんたは見た目より賢そうだから、暇を見て半年も勉強すれば受かると思うよ」
「見た目より、って何だよ。ホント、むかつくぜ!」
ジョージはむくれて見せたが、賢そうと言われたので悪い気はしない。
「でもやっぱ、オレにはムリかもな……、金も仕事も無いし、住むところさえ無い、だいいちオレ、勉強が苦手だから……」
ジョージはそうは言ってみたものの、三十過ぎてからアメリカに渡り大学院まで出た目の前の男に啓発されると、自分も夢のまた夢である大学に行けるかも知れない、と思い始めた。
「なんだかんだ言って、アメリカの大学院でエムエルビーとか取って、オッさん、すっげ~エリートじゃん!」
「あのな〜、MLBじゃなくてMBA。MLBはアメリカのプロ野球協会だ」
サイモンは呆れるように言った。
「アンタにも、夢の一つや二つある、いや、あっただろう?」
「そりゃあったさ……、こんなキャンピングカーで気ままに旅をする、大学を出る、それとオレ料理が好きだからレストランを開く、とかだな」
「いいぞ!一気に三つも出て来たじゃないか!夢の一つ目は今すぐ叶えてやる。この車は今からアンタの物だ!」
「ちょっ……ええっ!この車をオレにくれんのか?」
このオッさんが死んだらこの車はどうなるんだろう、と気になっていたところにこの話だ。
「そう聞こえなかったか?」
ジョージはサイモンの目をまじまじと覗き込んだ。
(やっぱ、このオッさん、おかしくなってんだ。百ン万のロレックスの次はこの車?)
「何だか欲しくないって顔をしてるな。アンタが要らなけりゃ、自治体がオークションに出すだろうさ。遺体処理や何やらで地元自治体に迷惑をかけるから、オレの後始末に使ってもらうつもりだ」
「なっ、何言ってんだよ、嬉しいに決まっているじゃないか!ふつうあり得ない事が起こってるからさ……、びっくりしてんだよ!」
「よし、これで夢の一つ目は叶った。夢の二つ目だが……、自殺を先送りして住所を定めてバイトでもすれば、二年後は大学に通っているかもな。女子大生の彼女も出来るさ」
カノジョの一言でジョージの目が輝くのをサイモンは見逃さなかった。
「で、三つ目だが、それほど難しい話ではないさ」
サイモンにそう言われると、そう思えてくるから不思議である。
つい昨日までは、まともに腹も満たせなかったのに、今夜いきなりロレックスやキャンピングカーが手に入った。
(そうだ、生きていさえすりゃ何かが起こるのだ)
「オッさんさ〜、オレなんかに比べたら、自殺する理由なんか全然無いような気がするけどな。路上生活まで堕ちてみりゃ自殺の資格もあるってもんだぜ」
「自殺するのに資格も何もないだろう……、人それぞれさ。あんた、日本で毎年何人が自殺していると思う?世界中では?」
「知るかっ、そんなもん!キョーミもね〜し」
「日本で毎年大体二万人、世界中で約八十万人。つまり一日あたり二千人を優に超える。自殺未遂は恐らくそのン十倍にはなるだろうな」
「げっ、そんなにいるのかよ?」
「皆が皆、違う理由で自殺しているんだ。罪を償うとか、苦痛からの逃避とか、極貧や病気とかな。アンタみたいにどん底だと言いながら、何も変えようとしないやる気のない奴もな。これだけ自殺者がいりゃ、一人一人の事情なんか記録出来やしない。さっさと所定の書類に必要事項を記入して、ハイ、次って感じかな。
さっきの話だけど、誕生日を選んで自殺したなんて役所には面白くも何ともない。ただ迷惑なだけだ。残念だな、ハハ!」
ジョージは誕生日に死ぬという自分のアイディアをバカにされ一瞬ムカっとしたものの、今さら今日にこだわる意味がないと分かったので言い返さなかった。
「で……オッさんの自殺理由って何なんだ?健康そうだから病気じゃないよな。生活苦は縁がなさそうだし、何かやばい事でもやったのか?」
そう聞かれて(アンタの知ったことか)と言って済まそうとも思ったが、それではこの先お互い気まずくなると思い、
「勤めていた会社を潰す位の損害を出したんだ……。中国で投資した合弁事業を相手方に乗っ取られチマって。
現地法人の社長として送り込んでいたオレの片腕が思い詰めて自殺した。オレは執行役員だったが責任を取って身を引いたんだ。退職金も辞退して」
「シッコヤクイン、何だそのションベン臭いのは?」
「シッコウだよ、まあそれはどうでもいい」
「でもさ、貯金があったから退職金を貰わなかったり、生活して行けるから会社を辞めたんだろう?」
「ああ、派手な暮らしはしなかったから、そこそこ貯金は出来た」
(あんたの言う”そこそこ”って、オレの”そこそこ”とは百倍も千倍も違うんだろうな、このヤロー!)
「しかし、今はもうあまり残っていない。女房と離婚して財産のほとんどを家族に残したからな。自殺した部下の家庭を壊し、自分の家族も失い、オレに残ったのはこの車だけ……このまま生きても辛い老後が待ってるだけさ」
「そっか~……」
ジョージは自分がこのインテリア中年に対し同情を持ちつつあることを感じた。
「しかしさぁ〜、この車があるだけマシだったんじゃねぇ〜?バイトしながら行きたいとこに行くのもいいと思うけどな」
(オレなら絶対そうするさ)
「アンタがそうするといいさ。オレにはもう、やりたいこともないし何も要らない。だからもうオレが入水しようとしても止めるんじゃないぞ」
「何だ、ジュスイって?」
「入るという字に水と書いてじゅすいと読むんだ。海や川に飛び込んで自殺することだよ」
「そうか、じゃ新聞にも『入水自殺』とか書かれるんだな?何かちょっとだけカッコいいな」
(自殺するのにそこまで考えるか?変ったヤツだな……)
サイモンは呆れた。
「ついでに聞くけど、この車を貰えるって事は中にある物も全部貰ってもいいって事になるのかな?」
「ああ、全部やるよ」
「現ナマもあんのか?」
「あゝ、少しは残してある」
(死ぬつもりだから、そんなには現金は残してないはずだ。多くて二,三十万だろう)
それでもジョージには大金だ。
「少しって、五十万くらいか?」
期待を込めて聞いた。
「百万と少しかな」
ジョージの心臓がバクバクしてきた。当然、その金も自分の物になる。
「その金って、この車の中にあるのか?」
期待を悟られないようさりげなく聞いた。
「あゝ、だが車上狙いに持って行かれないよう見つかりにくい所に隠してある。もちろん、アンタのものになる」
(まるで海賊の隠し金だな。まあいいさ、見つけるのは時間の問題だ)
ジョージは百万なんて大金を一度に手にしたことはいまだかつてない。
(夢を見てんじゃないんだよな?さて、どうする?こうなると、オッさんにはジュスイして貰わないと!)
ジョージは口もとで微かに笑った。
スピーカーから聞こえる音楽はクラシックに変わっている。ジョージは普段ならクラシックを聞くと身体がムズムズするが、このキャンピングカーと車内にあるものすべてが貰えると聞いて音楽なんて耳に入っていない。
ジョージはこのインテリがサッサとジュスイしてくれないかと期待している。一方のサイモンはまだ若い路上生活者に、人生をやり直して欲しいと願っている。二人ともしばし黙ってしまった。マモルはワインが効いたのかグッタリしている。
「さぁて、パーティも終わったしそろそろ……」
そう言ってサイモンが立ち上がった。
「そろそろって、ジュスイか?」
「何だか随分嬉しそうじゃないか?」
「バカ、何言ってんだよ!」
否定はしたが、そう言われると無意識にそんな顔をしていたのかも知れない。
「ただ、オッさんの決心が固そうだから、止めても無駄かなって……」
「あゝ、もう些かの未練もないからな。すべてキレイに片付けてきたし……。あ、別に見届けて貰わなくてもいいから、ちゃんと消えるからさ」
「オッさんが海に消えるのを冷静に見てられるほどオレは趣味が悪くないよ。オレはここに残って外は見ないようにするから、存分にやってくれ」
本心を言えば、このインテリ男とならもう少し一緒にいた方がこの先いい事がありそうな気がする。サイモンに死んでもらって、この車を手に入れたとあっては後味が悪い。
「でもさぁ、オッさんが見えなくなって‘これからこの車はオレのもんだ!’って素直に喜べるのかな?ずっとオッさんの怨念に取り付かれちゃかなわね〜ぜ、そうだろう?」
「オレはそんな超能力者じゃないよ、安心しろ」
「ならいいけどさ。オッさんはいい奴だから天国に行くに決まっているよな。オレは間違いなく地獄行きだけどな」
(ククッ)とサイモンが笑ったので、ジョージはムカっとして不満顔を向けた。
「何がおかしんだよ!」
「天国とか地獄とかそんなもんあると本気で思ってるのか?仮にあるとすれば天国だけだな」
「天国がありゃ地獄もあるだろうが!」
「どんな悪い奴でも、死ねば‘天に召された’って言うだろう。葬式で‘めでたく地獄に堕ちました’って聞いた事があるか?心配すんな、アンタは地獄には行かないよ!」
(さすがはエム・ビー何とかと言う資格を取ったシューシセンセイだ。オレが敵う訳が無い)
ジョージはすっかり反論する気を失った。
接点のありようもなかった修士と中卒の二人が、狭い秘密基地の中で奇妙な人生問答をしているうちに間もなく日付が変わろうとしていた。
「じゃあな……、アンタは次かその次の誕生日までもう一度人生を楽しんでみるといい。キャンピングカーの暮らしもいいもんだぞ」
「当たり前だろう、オッさんにとっては単に趣味だろうが、オレにとっちゃ~雨露がしのげるし、不良どもにも襲われることも虫に食われることもない。後は食い物の心配をしてりゃいいだけだから、次元が違うんだよ、次元が!」
「そう言われれば確かにそうだな。だが、食い物なら当面は心配ないだろう。時計が売れたらその金で半年やそこいらは好きなものが食えるさ。贅沢せず自炊すりゃもっと長く生きられるだろう」
そう言い終わると、サイモンは出口ドアに向かった。マモルがついて来たので、優しく頭をなでながら、
「お前も元気でな、アイツのこと頼むよ」
そう言って外に出て行った。マモルがジョージを振り返った。
(おい、ほっといていいのか?)
気のせいか、その目はそう訴えているようだ。ジョージはベッドに腰を下ろし、マモルを傍に呼び話しかけた。
「オレとお前、これから二人で楽しくやろうぜ。オレたち、もう外で寝なくていいし、弁当の残りを貰わなくてもいいんだぞ。すげ~だろう、ええっ!先ずは日本一周だな」
ジョージはマモルの顔を覗き込んだ。
「何だ、お前、全然嬉しそうじゃないな。オッさんが心配か?んなもん放っときゃいいさ」
ジョージはベッドにバンザイをするように倒れた。
(へへっ、オレの秘密基地。どこだって行けるぞ)
そう思って満足そうな顔をした。しかし、すぐに大事なことに気が付いてガバッとはね起きると、慌ててドアを開け外に向かって叫んだ。
「よう、オッさん!」
その大声で、波打ち際から五、六メートルの位置にいたサイモンが振り返った。
「何だ、まだ何か欲しい物があるのか?」
「いや、その、チョット……」
と言いながら浜に降りてきた。マモルも続いて降りてきた。
「だから何だ?はっきり言ったらいいじゃないか」
「あのさ〜、えっと……バイトとかやんない?」
「何の冗談だ?この状況でどんなバイトがあるってんだ?」
「あるんだな、それが……運転してくんない?車」
「はあ⁈……アッそうか、アンタ運転できないんだったな」
「ああ、オレ免許ないんだよ。ちゃんとバイト代払うからさ。もともとオッさんの金だから、好きなだけ取っていいし、好きなもん食わしてやっからよ!な、なっ、頼むよ」
「そんなのそこいらの人に頼めばいいじゃないか。バイト代払えばすぐに雇えるよ」
「どこのどいつか知らない奴には頼みたくねぇよ」
「オレだって、そのどこのどいつだろう?さっき会ったばかりなんだから」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!どこのどいつがどこのどいつに、ポンとキャンピングカーやロレックスをくれる?オレたちお互い名前も知ってんだし」
(オッさんの下の名前は読めないままだけどね)
サイモンは苦笑いするしかない。答える代わりにジョージの方へ歩み寄った。ジョージは申し訳なさそうに照れ笑いを見せた。
「で、そのバイト、いつまでやるんだ?」
「そうだな……、とりあえず六ヶ月、住所決めて免許取って、もしかすると一年かかるかも……、オッさんとオレ、(マモルを指差し)もちろんコイツも、一緒にこの車で日本一周するんだ。どうだい?」
「なるほど。それも悪くはないが、食費が一人分増えると、金が早く尽きると思うけどな」
「だったらオレが時々バイトするからさ、少しは足しになるだろう」
(何て事だ。自殺するためにここに来たのに、いつの間にか一緒に日本一周することになってしまった。この青年と出逢った事が良かったのか、悪かったのか?)
「OK、これも何かの縁だ、しばらく付き合ってやるよ」
「よし決まった!じゃ、車に戻って早速作戦会議だ!」
誕生日に死ぬことが自分のけじめと気取っていたジョージは、もうすっかりウキウキである。
その時、マモルが何か異変を感知したのか、ウフと吠え二人に知らせた。
第3話に続く。
第3の自殺願望者は無理心中の叔母と男の子です。DV絡みで傷害事件を起こし、会社の車で無我夢中で逃げて来たのです。この夜三件目の自殺願望者は二人と一匹に入水を阻止され、大人の男二人の加護のもと、共に男の子を守り抜く決意をします。
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