私が君を好きな理由

中野はる。

 

 一方的に告げられた別れは到底納得できるものではなかった。

 ったく、図体デカい癖に考え方はへたれなんだから。

 一昨日に届いたLINEを受信したスマホを握りしめて碓氷彩香はソファーに腰を下ろした。

『もう彩香が好きな俺じゃないから別れる』

 このLINEが来てから何度、彩香が連絡しても送り主・速水大樹から返事は返ってこない。一緒に住んでいるこの家にも帰ってこない。

 本当馬鹿なんじゃないの。普通こういうのは別れようって言うんじゃないの。どっちにしてもこんなLINEだけで別れる気はさらさらないけれど。

 舌打ちをした彩香は仕方がないとつぶやいて、大樹の母・公江に電話を掛けた。

 コール2回ではきはきした公江の声が彩香の耳に入ってきた。

「彩香ちゃん、さっさと大樹を連れて帰って! デッカい図体のせいで家が狭くて仕方がないんだから!」

 大樹を気にしているからか公江の声は普段よりも少し小さめだ。

「連れて帰りたいのはやまやまだけど、大樹が私を拒否してるんです」

「何? アイツと別れたの? やめてよ。私彩香ちゃんが娘になるの楽しみにしてるのに」

「ありがとうございまーす」

「で、いつ迎えに来てくれるの?」

「三十路男に言う言葉じゃないですよ、それ。大樹のママは公江さんでしょ?」

「ごめんごめん、カノジョ様。で? いつこれそう?」

「夜遅くてもいいなら、明日にでも行けますけど?」

「遅くってどれくらい?」

「11時半くらいですかね」

「ちと遅いなぁ」

「土曜日だったら朝からでもいけますけど」

「じゃぁ土曜の午前中にでもおいで。大樹に言ったら逃げるだろうから、何も言わないでおくよ」

「お願いしまーす」

 じゃぁおやすみなさーい。そんな間延びした挨拶を残して彩香は電話を切った。

 土曜日に彼氏の実家に彼氏を迎えに行くなんて三十女がやることじゃないよな。ったく、仕事が立て込んでいる時に。

 もう一度舌打ちをて風呂場に行ってお湯を張る。音を立てているそばで横に髪を縛っていたシュシュを取った。一つにまとめていた黒髪が肩のあたりで小さく揺れる。

 大樹がいない。

 自分がたてる音しか聞こえない部屋がウザったくて仕方がなかった。

 彩香は溜息を吐きながらガシガシ髪の毛をかくと、少し溜まった湯船に足を入れた。

 温いお湯が気持ちいい。

 溜まるまで、と制限をつけて彩香はこの2日間溜めに溜め続けて考えずにいた大樹への愚痴を一気に吐き出した。湯船をためるお湯のようにジャブジャブと勢いよく。

 大体、別れる理由がわからない。確かに最近仕事が忙しくて擦れ違い気味だったけど、でもそれは今回が初めてっていうわけじゃない。大きな喧嘩どころか小さな喧嘩もなかった。むしろ今までにないくらい穏やかだったと思う。ってか別れを告げるにしてもLINEって言うのが腹立つ! その程度で別れようって言えるほどの浅い関係だったわけ? っていうかこれ絶対、電話でも直接会ったとしても、私と口論するのが嫌だったからでしょ!

 彩香の怒りがマックスになってきた丁度その時にお湯が張ったことを告げる音が聞こえた。

 嫌なことは水に流して忘れる。それで土曜日になったらきっと逃げようとする大樹の首根っこ捕まえて話をさせよう。

 ブラウスを脱ぎ捨てて洗濯機に投げ入れた。

 そういえば一番風呂は久しぶりだな。

 そう思うと、彩香はまた淋しくなった。



 それは大樹の口からではなく毎朝つけているニュースのスポーツコーナーから伝えられた。

「昨晩、競泳の速水大樹選手が引退を発表しました。速水選手は今年三十歳を迎えた日本の最多金メダル保持者で、一昨年のバルセロナ五輪男子平泳ぎで金メダルを取るなど輝かしい成績を収め来年のロンドン五輪の出場が期待されていました。なお速水選手の引退会見は本日15時から予定されています。次のニュースです……」

 アナウンサーがあまりにも淡々と話すものだから、彩香が理解するのに時間がかかった。

 急いでスマホを充電器から引っこ抜いて、彩香は大樹に電話を掛けた。10回目のコール音を聞いてから電話を切る。

 本当はLINEで何か言いたかったけど、溢れる言葉のせいで上手く指が動かない。

「仕事、行かなくちゃ」

 今すぐ大樹の実家に押しかけて、大樹に直接聞いてやりたい。大樹と出会った学生の頃だったら、学校でも授業でも受験でも投げ出して大樹の所に行ったのに。

 自分だけじゃなくて他人にまで迷惑をかける立場にまでなったことが心底疎ましかった。


 会社についてから昼休みも返上して仕事をし続けた彩香を見て、周りの同僚は終始彩香の後ろに鬼神を見ていた。

 彩香は怒りをぶつけるように荒々しくキーボードを叩く。オフィスには耳障りな音がどこにいても聞こえていた。

「碓氷、やりすぎ」

 そこにタオルを投げ込んだのが、彩香の同期・芦谷愛海だった。

「何?」

 ギロッと血走った目を芦谷に向けて彩香は言う。

「あんた食事どころか水分補給もろくにしてないでしょ?」

「芦谷が心配することじゃない」

 二人のやり取りに周りの同僚はドギマギしながらも静かに耳を傾けていた。よくやった芦谷! と褒める言葉もあれば、何刺激してるんだよ! と嘆く声もあり、その顔色は様々だったが。

「ゴチャゴチャうるさい。今日のあんた機嫌悪すぎてこっちが迷惑してるの」

「別に私が機嫌悪くても、みんなには関係ないでしょ?」

「それ、後輩にも言える?」

「はぁ?」

 彩香は椅子から立ち上がって腕を組んで芦谷を再度にらむ。

「何言ってるのかわからないんだけど」

「碓氷がいつも後輩に言ってることじゃない。自分の都合で迷惑かけるなって。今、みんなに迷惑かけてることに気づかないの?」

 芦谷のその一言にハッとした彩香は周りを見渡す。

 その瞬間、全員が二人から目を話して仕事をしているフリをし始めた。迷惑をかけていたことに気づかされるのには十分な空気の悪さと重さだ。

「……ごめん。遅めの昼休憩もらう」

「私もいく」

 財布と携帯だけ持った彩香に同じく財布と携帯を持った芦谷が後に続く。

「芦谷は昼休憩とったんじゃないの?」

「こういうことになるだろうと思ってとらないでおいてあげたの。感謝しなさいよ?」

「ありがと。昼ごはん奢るわ」

「じゃぁsakakiのランチにしよう」

「あんたここぞと言わんばかりに一番高い店を……!」

「安いもんでしょぉ? あんたの信念曲げないようにしてあげたし、これから相談に乗ってあげるんだからさぁ」

 2千円のランチなんて安いもんよーと、今にでもスキップしそうなくらいご機嫌に部屋を出て行く。彩香はそんな芦谷を尻目に小さくため息を吐いた。



「と言っても、相談に乗ってもらうような代物じゃないんだけど」

 2千円のランチを食べつつ彩香は口を開いた。

「やるべきことはわかってる。だから芦谷の出番はなし。ゆえにこの2千円も信念を曲げないように計らってくれたにしては高すぎる。よって妥当な千円を提案する」

「えー!? まぁしっかりモノの碓氷のことだからさぁ、そうそう相談に乗るようなことはないだろうなぁって思ってたけどー。じゃぁ話すことはないの?」

「あんたはそこまでしてタダで2千円ランチを食べたいのか!?」

「そりゃぁね。なかなか来られないし、ここ。ってかそれだけじゃない」

「他に何があるんだ、食いしん坊」

「賢い碓氷は悩み事の解決のためにやるべきことをちゃんとわかってる。にも関わらず依然不機嫌で一緒に仕事するのがやりづらいったらない」

「ハッキリ言って」

「あんたはその悩み事をまだ誰にも話していない」

「別に話すほどのことじゃないから話さないだけ」

「馬鹿ね。本当に話さなくても問題ない内容だったら、なんで今碓氷はこんなに眉間に皺を寄せてせっかくのsakakiのランチを食べてるの?」

 芦谷の言葉に耳を傾けながらも、彩香は黙って鮮魚のポワレを口に入れた。トマトとバジルの風味が口いっぱいに広がる。おいしいという味覚は感じるのに、それが表情まで伝わらなくて笑顔にならないのは芦谷が言った通りだからだろうか。

 話すか話さないか天秤にかける。

「話してみなよ」

 芦谷のその一言で、話す方に天秤がたやすく傾いた。

「芦谷には言ってなかったけどさ。私の彼氏、速水大樹なんだ」

「速水ってあの? 今朝からニュースで名前挙がってるあの競泳の? あの速水大樹?」

 コクリと彩香が頷く。

「ひょえー!! 芦谷ちゃんびっくりだよ」

「そう言うには大して驚いていないように見えるけど」

「驚いてるよ? でもどう考えても頭脳派の碓氷と運動系ってどうしても繋がんないんだよねぇ。どうやって知りあったの? 誰かの紹介? それとも合コン?」

「同じ高校だったのよ」

「それだけ? うちの高校もバレーが結構強くてさ。でも一般クラスとスポーツクラスで分けられててとてもじゃないけど仲良くなれる機会なんてなかったよ?」

「うちもそうだよ。大樹とはクラス分かれてて、持久走大会がきっかけで仲良くなったんだ」

「持久走ぉ? そんなんあったの? うわぁかわいそう」

「11月に1年生と2年生のみで、学校の周りをぐるーっと一周走れってやつ」

「運動音痴の碓氷にはキツイ以外の何物でもないね」

「そ。それで倒れたわけ」

「倒れたあ!? えー!! 漫画みたーい!」

 芦谷はバシバシとテーブルをたたきながら、目に涙を浮かべて爆笑する。それが許されるのは、sakakiが個室だからだ。

 個室に感謝。主に芦谷が。

「理由聞いたらもっと爆笑すると思うけど?」

「ききたーい!」

「高1の時、クラスにそこそこかわいくて、そこそこ頭も良くて、そこそこ運動もできる自意識過剰の女がいてさ」

「わかった。碓氷、運動以外で勝ったんでしょ?」

「意図して勝ったわけじゃないんだけどね。それで目の敵にされて、もう鬱陶しくて。それで持久走大会で勝負しろとか言われたわけ」

「それと碓氷が倒れたのに何が関係あるの? だって碓氷だったらさ、普通に無視するでしょ?」

「1対1で言われたんだったらそれなりに流したけどさ。クラスメイト全員の前で言われて、私が受けるって言わないと収集つかない雰囲気になったのと、当時の私はまだ負けず嫌いだったってこと」

「それで勝負に乗っちゃって、結局無理をしたから倒れたってわけ?」

「そ。そんな感じ」

 そういって彩香はグラスに入った水を飲んだ。一気に話したからか、ゴクゴクとグラスの水をすべて飲み干した。

「それと速水選手とのなれ初めにどう関わってくるの?」

「ここまでくればわからない? 大樹が倒れた私を助けてくれたの」

「ふーん。でもそれだけじゃぁ付き合うまでには発展しないでしょ?」

「まぁね。実際助けてもらった後は、すれ違ったら少し話す程度だったけど」

「へー」

「それで2年目も倒れて1年前と同じように大樹に助けてもらった」

「はぁ?! なんで2回目があるの?!」

「頑張ったけど私の持久力が私が思ってた以上になくてそれを知らないで去年と同じペースで走ったもんだから倒れたって感じ。当時、運動する機会がほとんどなかったのよ」

「昔の碓氷って馬鹿だったんだね!」

「そんないい笑顔で言うな」

 テーブルの下で彩香は芦谷の足を蹴った。どうやら弁慶の泣き所にあたったらしい。思ってた以上に芦谷は痛がっていた。

「ま。それで私の方が大樹に興味持っちゃって、色々と調べたの」

「調べたって?」

「大したことは調べてないけど? インスタとかXとかやってないかなぁって検索かけたり。クラスの子のアカウントから芋蔓で見つかったけど」

「あるあるだー」

「それで大樹って水泳やってたのは知ってたけど、水泳してる大樹は見たことないなぁって思って部活中の大樹を見に行った」

「水泳してるの知ってたって? まさかそれも『速水大樹』ってググって知ったとか?」

「いや。好きになる前に知ってたし」

「なんで?」

「だってその時は大樹、全校集会で必ず名前呼ばれて表彰されるくらい有名だったもん。助けてもらう前でも顔は知らなくても名前は知ってたよ」

「なるほど」

「大樹が泳いでるところ初めて見て、すごくきれいでさ。それまで水泳とか全然興味なかったけど、他の子よりもずっと早いのにきれいで目が離せなくて……人間離れてしてるって印象だった。イルカみたいだなぁってきれいだなぁって思ったらすごく好きになってた」

 その時を思い出して彩香は食べる手を止めて目を細めた。彩香の目にはきっと高校生の速水大樹が映っていたのだろう。じゃなくちゃ、“怖い美人”や“般若美人”と恐れられる彩香がこんなにも柔らかい顔をするわけない。

「それで私はその日の部活終わりの大樹を捕まえて、告白したってこと」

「うわー碓氷らしい!」

「だってそれから好きになってもらう努力をしてももうすぐ受験だからきっと大したことできないだろうなって思ったから。まぁ大樹からオッケーもらったからよかったけど」

「そりゃぁあんたみたいな美人に好きだって言われて断るやつなんていないでしょうよ」

 芦谷は甘夏のジュレをスプーンですくって口に入れた。それにならって彩香も甘夏のジュレを食べる。

 さわやかな甘みが疲れて凝り固まっていた頭をゆっくりと解していく。

「それで本質的な話になるけど、何で悩んでるの? 今朝のニュースから考えて、速水選手の引退が原因だと思うけど」

「大樹、私に別れようって一方的にメールで言って、一緒に住んでた家から出て行ったの。『引退するときは真っ先に彩香に言う』って言ったのに一言も相談せずに引退を決めたし……」

「そりゃぁ……きついね」

「それ以上につらいのはそういう大きな悩みを抱えてる大樹のことに全然気づいてあげられなかったことで……」

「仕事忙しかったじゃん。過去最悪に多忙だったよ、最近」

「でも大樹はいつも私が忙しいって悟れないようにしてても気づいてくれてさりげなくフォローしてくれるのに」

 それだけじゃない、と彩香は続ける。

「誰よりも大樹の隣にいて大樹がイルカみたいに誰よりも早く、誰よりもきれいに泳いでるところを見て、大樹を支えられるように彼女になりたいって思ったのに、全然できてなかったってことじゃない……忙しいって言って、前は練習でも時間があれば見に行ったのに、最近は大会すら忙しくて見に行けなくて、大樹が悩んでることに気づかなかった。それが一番許せない。そんな自分本位な私が一番許せない」

 彩香が気持ちを吐き出して数秒経ってから、芦谷は両手を静かにあげた。

「それは何?」

 じとっとした目で見る彩香に、芦谷は申し訳なさそうに言う。

「ごめん。私、本当に話聞くだけしかできないや。碓氷が一番欲しい言葉が何か見つからない」

「ううん、話しただけでもずいぶんすっきりした」

「そうだといいんだけど……」

「それに話してかなりまとまったし……ありがと、芦谷」

 目線を芦谷からそらして彩香はぽつりとつぶやく。彩香の仕事以外での珍しいありがとうをもらった芦谷はめいっぱいの笑顔を浮かべて、うんうん! と二回首を大きく振った。

「芦谷、申し訳ないんだけど、今日さ、定時に上がらせてもらってもいい? この忙しい時期に本当に申し訳ないんだけど……」

「別にいいよー。残業分の仕事ならもう十分碓氷やってるし。それに今日は早く帰った方がいいと思うよ? 周りの社員が本当にやりづらそうだったんだからさ」

「……今度から気を付ける」

 すこしだけ眉間に皺を寄せて彩香が言うと、芦谷はぷっと噴出した。

 不機嫌な雰囲気はもうなくなっていた。これなら会社に戻っても大丈夫だろう。

「仕事で思い出したんだけど、芦谷が出した策定資料やり直したら?」

「えぇ?! なんでぇ?!」

「数式エラーが出てたよ、確認不足」

「あー! 碓氷に確認してもらってよかったー!」

 ってかどこの数式だ!?と芦谷がガシガシ髪の毛をかいて足をじたばたさせる。

 それに少し微笑んでから、彩香は「ほら帰るよ」と呟いた。



 定時にあがると、急いで彩香は駅に向かって走り出した。

 ほとんど駆け込み乗車同然で電車に乗ると、慣れない運動をした体を落ち着かせようと深呼吸する。

 ここ最近、終電近くの電車に乗っていたからか、ギリギリ夕日が空に浮かんでいる空を見るのは久々だった。

 一応、公江さんに連絡しておこう。

 混雑している電車の中で公江に今から向かうとLINEを打つと、すぐに返事が返ってきた。

『夕飯は彩香ちゃんの分も作っておく』

 そのLINEに励まされた気がした。

 2時間かけて彩香と大樹の地元・群馬県宇都宮市に向かう。

 乗り換えは1回だけど2時間近くかかる。その間、何をしていようかと彩香は悩んだ。

 会いに行って言いたいことを言うつもりだけど……大樹は会ってくれる? 話してくれる? LINEだけど別れようって告げたのは事実だ。

 結局、2時間丸々ネガティブな考えだけで占拠されてしまった。

 あぁ、もうこんな気持ちで久々に大樹に会いたくない。

 そう思いながらも足は大樹の実家へと続く。

 うんうん唸りながらも足を止めないでいると、とうとう大樹の家についてしまった。

 ここまで来たらもうあとは結果がどうであれちゃんと話をするしかない。

 勢いだけでインターホンを彩香は鳴らした。

 ピンポーンと音が一回だけ響いてからすぐに扉があいた。

 公江さんか? と思ったら、そこには大樹が立っていた。

「久しぶり」

 大樹が何か言う前に、彩香はそう一言いう。

 大樹は一つため息を吐くと、けだるそうに頭をかいた。

「来るだろうなとは思ってたけど、今日来るとは思わなかった」

「なんで?」

「最近、仕事が忙しそうだったから」

「大樹の一大事だから仕事、無理して片付けて来た」

「別れようって言ったけど?」

「あんなので別れるわけないじゃない」

 大樹は苦笑を顔に浮かべて玄関から出てきた。

 足元はサンダル、格好はジャージ姿。何ともだらしない格好だ。

「ここだと誰かにに聞かれてるかもしれないから、河原行こう」

「わかった」

 大樹の家から、田川まで歩いてそんなに遠くない。

 どっぷりと日が暮れた地元の道を二人で並んで歩く。

 空気が重かった。

 しばらくすると真っ暗な河原が二人を待っていた。

 河原に着いても大樹は何も言わなかった。

向き合わず、二人して並んで黙っている。

 この間まで沈黙が辛いって思わなかったのに、今は静けさが怖い。

 彩香はずっと聞きたかったことを口にした。

「なんで大樹は別れたいの?」

「LINEで言ったじゃん。彩香が好きな俺じゃなくなったからだよ」

「ねぇ、私が好きな大樹ってなに?」

 彩香のその質問に大樹は口を開かない。

 でも彩香はどんなに時間がかかっても、自分から先に口を開くつもりはなかった。聞きたかったからだ。大樹が大好きな彩香をどう思っているか。

「……競泳やってる俺」

「それだけ? 私が競泳やってる大樹しか好きじゃないって思ってたわけ?」

「……」

「馬鹿じゃないの。そんなわけない。泳いでいる大樹しか好きじゃないって……」

「でも最初に彩香が好きになった俺は泳いでる俺だろ? イルカみたいに、誰よりも早く泳いでる俺なんだろ?」

「好きになった瞬間は多分そのだったと思う。でもそれだけじゃない。私が大樹を好きな理由はそれだけじゃない」

 まだ大樹と目線は合わない。それでも大樹をまっすぐ見て彩香は続ける。

「泳いでいる大樹ももちろん好き。一生懸命競泳に打ち込んでる姿もかっこよくて大好き。大樹の人懐っこい性格も、ネットで知った雑学をすぐクイズ形式で私に言いたくなっちゃう子供っぽいところも好き。私が落ち込んでたり悩んでたりしたら、すぐ気付いてくれるけど私が言うまでそっとしてくれるところも、ゴミ捨て行くだけでスマホ持っていきなって心配してくれるところも、私が録画し忘れた番組を何も言わずに録画してくれるそんな私の好きなものを大事にしてくれる大樹が好き。まだまだいっぱいある。私が大樹を好きな理由は競泳だけじゃない。」

 彩香は視線と身体を大樹に向けた。大樹は依然、視線を河原に向けたままだけど。

「だからそんな理由で別れようなんて言わないで。文字だけのLINEで言うのもやめて。言うんだったら、ちゃんと目を見て言って」

 その一言で大樹はゆっくりと彩香に身体を向けて、視線も彩香に合わせた。

 久しぶりにちゃんと大樹の顔を見た気がする。

「なんて顔してるの?」

 彩香は大樹の頬に右手を当てた。

「すごく泣きそうな顔してる。別れ切り出したの大樹なのに」

「仕方がないだろ。今まですごく怖かったんだからさ」

「何が怖かった?」

 普段ぶっきらぼうな彩香の声が優しい声で聞く。

 大樹は一粒二粒涙をこぼして、左手で目元を覆う。

「俺、競泳続けられなくなるのは嫌だけど、でもそれでも後悔はないんだ。競泳でやりたいこと全部やったから。いざ引退ってなったときも良く頑張ったなって自分で自分を褒められたくらい、本当に悔いは全くないんだ。でも、彩香に嫌われるのが本当怖くって」

「嫌いになるわけないじゃない。馬鹿大樹」

「でも俺、嬉しかったんだ。高校時代、彩香が俺のこと、イルカみたいだってすごきれいな笑顔で言ってくれたの。すげぇ嬉しかったんだ。この子がそう思ってくれるなら、俺は誰よりも早く、誰よりもきれいに泳ごうって思って今まで頑張ってきた、けど、じゃぁ引退ってなったときに、彩香は俺をどう思うだろう? って思ったら途端に怖くなって……」

 ごめん、彩香。本当にごめん。

 大樹の大きな左手でも抑えきれなかった涙が頬にあててる彩香の右手にあたった。

 じんわりと温かいそれは大樹の気持ちがあふれ出したもので……掬ってあげたいと彩香は思った。

「大樹が私から逃げたら」

 彩香は声色を変えず、優しい声のまま言う。

「私が大樹を捕まえに行く。今回みたいに」

 目を丸くする大樹に耐えきれなくなって彩香は言った。それでも目線は外さない。

「大樹、ごめん」

「なんで彩香が謝るの?」

「悩んでることを気づいてあげられなかった。大樹の支えになりたくて彼女になったのに、全然気づいてあげられなかった」

 だから、と区切って彩香は言う。

「だから今度はちゃんと気づく。大樹が弱ってる私にいつも気づいてくれるみたいに、私も弱ってる大樹にちゃんと気づく」

 やっと左手を顔から離して、彩香は大樹の涙でぐしゃぐしゃになった顔を見る。

 大きな目、日に焼けた肌、何でもおいしそうに食べる口。

「……ありがとう。ありがとう、彩香」

 あぁやっと笑顔になってくれた。

 大樹の笑顔を見られて彩香もにっこりと優しく微笑んだ。

「大樹」

「ん?」

「結婚しよう」

 当たり前のように自然に出た言葉に驚いたのは大樹だけでなく彩香もだった。

 え? えぇ?! と真っ赤な顔で驚き慌てている大樹を見て、まぁいっかと彩香は思う。

 いつかプロポーズするつもりだったんだから、前倒しでも関係ない。

「そういうのって、俺が言うんじゃないの?!」

「告白も私からだったから、これはいっそのことプロポーズも私からにしようって結構前から思ってた」

「そういうのは普通逆だって! 一般的に女性は『告白はあたしからだったんだから、プロポーズは彼からがいいな★』とかそう思うんだって!!」

「女声キモチワルイ」

「そういうことじゃなくて! なんで彩香ってたまにそう男っぽいの! 俺だってしたかったよ、プロポーズ!!」

「はぁ?! 何言ってるの? 3日前に別れようってLINE送ってきた人がそれ言う?!」

「もうそれはなし! なしなしなし! 俺は彩香が好きだし、彩香しか結婚する相手考えられないし! お願いだから、なかったことにして!!」

「やだ。すっごく悩んだし、大樹がそんなことしたせいで、芦谷に2千円のランチ奢る羽目になったんだから」

「その高額ランチと俺たちのことがどうあてはまるのか全く理解できない!」

「返事」

「え?」

「返事は? プロポーズしたのに返事なしって結構キツイのね。世の男たちの気持ちがわかったわ」

「その気持ち俺が知りたかった……っ」

「ほら、返事」

「――……っ! 俺と結婚してください!」

「変な返事。うん、まぁ。よし」

「何がよしなのかわからない……」

「とりあえず、早く大樹の家に帰ろう。公江さんに頭下げに行かなくちゃ」

「はぁ?!」

「息子さんを私にください! って一回やってみたかったんだよね。ちょうどいいや、今日スーツ着てるし」

「そう言うのってもっと段取り決めてやるんじゃないの?! 本当彩香ってたまに馬鹿だよね!」

「うるさい。大樹は私の隣でかしこまってて」

「なー彩香ぁ。俺にも世の男たちが通る道を通らせてよ」

「来週にでもうちで世の男たちが通る道ってやつをやれば? 娘さんを俺に下さい! 貴様なんぞに娘はやらん! お義父さん! 貴様にお義父さんと呼ばれる筋合いなぞない! バチーン! ってやつ」

「碓氷家の温和なおじさんじゃぁそれ無理だって!」

 そんなことを言い争いながら彩香と大樹は二人並んで来た道を戻る。

 沈黙で来た道を、二人して騒ぎながら歩いていく。

「あ。公江さん、私のこと殴ってくれるかな?」

「殴らせねぇよ!」

 彩香のアホな一言にポカリと大樹が頭をたたいた。


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