第68話 また来るね、先生。


怒り顔も可愛いな、なんて思えたのは一瞬だけだ。


「随分仲良さそうだね。啓人くん、魅了されちゃったんだ?」


……どうやら千種とのやりとりは、向こうまで聞こえていたらしい。


ひかりは、とびきりの笑顔を貼り付けたまま、その明るい印象とは正反対に暗く低い声で言う。

その背後からは、ゴゴゴと効果音のエフェクトが飛び出てきそうなすらある。


が、誓って無実だ。


「されてないよ。ただ教えてただけだ。仲良くもなにも、まだ会って数分だし。ひかりは、俺がそんな時間で他人と仲良くなれる人間じゃないこと、知ってるだろ」

「……知ってるけど。魅了されるかどうかは仲良くなるのとは別じゃん。というか、普通に仲良く見えるし」

「そうだとしても、されてないんだよ」


できるなら、心の中をぱかりと開けて、そのまま見せてやりたいくらいだ。

こんなに可愛い彼女がいて、しかもできたばかりで、他に目移りなどしようはずもない。


「どうなの?」


ひかりは、今度は鋭い目を千種の方へと向ける。

彼女はといえば、余裕の態度だ。ペンを回しながら、


「まぁ、できてなかったですかね、正直。というか全部、テキトーな冗談なんで。本気にしないでほしいかもなので、その辺よろしくです」


と、あっさりこう答える。


それを受けて、俺がこくこく頷けば、ひかりは最後に俺と千種を一度ずつ比べるように見やってから、


「……わかった」


と一言残して、元の席へと帰っていく。

なんだったんだと思ったら、遠くの方で林がくすくす笑っているから、たぶんあいつが、ひかりを唆したのだろう。


まったく余計なことをしてくれる奴だ。

俺はふぅとため息をつく。そこへ横から、「やばすぎ」との声が漏れ聞こえてきた。


「ね、ね、やば! なに、今の! やば、美人すぎ! あんなのもうモデルか芸能人でしょ。あんな、あからさまにキラキラな人初めて見た。あんな美人、ほんとにいるんだ」

「……まぁ可愛いよなぁ」

「あの人、先生の彼女だよね、さっきの口ぶり」


まぁ、あえて言う必要もないが。あんなことをされたら否定もできない。


「……まぁ釣り合わないとは思ってるよ」


と、直接的には答えず、暗に肯定する。


「え、そう? 別にじゃない?」

「どこがだよ。無理にフォローしなくていいぞ」

「そういうのしませんし。だって先生、顔は普通だけど頭いいじゃん。将来、そこそこいい企業入れそうだし、しかも遊んでなさそう。フツーに優良物件。そう考えたら、わりと釣り合うと思いますけど」


……なんとも高校生らしくない、考え方だった。発言だけ聞けば、婚活女性のものかと勘違いしそうになる。


見た目の少し派手で今どきな印象とは正反対とも言えた。

現実的というべきか、夢がないというべきか。


俺より一つ下だというのに、恋愛感情だけではなく、その先まで見ている。


「なんか変なこと言った?」


たしかに、あまりない考え方ではあるが、別にそれが悪いわけじゃない。

むしろ、あって然るべきだろう。


俺は「いいや」と首を横に振る。


「そろそろ再開するぞ」

「ほーい。じゃあもうちょい、単語の覚え方教えて。なんかコツ掴めそうだし」






そこから約三時間、休憩も挟みながら俺は千種への指導を続けた。


この中高生向けへの学習指導は、塾などとは違い、いつ来ていつ帰ってもいい。


ボランティアであるため、強制力はなく、そのあたりは自由だ。

たぶん親に「行け」と言われてきたのだろう中学生たちが早々に離脱するなか、千種は最後まで粘り強く勉強に取り組んでいた。


「よし、みんな、今日はもうこのあたりにしておこうか。そろそろこの部屋を返さなきゃいけないんだ」


夕方六時少し前、長野会長から終了の号令がかかる。


「んー、疲れたぁ~」


そこで彼女は大きなため息をつくとともに、背筋を逸らして腕を上に大きく伸ばした。

そのせい、スカートの中に入れていたシャツがはみ出て、へそがちらりと覗く。


俺は見なかったふりをしようとするのだけれど、


「あ、見えました?」


彼女はその姿勢のまま俺の方を振り見るから、もはやそれはできない。


「いいから早くしまえよ」

「はいはい。分かってますよ、先生」


千種は軽く歌うような調子でそう言うと、鞄を机の上に置き、勉強道具をその中へとしまう。

一方で逆に取り出したのは、化粧道具だ。


この鞄にはなんでもかんでも詰まっているらしい。

正直、高そうには見えない鞄は、ささくれだっている箇所や剥げている部分もあり、使い古されている感があった。


……働き者だなぁ、この鞄。


なんて俺が思っていると、彼女は卓上鏡をセットして、なにやら目元のまつ毛を確認しはじめる。


「このあと、なにかあるのか?」


その途中、俺が思わずこう尋ねたのは、てっきりこのあとは帰るだけだと思っていたからだ。

ただ、帰るだけなら化粧直しをする必要はない。


「まーねぇ。ちょっと喫茶店でバイト」


返ってきた答えに、なるほどと思った。

自分が高校生の頃は、校則で原則禁止されていたから思いつかなかった。


「さすがに勉強で疲れ切った顔では行けなくないですか。お客さんに失礼ですし」

「プロ意識ってやつ?」

「それは言いすぎだけど、まぁそんなとこ。うち結構厳しくてさぁ」


髪を櫛で丁寧にとき、鏡を覗きこみながら彼女は続ける。


「先生、きてみます? わりとすぐそこだし」

「……いや、遠慮しておく。いきなり行っても迷惑だろ。それに――」


と、俺がちらりと見るのはひかりの方だ。

それで合点がいったようで、千種は少し揶揄うようなロートーンボイスで「あぁね」と首を縦に振る。


「今日会ったばっかのわたしのバイト先に行くなんて言ったら、不機嫌になるかー、そりゃ。いい彼氏じゃん、先生」

「……そうか? これくらい、普通だろ」

「いやいや、それが分からない男って結構いるよ」


千種はそこで鏡を持ち上げると、自分をいろんな角度から見る。

どうやら納得がいったらしく、うんと鏡に向かって頷く。


それから道具をしまい、立ちあがった。


「じゃあ、先生。今日はありがとう」

「……力になれたかどうかは分からないけどな」

「もう十分。この間、もっとレベル高い大学がやってる同じようなイベント行ったんだけどさ、正直微妙だったの。もう全然ダメ。だから今日は期待薄だと思ってたけど、もう大当たりだ。先生に会えてよかった。これ、どれくらいの頻度でやってるんです?」

「月に一、二回だな。たしか」


千種は最後に腰を追って、俺の顔を覗きこむと、すぐ近くだと言うのに手を振る。


「そっか。じゃ、また来る。先生。絶対、国立受かるんだから」


こう残したのち極限まで紐を短くした鞄を背負って、帰っていった。



強い奴だなぁ、とその後ろ姿を見送りつつ思う。

勉強のあとに労働とは、なかなかハードなスケジュールなのに、疲れた顔をしたのはほんの一瞬だけだった。


苦手なタイプだと、ぱっと見の印象だけで判断していたことを一人、反省する。

次に教える機会があったら、もっと力になれたらいい。




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