少年と私、夏の成長

有馬佐々

第1話本文

 七月から九月にかけて、気が付けば、変わっていたという、不確かな季節が今年もやってくる。

 目に映るようなものではなくて、雲の流れに伴って過ぎていってほしいとどこかで願ってしまうくらい、夏というのは暑く、アツい季節だ。


 白い波が吹き荒れながら、大きな唸りを上げる藍色の海は、とても広く巨大な怪物みたいだ。潮の香りは初めてかいだはずなのに、なぜかとても懐かしい。

 肺に潮味のする空気を十分に満たして、大きく深呼吸をする。それを、何度も繰り返し、波の揺れを長い間、目で追った。

 海の誘惑に誘われて、私は海に体を奪われた。海鳥の鳴き声が通り過ぎて、余韻がさらさらと波と風に溶けて消えた。

 

私の意志が芽生えた時、私は自分の居場所がわからなかった。

 私は今、とてつもなく重い、いびつな何かに押し付けられていて、身動きをとることができない。

 波は一層強くなり、眼球に潮の粒が入り込み、痛さのあまり、四回の瞬きと共に目線を下に移した。そして、ぐるりと眼球を一周させて気が付いた。

 岩だ。岩が私を押し付けている。

 右も左も、上も下も巨大なごつごつとした岩が、私の存在の有無を言わせまいと、堂々と佇んでいた。

 これは困った。今まで海に気をとられていて気が付かなかったが、思えば確かに体の四方ががつがつと痛む。我慢ならなくなってきた。どうなってしまうのだろう、このまま死んでしまうのか……。まだ空疎な私が、市に対する恐怖を抱いてしまうのはあまりにも早すぎやしないだろうか。焦燥にかられ、動かすことのできない体が小刻みに震えているのがわかる。

――だれか私を助けておくれ――

 強く、訴えかけてみる。が、声が出なかった。誰か、誰か……喉に力を籠め、声をひりだそうと踏ん張った。この岩の中から私を助け出してくれ……誰か、誰か……

「――……誰か!」

 濃い霧が一瞬にして晴れたようだ。

 生きることを諦めかけていたが、その瞬間から私の体内で希望という血液が循環され始めた。

 嬉しさのあまり、たまらなくなって再び喉に力を込めてみる。

「おーい、おーい」

 精一杯の大声を無我夢中になって放った。意思を声に変換し、存在を世に訴えることが出来る喜びは、私の全身を勢いよく駆け巡っていった。それから長い間、自身が今、窮地に陥っていることさえも忘れてしまう程、私は叫んでいた。

夢中になって叫び続けて何分と経っただろう。

 声を出すコツもつかめてきた時だった。今まで海が見えていた岩の合間に、スッと何かの影が入り込み、私は突然暗闇の中に閉ざされてしまった。


 太陽の光が反射したガラスの破片がキラキラと砂浜に落ちている。海がゆっくりと揺れて、私の足元を度々濡らす。

 私が埋まっていたのはどうやら、浜辺の隅にある岩石の隙間だったよう。

 そして、私を助け出してくれたのは一人の少年であった。

 耳までかからないくらいの日焼けをした赤髪が綺麗になびいていた。二重で切れ長な目の奥のまっすぐな瞳。白のタンクトップを黒の短パンとオーバーに着こなした姿に私は救われたのだ。

 少年が私を引きずり出し、助けようと必死になってくれた時、彼の姿は驚くほど美しく見えた。まだ育っていない未熟な腕と足。しかしながら勇敢であり、清らかで前を向いた視線。一人の命を必死に救いたいと思う意思が少年の瞳に集中しているようだった。そんな少年を見つめながら、そして手を引っ張られ浜辺に放り出されるまで、私は一人呆気にとられていた。


「ありが、とう」 

浜辺の隅で私は深々と頭を下げた。

「あの」

 少年は珍しそうに私を凝視しながら聞いた。「まず服を着ないと……」

 少年は呆れて笑う。

 自分の体に目をやる。わお。浜辺の隅で私は全裸で突っ立っていたとは。

「どうしたら……」

 突然の恥辱心を覚えながら、少年に困り顔を見せる。

 少年は少し悩んだ表情を見せてから言う。

「ちょっと待って、何か探してくるよ」

 数分して少年は戻ってきた。私はその間、浜辺の隅で小さく蹲っていた。

 ところどころ穴は空いているけれども、大きな帆の切れ端を少年は一枚持ってきてくれた。

「とりあえず、これを巻いておけば何とかなるかな」

 少年は片手をぐっと伸ばして、私に布を差し出した。

 何も着ないよりはマシだろう。今は文句の一つも言っていられない。寧ろ感謝するべきだ。

「すまない」

 再び深々と頭を下げて、私は渡された帆の切れ端を羽織り、体に巻き付けた。肌を隠すには十分な余裕があった。

「よし、これで通りに出られるな、とりあえず……そうだな、俺の家へ連れてってやってる」

 少年はそう言って、一人で海を背にして歩き出した。

 私はどうしていいかわからず、暫く一人で歩いていく少年の背中を目で追った。

 意思が芽生え、死に恐怖して、声を発することを覚え、少年と出会った今。私の脳内は完全な混乱状態に陥っていた。

 少年は私の戸惑いを察して後ろを振り向いて言う。

「……来ないのか?」

「あ、あ」

 私は戸惑いながら、急いで少年の後を追う。浜辺にはガラスの破片がちらほらと落ちている。裸足だった私は、それを踏んでしまわないように、慎重に浜辺を踏みしめていく。

 柔らかい砂浜を抜けて、足の裏はコンクリートにベタっとついていて熱かった。そして小さな石ころが気になった。

「家はすぐそこだから、もう少しだけ我慢してよ」

 歩きながら少年は簡単に言う。

 私は軽く頷いた。

 少年の家は本当に浜辺の真横に建っていた。外観はトタン屋根の付いた二階建ての一軒家。少年は私を二階の部屋へ連れていき、ベッドへ座らせた。

「父ちゃんの服を見つけてくるから、少し待ってて」

 そう言って、少年は部屋を出ていった。

 部屋にはベッド、勉強机、テーブルにラジオが置かれていて、隅に釣り道具が佇んでいた。

 私は少年の部屋を物珍しそうに見物しながら五分ほど時間を潰していた。

「サイズは少し大きいと思うけど、布の切れ端よりかはマシだと思うから、これに着替えたらいい」

 私の膝元にズボンとTシャツが置かれた。

「な、どうしてあんな場所にいたの?」

 少年が私に質問をした。

「それが、私にもわからなくて……」

「それは記憶喪失ってやつか?海に流されてきて、全部忘れちゃったのか?」

「きおく、そうしつ、とは」

「おいおい……まさか本当に全部忘れちゃったのか?」

「忘れたわけじゃ……」

 意思が芽生えたばかりですなどと、ここで変なことを言ったら少年を余計困惑させてしまうと思い、これまでの説明をやめた。

 私は「きおくそうしつ」という単語を理解することはできなかった。Tシャツやズボン、ラジオや釣り具などは何の道具かわかるのに、都合尾の良いように記憶喪失という単語だけは理解できなかった。

「そりゃあ、名前も忘れているのか」

 名前……私の名前は……。

「はあ……」

 少年はこりゃまいったと頭を抱えた。

「名前を決めよう」

 少年は悩み、私をこう名付けた。

 うみお

「海岸に全裸で埋まっていたなんて、まるで海に生まれて置き去りにされたみたいじゃないか。海おとこさん」

 うみおという名は悪くない響きだった。

「私は、うみお……」

ぼんやりと口ずさむ。

少年は私に名前を付けると、自身を棗(なつめ)と名乗った。二人は握手を交わした。

「棗は、海で何をしていたの?」

 着替えをしながら私は尋ねる。

「海を見ていただけさ。何時もは少し離れた堤防で釣りをするんだけどね。たまに、海の気持ちを味わってみたくなるのさ」

 棗は釣り道具の整備をしながら答える。

「私も海を見ていた」

「ハハ。離れた場所で同じことをしていたんだな・それにしたって、海を見るにしてもあそこは危険すぎるよ。満ち潮になればあの場所は海にのみ込まれるんだぜ」

「助かったよ」

「うみお、行く当てはないんだろう?」

 棗はそう言って、私に泊まっていればいいと提案をした。

 棗は本当に何でもしてくれた。

 その夜、棗は床に布を敷いてくれて、自分の枕と布団を暑いからと言って貸してくれた。


 次の日、私は棗と二人で街を見に行った。

 白のサンダルを履いて、私は日中の日差しを浴びた。玄関の扉を開けると日光がぎらぎらと輝いていて、急に目が眩んだ。

「あるい……」

「そりゃそうだろう。今は七月の真夏日だ」

 私たちは暫く海岸沿いを歩いて、それから、町の中心部へと入っていった。町の中へ入っていくとだんだんと人が増えていく。商店街や、住宅街やら入り組んだ道が多くなっていった。棗の後を追って、物珍し気にあたりを見渡すことはしなかった。二人は横に並んで自分のペースで歩いた。

「懐かしいかもしれない……」

 私はふと呟く。

「何か思い出したか?」

 一瞬立ち止まり、棗は興味深そうに私に顔を近づける。

 頭の中の何かが引っかかる。けど最後まで思い出せない。

「いや、なんでもなかった」

 私がそう言うと、棗は少しがっかりしたような表情を見せ、また歩き出す。

 この商店街……この神社……この、におい……。ふんわりとしたイメージがまだはっきりしないまま街を歩いていると変にもどかしかった。

「あ」

 棗の歩くペースが少し落ちた。

「どうかした?」

棗はかぶりを振る。

「いいや、なんでもないんだ。だけどうみお、少しだけ別行動してくれないか?」

 棗の視線の先には棗と同い年くらいの少年たちが三人立っていた。少年たちは、商店街の細道で楽しそうに話をしている。棗はきっとあそこに混ざりたいのだろう。けれども、私が居ては都合が悪いから、どうにか私を避けたいのだろう。私は棗に軽蔑されたと思い、少しだけ自分を惨めに思ってしまった。

「わかった」

「うみおも見たいところ回ってきたらいい。三十分後、集合場所はここにしよう」

 私たちは商店街の入口の大きな看板が建った場所で別れた。棗はやはりあの少年たちの方へ向かっていった。

「あんまり遠くに行くなよ」

 棗の背中が私に忠告した


 商店街の中をしばらく歩いていくと少し不思議な細道を見つけた。桃、赤、黄、緑、沢山の色のネオンが煌めいた、薄暗い妖艶な細道だった。私は自然とその細道の中を歩いていた。初めて見る光景に、どこを見ても私の目は奪われた。一人の女性とすれ違うと、潮の香絵はなく、甘い化学物質のにおいがした。

 私は暫くその女性を観察してみた。

 その女性は大人の色気を十分に放っていて、三十後半くらいに見える。こんなに暑いというのに長袖に丈長のスカートを履いていて、女性のほほはなんだか晴れているように赤くなっていた。そこに、二十半ばくらいの若い男性がやってきて、二人はすぐさま変に腕を絡ませあいながら、イルミネーションがちりばめられた洋館の奥へと入っていった。 

 なんだか二人は周りの視線をとても気にしているようだった。

 

 三十分後、無事に私たちは合流して家路をゆっくりと歩いた。

 私たちは話をした。

「綺麗で面白いものを見たよ」

 少し興奮意味に話を振った。

「いいな。俺は楽しいっていうか、疲れたなぁ」

 棗の瞳が青く濁る。

「何をしてきたの?」

 私が聞くと、棗はゆっくりとかぶりを振る。

「思い出したくもないよ、釣りでもして忘れたい」

 棗の家に着くと、棗は「外で待っていて」と私に言って、三分もしないうちに、バケツと釣り竿を持って戻ってきた。

「さあ、いこう」

 私は棗の後をついていった。

「釣りをすると、嫌なことも忘れてしまう。嫌なことは海に投げて魚を得るんだよ。魚たちには申し訳ないけどね」

 堤防に着いてすぐ、棗は釣り竿で風を切らせ、歌うように言った。

「今日の嫌なことはもう投げてしまったよ。都合良いよな、まったく」

 私は何も言わなかった。

「バケツの中の食べなよ。昨日から何位も食べていなかっただろう」

 バケツの中には菓子パンが一袋は言っていた。

「棗は?」

 棗が昨日の夕から今まで何も食べていないことを私は見ていた。

「気にしなくていい」

 少しだけ申し訳ない気持ちがあったが、目の前にある菓子パンに誘惑され一気に貪った。

 しばらくして、バケツの中に魚が一匹投げ入れられた。

「よっしゃ」

 釣り竿はまたすぐにヒュンと風を切る音を立てる。

 釣りをする棗の髪が風でそよいで、その姿はとても気持ちよさそうに見えた。もう一匹連れたようだ。今日の釣りの対価は二匹の魚となり、バケツの中で二匹の魚がピシャピシャ踊っていた。

「今日の晩御飯にしよう」

 そう言って、棗は海に背を向けて家路についた。立ち上がるまでに少しもたついたが私も急いであと追っていく。

「今日は二匹か」

 通りの釣り堀のおじさんが棗に言う。

「いつもありがとう」

 どうやら、棗はここの釣り堀の常連のようだ。だが、釣り堀をするわけではないようだ。二匹の魚はおじさんにから揚げにしてもらい、家路を歩きながら、二人ですぐに食べてしまった。


 家に着いてすぐに、何やら騒々しい物音が聞こえてきた。

 皿が割れる音、何かを叩く音に人の怒鳴り声。私は恐怖を覚えた。二階に行く途中に見えた一階のリビングでは、さっき、ネオン街で見つけた女性と四十程の男性が口論していた。内容はわからない。

 棗はリビングを無視して、そそくさと階段を上っていく。なんだか触れてはいけないような気がして私は棗に何も聞かなかった。


 空が海のような濃い青に染まり、キラキラと星を散りばめる。私たちは並んで仰向けになった。

「美味かった」

 菓子パンと魚の唐揚げを思い出していた。

「ああ、明日も釣れたらいいな」

「うん」

 私はゆっくり目を瞑った。

 静けさの中に、虫の鳴き声が気持ちよく響いた。夜は、日中隠れていた虫たちの宴の時間なのかもしれない。


 朝、黄色い日光が窓をさして、シーツの表面を温める。私がシーツを剥ぎ、大の字になっていると、棗は何やら急いで準備をしだす。

 どうやら中学校の夏休み期間出校日というものに行ってくるそうだ。棗は家を出る前に、私に忠告した。

「今日はここに居ろよな」

「外へ行っちゃだめなの?」

「出るんだったら、別方向に行って」

 棗は何か、隠しているように見えた。

「……わかった」

 私は少し気に食わなかったが仕方なく承諾する。

「外に行っても、戻ってくるんだぞ。じゃ、行ってくるから」

「行ってらっしゃい」

 棗は階段を降りていく足音が聞こえる。その足音が遠ざかっていく旅、なんだかものすごく惜しくて仕方がない。玄関の扉が閉まる音を聞いてから、私は走って階段を降り、サンダルを履いて玄関を出た。

 棗の後ろ姿がまだ大きく見えていた。その後姿を見て一瞬ためらったが、私は棗の後ろをつけてみたくなってしまった。

 私は棗の言うことは聞かずに、棗と同じ道を少し離れた位置から歩いた。

 ぺたぺたとサンダルの音が聞こえないように、振り向いた時、姿を見られないように、私は必要以上に慎重に後をつけていった。

 十分程歩いて、棗はおおさわ中学校という建物に入っていった野江、私もそこへ入ることにした。

 まだ気が付かれていないようだ。

 おおさわ中学校という敷地の中には二階建ての大きな建物と、右奥に丸い庭があった。庭の中は緑が生い茂る樹木が、淵に沿って十本程並んでいて、中央にはベンチが三つ置かれていた。近くに行くと、ミーン、ミーンと、少し五月蠅いけど面白い虫の声がたくさん聞こえてきた。

 私は神秘的な庭をすぐに気に入って、気が付けばベンチに座って、棗を追うことをすっかり忘れてしまっていた。

 ミーン、ミーン

 どんな虫が鳴いているのだろう。ベンチから立ち上がり、鳴き声の主を探っていると、虫が樹木にしがみつきながら、一生懸命泣いているのがわかった。手を伸ばすと、その虫は慌てて逃げて行ってしまった。

 しばらく、庭の中で遊んでいた。花壇に咲いた花を見つめ、遊びに来る様々な虫たちを観察し、ベンチに座り日差しを浴びて、かなりの時間を過ごしていたと思う。私が公園で職ぶちゃむしと戯れている間に、太い鐘の音が二回なった。

 ようやく日差しにうんざりしてきた頃、丁度、三回目の鐘の音が鳴った。私はそれと同時に庭を出て、日差しを避けようと大きな建物へ入った。私はそのままサンダルで迷路みたいな建物の中を歩き回った。

 同じような扉がいくつもあって、扉の向こうには棗くらいの子供たちが三十人程座って、一方向を向いていたり、いなかったりしていた。そこに棗は居なかった。「職員室」と書かれた部屋にこっそり入ってみると、資料や大きな机がいくつも置かれていた。

 廊下を曲がると、「準備室」と書かれた、少し異様な部屋を見つけた。覗いてみると、五人の少年たちが見えた。そのうちの三人が白色の細長い何かを加え、煙を吐きながら何かを楽しそうに見物している。私は彼らが何かのスポーツを観戦しているような目つきの先を探した。強そうな二人が立って、一人の少年を蹴ったり殴ったりしている光景が映った。殴られている少年は蹲って震えていた。しかしけられている少年は五人の少年たちに何一つ抵抗しないでいた。先ほど見た、真面目な少年少女たちの方がよっぽど正しい気がして、私は準備室にいる少年たちの行いを見て、良い気はしなかった。寧ろ、心がむかむかして、これ以上見ていたくなかった。

 更に廊下の突き当りまで歩いていくと、外に続く

扉が半開きになっているのを見つけ、外に出た。

 扉のすぐ傍に網のかかった四角い小屋が見えた。

 小屋の中には小さく蹲った棗の後ろ姿が入っていた。

「棗?」

 私は声をかけた。

 それに気が付いた棗は驚いて振り向く。棗は驚きのあまり声が出ないようだ。

 小屋の扉に目をやると外側から鍵がされてあった。

「開かないの?」

 私は棗に聞く。

「うみおが、どうしてここに?」

 棗は混乱している様子だ。

「待っていて」

 私は急いであたりを見渡し、私の腕の太さ程の木の棒を見つけ、それで小屋の網を何度も突いた。だんだんと網には穴が開いていき、ようやく人一人が何とか通り抜けられそうな大きさまで穴を開けることが出来た。そして私は棗を無理やり引きずり出した。

「初めて会ったときみたいだ」

 私が棗に助けられた時。

「そうだね」

「……ありがとう」

 初めて人に感謝されるのはとても嬉しかった。

「今日はもういいや。一緒に帰ろう」

 棗はそう言って、小屋の裏口の雑木林を抜け、おおさわ中学校の敷地から道路に出た。

 その後は、一旦家に帰って、昨日と同じく釣りをして、釣った魚を釣り堀のおじさんにから揚げにしてもらって帰った。今日は魚が四匹も釣れた。


 棗は今日も、学校だと言っておおさわ中学校へ行くようだ。

「今日はついてこなくて良いからな。大体ああいう感じだから、俺も慣れているし、ちゃんと帰ってくるから、うみお、今日は一人でドッカンいいってくればいいよ」

「でも、また小屋に入れられたら……」

 棗は大きくかぶりを振った。

「心配するな。うみおの作ってくれた穴があるから、きっと平気さ」

「そっか」

 棗が出て行った後、私はしばらく棗の部屋でラジオを聴いて過ごした。

『今日のメッセンジャ―は君だ!さあ、なんでも話しておくれ。相談事なら乗ってやるし、世に訴えたいことなら、黙って聞いてやる。さあ、この番号にかけるぞ。電話機の前でしっかり待機しておけ。ピッピッピッ……』

 MCの陽気な声がノイズ混じりで流れる。

 私は今日のメッセンジャーに耳を傾ける。

『もしもし、繋がったんですね。嬉しいです……こんにちはみなさん。僕はここに、この瞬間に、世界に伝えたかったことを全て残していきたいと思っています。本当はビデオや録音テープで残したほうが確実なんだろうけど、残す程重大な話でもないし、なんにせよ、こっちの方が伝わりやすいでしょうから、少しだけ皆さんのお時間をください。僕にはお付き合いしている人がいました。僕は彼女と結婚寸前まで迎えましたが、彼女は直前に、事故で亡くなってしまいました。僕はそれから、全てが嫌になって仕事も何もかも手が付かなくなっちゃって、本当ダメ人間になっちゃったんです。何回も死のうかと思いました。けれども、プラットホームやビルの屋上に立っても川や海に行っても、そんな勇気なんてなかったんです。そしてまた、絶望します。僕はアルコールで彼女のことも悲しみも、辛いことも全部流してしまう夜を何度も繰り返しました。世界は平等にできているなんて言うけれども、それじゃあ、僕はどこで均衡を保っていたんだろう。彼女を亡くした時の悲しみ、今の晴れない気持ちはいつ、幸せや楽しさに変えられていたのだろう。数えきれない程僕は考えました。だけど、考えれば考える程、僕は苦しんでしまう。でもきっと、悲しみがあるのは幸せを知っているからだと思います……うっ……、楽しかったなあ、彼女との思い出……皆さんも悲しいと思えるうちまだ救いはあります。悲しいとか苦しいとかそういう感情を避けないでほしい。かえって避けてしまうと一番恐ろしい無が訪れてしまうから。僕みたいにね……うつ……うっ、僕は、はっきり言って死とか生きることとかもうどうでも良いんです。今日は朝までウイスキーを飲み続けて、酒におぼれて、タバコを吸って、薬を使って、この最後に見る楽しい夢が僕の今までの対価なんだろうなって思うようにしました。世界は平等にならなくても社会は平等になる日がいつか訪れますように……以上です。僕がこの世界に言い残すことはありません。ありがとうございました』

 プツン、と電話は切れてしまった。受話器を置く音がとてつもなく寂しかった。

 この電話が切れてから、MCは暫く黙った。

『……まずは、メッセージありがとう。彼の言ったこと、私は少し共感できる。平等って言葉は一体いつから消えてしまったんだろうなぁ。しかし、彼の自身に下した選択肢については……うん……何とも言えないなぁ。何だろう、悲しい気分になっちまったよ……。みんな、今日の残りの放送時間は彼について考えてみないか。特別にだ。彼にとっては余計なお世話かもしれないけど、彼の言ったこと、もう一度考えてみよう。さ、今日はおしまいだ。俺は明日もメッセンジャーを呼ぶ。それじゃあ、昼からおやすみ』

 そう言って、MCはポップなBGMを残してラジオから去っていった。

 私は棗を迎えに行くことにした。

 サンダルを履いて玄関を出て、おおさわ中学校へ向かう。少し小走り気味で進んでいると、丁度、棗が帰っている姿が見えた。

「うみお、どうしたんだ?」

「棗は、悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、ちゃんとわかっている?」

 私はたまらなくなってすぐさま問いかける。

「急にどうしたんだよ」

「ラジオが言ってたから」

「……ふうん」

 結局、棗は答えに答えてくれなかった。

 それから私たちは、一旦家に帰り、堤防へ行って、少しだけ釣りをした。魚は四匹釣れて、釣り堀のおじさんにから揚げにしてもらって帰った。


目が覚めると、シーツがびっしょりと汗で濡れていた。

「悪い夢でも見たのか?」

 上半身を起こして、荒い息をする私に、棗は心配そうに尋ねる。

「……もう、戻れないかと思った」

 ほぼ、放心状態に近かった。

「……でも、戻ってきたじゃないか」

「……うん、そうだね」

 棗の声を聞いていると、現実に戻れたことを再度思い知らされて、私は安心した。

「今日は、少し用事があるんだ。直ぐ帰ってくるから、ちょっと待ってて」

「わかった」

「ちゃんとここにいろよな、これは絶対だぞ」

 棗はいつも以上に慎重な様子だった。

「ラジオを聴いて待っているよ」

 そうは言ったものの、私はこっそりと、棗の後をつけた。

 棗は商店街へと向かって歩いていった。少しすると、この前居た、三人の少年たちがスーパーの前で楽しそうに話をしているのを見つけた。棗は一直線にその少年たちの方へ一直線に向かっていった。

 何を話しているのだろう。棗は少し楽しそうだ。

 三人と棗はスーパーの中へ入っていく。

 私もこっそりとスーパーの中に入って、棗の様子を観察した。

 私はそこで、ある光景を目にしてしまった。

 棗が盗みをした。

 菓子パンをズボンの横に入れていた。私は声を掛けに行こうとしたけど、声が出なくなってしまった。それからも棗は周りの視線を必要以上に伺いながら、再びすーパーの品物に手を出そうとしていた。

 三人の少年たちもスーパーの四方に散らばって、慣れた手つきで服の中に次々と商品を詰め込んでいるではないか。

 この行いは優しい人がするべき行いなのだろうか。棗にはいちいち後ろめたさが付いて回っているように見えた。

 私は棗に失望してしまった。

 棗がそのまま、スーパーの出口へ向かう時、呆気に取られて、隠れることすら忘れていた私は、入口の前で棒立ちになってしまっていた。

「う、うみお……!」

 棗と目が合ってしまった。

 棗の足が一瞬ためらって、慎重だった足取りが逃げ腰に変わった瞬間、今まで見向きもしていなかったスーパーの店員が棗の不審な行動に気が付いた。

「きみ」

 店員の怒る大きな声に気が付いた三人の少年たちは棗を無視して、慌てながら別の入口から逃げていった。

「うみお、行くぞ!」

 棗が私の腕を引っ張って出口を抜けようとする。

「待ちなさい!」

 棗はそのまま逃げようとしたが、店員に捕まってしまった。

 不思議なことが起きた。

 私は棗と一緒に逃げ腰になっていたにもかかわらず、店員に一切の見向きもされなかった。

「ちょっと来て」

 そう言われ、連れていかれたのは棗だけだった。

 スーパーの外で棗を待ちながら、商店街の流れを見ていた。商店街はたくさんの人で溢れていた。客呼びをする店員、買い物をする主婦、学生服ではしゃぐ女の子たち。そして、薄暗い雰囲気の中に続く、妖艶な細い通り道……。

 ――知りたい、混ざりたい。


 棗は一時間ほどして戻ってきた。

 それから少し場所を変えて、商店街を抜けた横断歩道橋の上に二人は並んだ。

「ちゃんと謝ってきた?」

 私は静かに尋ねた。

 棗は不服そうな表情を見せながら頷く。

「……なあ、他の人には見えていないのか?」

 少し黙って、私は答える。

「そうみたい」

「俺にしかうみおは見えていないのか?」

「どうやら……うん」

「うみおは、人間なのか?」

「……わからない」

 なんだか、物凄く悲しい空気だった。

「そんな質問より、逆に、棗に質問したいことがあるんだよ」

 棗は私の方を向く。

「どうして、あんなことした?」

 棗は景色の真ん中に聳え立つ一つのビルの屋上に視線を移した。そして、ようやく口を開いた。

「自分でもわからないけど、たまに世界に抵抗したくなる時があるんだ。何をされても、何を見ても、俺は平気でいないとって、毎日思っていたら、たまに、ちょっとしたことでも、万引きでも何でもいいから、反社会的なことをしたくなってしまうんだ」

 棗はそのまま続けて言った。

「反社会的って、ほんの些細なことでもそうなんだ。横断歩道が黄色に赤になる瞬間、急いでいたらわたってしまうし、花びらがたくさん落ちていたら、無意識にわざと踏んで歩いたりしちゃう。自転車で急いでいる時、斜め右の信号機をこっそり見てさ、丁度、黄色で点滅し始めたら、きっとわざと速度を落として、あわよくば一時停止しないで、青になる前の横断歩道をこのまま過ぎれないかなって思うよ。自分の意志では止まるのが正解なんだってわかっているけど、本当の意志にはどこかで抗っているつもりで掠りもしていないんだ。赤でも歩道を過ぎちゃったとか、花を踏んだ後とかには無性に罪悪感が残る。盗みをした時も同じ罪悪感は残るけど、そうして、罪悪感を覚えていかないと大人になれないのかなって思うんだ」

 棗はビルの屋上の虚空を眺めたまま言い切った。

「棗は、大人になりたいの?」

「どうなんだろう……。俺、自分が大人になっていくのが怖いと思っているのかな」

 棗は自分が無条件に大人になってしまうことを恐れている。大人になると、辛いこと、苦しいことを、もっとたくさん知っていかないといけない。それらを知れば、どんどん崩れてしまうかもしれないと恐れてしまう。棗はきっとそれを拒絶しいる。しかし、それには抗えないことにも苦悩している。

「うみおにはわからないだろう」

「少しだけわかるかもしれないんだ」

 それは確かに本当だった。

 私も同じようなもどかしい感情に悩んだことがあるような気がして、棗の言い分を聞きながら何度も頷いた。

「棗はそうやっていつも理屈をつけて自分を誤魔化してきた。けれども、そろそろ抗えないことを受け入れていかないといけないと思うんだ。大人になることを拒絶しても何も進めないよ。自分が一番わかっているだろう?棗だって大人になって色々知っていきたいとどこかで思っているはずだよ。それだから、あんなこと急いでしちゃったんじゃないのかな」

 大人になるにヒア、女性と男性の複雑な関係性について興味を持つようになること。自分自身にかせられた悲しみや苦しみから目を背けないこと、そして前を向き、立ち上がる勇気が必要なんだ、とこの短い一週間でたくさんの知識を得てきた。

「誰だって思う時はある」

 私は少し言い過ぎたと思い、一言付け足した。

 ふと、ビルの屋上に細長い影があることに気が付いた。私は目を据えて、その細長い影を異っと見つめた。

 棗もじっとその影を見つめている。

 しばらくして、そこにあるものだと思っていた細長い影が微妙に動き出す。

 その瞬間、私は悟った。

「棗、そっちばっかり見てないで、こっち見てよ」

 私は言う。

 私と棗は向き合い、真剣に見つめ合った。

 今だけは棗の視線を私が奪っておかないといけない。

 しかし、私は第三の目で、その影が重力に引き込まれるようにして落ちていく情景を見てしまう。私は言葉を失った。棗が振り返るころにはビルの屋上の影は消えていた。

 棗も悟ったようだ。

 そのまま、三十秒ほど、ビルの屋上の虚空を眺めていた。

「大人になればたくさんの悲しみを知って、最悪な結末を迎えてしまうかもしれない。俺はそんな道から抜け出したくても抜け出せない」

 涙ぐんでつばを飲み込む棗の姿が新鮮だ。

私には謎の自信があった。

「勇気が必要。棗にとってそれは少し、いや、相当怖いことかもしれないけど、私が居るから大丈夫さ。学校生活を楽しく過ごしたいなら、受けた苦痛を中途半端に忘れてしまわないでしっかり、悔しむんだ。今、自分の家庭が危機に迫っていることをしっているなら、それから目を背けてはいけないよ。自分なら何かできるって少しでも思えて、行動に移せたら、そんな心配しなくても、しっかり大人になっていくさ」

 棗が私に身を委ね、たくさんの涙を流した。

 棗の足は家路につき始めた。

徐々に速度は速まっていき、気が付けば息を切らしながら走っている。

 ようやく前を向こうとしている。棗は家に着くなり、真っ先にリビングへ向かい、避けていた家族に近寄った。


 棗の中の私は、今までの棗とこれからの棗を支えていくのだ。


 夕暮れの横断歩道協に不自然にTシャツとズボンが落ちていた。

「ありがとう、うみお」

 棗がいつか、どこかで言うだろう。

 棗の部屋の窓に置かれたエーデルワイスが少しだけ、生き生きと伸びをしたように見えた。

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