第6話 新緑のなびく実家へ
玄関を開けると、あのワンピースの女が立っていた。けれども印象は全く別物だった。身体の線が露わで、腰ギリギリまでスリットの入った黒のワンピース。
「改心したみたいねぇ。じゃ、ドラコちゃんは持って帰るから」
女は小馬鹿にしたように話した。耳には逆五芒星のピアスが輝いている。
「は!? お前……」
「悪魔でーす♡」
「は!? いや、ドラコちゃんは俺が育てたんだし!」
「元は私のものよ?」
「お前……何のために?」
女神だと思っていた。人を善行へ導くのが仕事なのだと。悪魔が人を改心させる……?
「ふふ……私はちょっとグルメでねぇ。改心した魂が『また』堕ちた瞬間がサイコーだと思うわけ。だから早く堕ちてね♡」
「ぐっ……」
信志は言葉を飲み込んだ。ここで罵倒したら魂を持っていかれる。
女は無遠慮に部屋に上がり、ドラコちゃんの鉢を抱えた。
「奪い返さないのぉ? ふふ、できないもんねぇ? それ、盗みだもん。悪いコトをした瞬間、私においしくいただかれちゃうもんね?」
「……ドラコちゃんを、大切にしてくれ、どうか」
「悪魔は約束なんてしませーん。じゃね」
女はピンヒールを履くと、煙になって消えた。
ドラコちゃんのいない部屋は、どんなに物があふれていても空っぽだった。外は暗闇で、明かりのない部屋で膝を抱えた。
奪われて分かった。ダラけて生きることは、人から奪って生きることなんだ。バイト先のオーナーに手間をかけて。母に心配をかけて。田中先生を退職に追い込んで。
中身の残った缶を捨てれば拾った人が困る。親子に譲られた席を奪ったら、周囲が嫌な思いをする。
ダラけた方が楽なんだ。でも、俺は……!
泣きたくなかった。泣いたら、歌ってくれるドラコちゃんがもういないと痛感してしまう。
膝に頭を押し付けて、この身体をひどく重く感じた。薄い皮膚に囲まれて精密に動いているこの身体が。
金がない。この身体を生かし続ける金が。
鈍行の車窓から見える景色が住宅街から畑へ、そして山々へと変わる。透明な空気の中に新緑が揺れる。田んぼの稲は少し丈が伸びて、やわらかい風に揺れている。
地元に帰ってきた。
髪を切って黒染めし、鈍行とバスで実家に帰る。それだけでも結構な出費だ。でも「堕ちる」わけにはいかないから、親と話がしたい。
玄関を開けた義父に深々と頭を下げた。出てきた母を見て、泣きながら膝をついた。
「俺、勘違いしてました。信じてくれなかったと思ってました。本当は2年も、こんな俺を信じてくれてたのに」
母も義父もため息をつきながら、それでも信志の手を取って立たせ、抱きしめた。
秋学期からは大学に通うこと。一つのバイトをしっかり続けること。健康に過ごすこと。
約束の一つひとつに親の愛を感じた。
一晩泊まってアパート近くまで歩いてきたら、また小学生の集団がいた。いじめは続いている。
信志はため息をついて、小学生たちを追い越そうと車道に出た。車通りのそれほど多くない道だから構わないだろう。
そのとき、小学生の間で何かの奪い合いが始まった。そしていじめられっ子が突き飛ばされて車道へ……。
信志は迷わず駆け出した。
伸ばした手は、車道に投げ出された小さな身体に届かなかった。
急ブレーキの音が鼓膜をつんざいて、ぱっと無音になった。
無音で、世界が一面にまぶしい。身体がふわりと軽い。
「天国……?」
「残念。ここは私の領域」
黒ワンピースの女が現れた。
「死んだんだ……」
「まだ死んでない。あの男の子も死んでない。でも二人合わせて一人生き残る分の生命力しか残ってない」
「あの子を生かしてくれ」
信志は躊躇わず言った。女は虚を突かれた顔をした。
「お前の望み通りにはならない。俺が自分を選んだところで『堕ちた』魂を喰うんだろ。だったら」
「死ぬのよ。おしまいなのよ?」
「あの子を生かしてくれ」
「この取引が丸ごとウソかもよ?」
「信じる。……信じる!!」
チッと舌打ちして、悪魔は指を鳴らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます