第3話 もう、これしか

「専門家に見せよう。新種だったら引き取ってくれるはず」


 蒼白なまま信志はプランBを提案した。


「どうッスかね〜」


 蝉谷は、信志の妄想に付き合うのに疲れている。信志だって自分が妄言を吐いていることは分かっている。だが、確かにぐずる声が聞こえたのだ……。


 トークアプリで高校の同級生を検索する。有名大学の農学部に入学した唐沢。今もうまくやっているんだろうか。


 うまくいってないといい、なんて思ってしまって、信志は胸の奥をギュッと掴まれたような苦しさを感じた。自分と同じように転落していればいい。転がり落ちる人間が多いほど安心できる。


 ——傷を舐め合っていますね。


 女の声が耳の奥でわんわん響く。信志はその声から逃げるように、思い切って大根の写真を送信した。




『いや〜…普通の大根だね』


 唐沢の返信は信志の期待を裏切った。アテにしていた分、信志の失望は大きい。


『せっかく連絡もらったし、今度飲みに行こうよ』


 こんなメッセージが届いて、信志は目を丸くした。誘われるなんて思っていなかった。嫌われて、バカにされていると思っていたのだ。


 人間関係って、思い込みで空回っているのかも。離れても、また会いに行けばいいんだ。

 死の恐怖に支配された一日の終わりの、あたたかな交流。そのぬくもりは、怯えてこわばった心を少しだけほどいた。狭まった視野が開いていく。


「俺、こいつを立派な大根に育てるわ」


 蝉谷に宣言する。


「マジすか!? 先輩が改心するんスか!?」

「ああ。おでんに入れて煮込んでやる」

「……先輩。オレ家に戻るんで」


 蝉谷は疲れた顔で荷物をまとめ始めた。信志の妄想に付き合いきれないという口調だった。


 信じてはもらえなかった。


 ——人を信じ、人に信じられる男になりなさい。


 信志が自身の名前の由来を訊ねたとき、父親はそう諭した。

 そして信志が中学生のとき愛人と逃げた。「信じてたのに!」という母の慟哭を忘れられない。


 信じてもらうのは贅沢だ。俺は信じてもらえないことばっかりで。……クソ親父が。




 蝉谷が出ていった部屋で、信志はそっと大根の葉を撫でてみた。そして大根に元気がないと気づいた。

 信志はすぐさま商店街の百均に走り、ジョウロを手に入れた。


 たっぷりと水をやるのがいいらしい。水音を聞きながら、信志の心は安らいでいった。心なしか、大根の黒が薄くなった気がする。水をやったからだろうか。

 意外とチョロいんじゃん? さっさと善行を積んで大根に育てよう。そうしたらまたすねかじりライフに戻れる。


 俺の人生、もうそれしかないし。大した学歴でもない上に2留して、3年目の今年だって一つも授業を取っていない。俺はこういう人間なんだよ。

 今朝の夢で見た希望の光は幻想だった。俺という人間には最初から、そんな能力なんて備わってなかった。

 汚いワンルームに寝転がって、親に養われて、ときどきバイトしてはバックれて、俺にはもうこれしかないんだよ。


 ふうーっと長いため息をついて「もうこれしかない」と呟いてみた。蝉谷がいなくなった部屋は乱雑なのにがらんとして、いやに声が大きく聞こえた。


「これしか……」


 目頭がツンとする。信志は少しの間うつむいて、小さく肩を震わせた。




 まずコンビニの募金箱に1円を入れた。少ない仕送りの貴重な1円だ。

 食生活を整えるのも善行だろうと、お茶漬けと味噌汁の素を買った。

 路上ライブを見かけて、迷ったが100円をケースに投げ込んだ。


 実は俺っていい奴なんじゃないか? 信志は浮かれて家に帰り、いそいそと窓際の鉢を見に行った。

 はっきり分かるほどに黒が濃くなっていた。信志は衝撃で膝をついた。

 今日やったこと、全部意味なかったのかよ。「改心」ってなんだよ。クズだから分かんねえよ。


 俺はどうせクズだし、変わるなんて無理だ。変わりたくない。このまま閉じこもって将来から逃げていたい。

 それで死ぬなら……もうそれでいいんじゃないか?

 信志の目から涙がこぼれた。


 誰も俺を信じない。両親の厄介者で、将来の希望はゼロで、親が死んだら……兄に養われるのか?

 信志はヒュッと息をのみ、顔を覆って泣いた。泣いているうちは何も考えなくてよかった。顔を覆えば現実を見ずに済んだ。


 変わりたくない。

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