古の彩菓、紡がれる記憶(四)

 誠一はうきうきと楽しそうに本棚の本に手を伸ばした。大きな図鑑から小さな小説本など様々な本が並んでいるが、中には薄い帳面もある。

 他には箱もいくつかあり、きっちりした作りの木箱から何かのびらを器の形に折った手製の入れ物も多い。


「調理は全てこの帳面にまとまっています。他にも黒田彩菓茶房に関する物は大体この棚に入っているんです。でも帳面はもう全部覚えてるんですよね」

「全部ですか⁉ 相当な冊数ありますけど、これを全部ですか? まさか材料も?」

「ええ。でも半分は絵で埋まってるので文字はそう多くありません」


 だが薫子の身長と同じ程度の高さがある本棚の半分が帳面で埋まっている。半分が絵だったとしても読んで覚えられる量ではない。少なくとも薫子には無理だ。


「マスターって記憶力と洞察力が桁違いですよね。本当に凄い特技だわ」

「特技と思ったことは無いですが、お客様の役に立つので助かってますよ。僕が覚えてない本は図鑑とか、祖母が趣味にしていたことの本でしょうか」


 誠一は本の背表紙をつつっと指で辿った。

 図鑑は動物から植物、自然という大きな括りまで様々だった。

 その他の本は趣味というのかどうかは分からないが、建築に関することだったり勉学に関するものだったりと多種多様だ。薫子には無縁の分野ばかりだ。


「お祖母様は勉強熱心な方だったんですね。お歳の頃から考えれば、お裁縫とか家事とか実用的なものが普通ですよね」

「そうですね。でも店の帳簿付けも自分でやってましたし、この時代の女性にしては学のある人だったんだと思います」


 女性は男性に比べて学ぶ機会も場も少ない。それは今でもそうだし、誠一の祖母ともなれば生まれは明治の初期頃だろう。学べたとしても分野は限られた時代だ。


「女性も社会進出を許されるべきだといつも言っていました。欲しい物を聞いたら参政権と言われたのをよく覚えています。毎年必ずそれを言っていました」

「それは凄いですね。それなら今も御存命だったらさぞお喜びになったでしょう」


 五年ほど前に女性も参政権が認められた。そうは言ってもごく一部だが、常にそれを求めていた女性ならきっと時代の進歩に歓喜したに違いない。


(でも一般家庭の女性が思うことではない気がする。娘さんが九条家に見初められるくらいだし、黒田家も結構良い家柄なんじゃないかしら。この本だって高級そう)


 図鑑や書物はどれもきちんとした装丁がされている。薫子は日本の歴史や文化を熟知しているわけではないが、それでも厚みがあり艶やかな紙はそうそう見ない。

 薫子は背表紙を右から左へじいっと見ていくが『ああ、あれか』と内容が察せられる本は無い。分かるのは生け花の本が多いことくらいだ。


「お菓子に関係の無い本ばっかりですね。茶道は繋がるかもしれないですけど」

「料理の教本もですね。印が付いているところは参考にしていたのかもしれません」

「じゃあ本は全部持って行きましょうか。じっくり読まないと分からなそうだわ」

「そうですね。あとは寅助さんにも聞いてみようと思います。祖母と交流があった人は味を覚えてるかもしれません」

「ああ、そうですね。じゃあ空きのある箱に詰めましょう。店まで持てるかな」

「台車があります。箱に入ってるのはそのまま乗せちゃいましょう」

「あ、着替えも持って出て下さいよ。お店には部屋着も何もないでしょう?」


 薫子は本を空き箱に詰めながら何気なく言ったが、誠一はぴたりと手を止めて驚いたように薫子を見た。


「あ、着替えあります? そういえば鍵のかかってる部屋ありましたよね」

「……いいえ。必要な物は全て持って出てしまいましょう。ここに残す必要は無い」


 誠一は安心したように息を吐き、棚から大きな麻の袋を引っ張りだした。

 ぽいぽいと着物と服を詰め込んでいくがその数は少ない。最低限の着物しか持って来られなかった薫子と同じかそれ以下だ。

 いつも客を幸せにしている誠一が、この殺風景な場所から抜け出せる手伝いが出来たことは薫子もとても嬉しかった。

 本と帳面を台車に積んで、薫子は足取りの軽い誠一と共に黒田彩菓茶房へ戻った。

 すると扉の前には寅助が待ち構えていた。


「お。帰ってきやがったな。どこ行ってたんだお前ら」

「マスターのお引越しですよ。今日からお店で生活することになったんです」

「へえ⁉ なんだなんだ。お前らついにそうなったのか!」

「そうって何ですか? 私は前からここにお部屋借りてますよ」

「だからそりゃあお前、男女が一つ屋根の下で暮らすってのはそういうことだろ」


 寅助はにやにやと笑いながら、腕組みをしてうんうんと大きく頷いている。

 薫子は父と二人、ひとつ屋根の下で暮らしていた。華族だから当然だ。

 だが誠一は父でも兄もない。血の繋がらない異性で、一緒に生活をするならそれは家族になったようなものだ。

 血縁ではない男女が家族になるというのなら、それはつまり結婚だ。


「そうだ! 忘れてた! マスター! 私さっきの倉庫で暮らしますよ。というか部屋くらい探します。お世話になりっぱなしで申し訳ないですし」

「僕は一緒で構いませんよ。薫子さんの使ってる部屋も風呂場も鍵がかかりますし」

「え、いや、そういうことでもないような気がするんですが」

「そうそう。寅助さんに聞きたいことがあるんだ。先代のお菓子は覚えてるかい?」

「食ったもんは全部覚えてらあ。俺は婆さんのあんころ餅が一番の好物だった」

「和菓子かあ。その可能性もあるんだったね」

「え、ちょ、ちょっと待って」


 誠一はけろりと言って、そのまま寅助と話し始めてしまった。

 カウンターに入るとお土産用のワッフルを一つ開封し、寅助の大好きな甘い生クリームを作り始めてしまう。

 すっかり話題はお菓子に移っていて、一つ屋根の下問題は過ぎ去っている。

 これは議論が必要ではと思ったが、笑っているところに水を差したくはない。

 少なくとも、どちらかがあの倉庫を使うという話になり、せっかく開放されたのにほじくり返すことは絶対に嫌だった。


(まあいっか。お父さんが乗り込んでくるわけでもないし。おいおい考えよう)


 薫子は深く考えるのを止め、誠一の隣で寅助へ出す珈琲の準備をすることにした。

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