パロディ・「いじめの倫理」(仲畑 癒)
夢美瑠瑠
第一章 いじめは親切
よく、「いじめは良くない 」、「絶対悪」、「ただの犯罪」、「集団虐待と呼ぶべきだ」、などと、建前だけの綺麗事を言う人が多いが、私に言わせれば、こういう甘えの構造?というのか、ちっとも世の中や人間の本質や本性?が、分かっていない腑抜けた
ちょっといじめに遭ったといって、ひきこもりになってしまうような、腑抜けの、社会の落伍者になってしまう、お荷物のような、軟弱な若者が増えては、国の発展も覚束ない。
わたしは、いじめ肯定派、で、いじめは親切だと思う。
人間社会や、人間という生き物の本性として、いじめが完全になくなることはあり得ない。
現今の社会情勢では、いじめ撲滅をいくら唱えても「画餅」というもので、それよりも個々の人間は、社会に適応しなくてはならず、適応力を身に着けるのが先決で、それが生き物としてのあるべき正しい態度だと思うのだ。
確かに科学は進歩して、便利になりました。私の幼いころにはまだ山で柴を拾ってきて、風呂の薪にしていたのです。
高々半世紀で、かつてのスパコンに匹敵するハイスペックなパソコンが家庭に普通に置けるようになった。
伝染病の世の中でもリモートワークで凌げたので、社会の機能が麻痺したりもせず、日本の場合には医療崩壊とか、カタストロフィまで行かなかった。
真面目で勤勉な国民性、進取の気性、技術力、教育レベル、適応力、どれも世界中でも指折りの優秀さであって、私でも誰でも祖国を誇りたい、肯定したいという気持ちがあって当然で、自然であります。
ただ、日本のいただけない点は、寧ろ「優しすぎる」ところではないか?
「優しい」ことはもちろんいい点だが、「甘やかす」にもつながりうる。sweet でなく、spoil になってしまうと、逆に人間はダメになる。
百獣の王のライオンも、我が子を千尋の谷に突き落とす。這い上がった子供だけを育てる、それでこそ、百獣の王の後継ぎとして適格なライオンになれるのであります。
宮沢賢治の「猫の事務所」では、ラストに獅子が現れて、「こらあ、おまえたち、そんないじめとかやっていては、歴史も地理もあったものではない!」と怒って、それがオチなのですが、宮沢賢治は「ぼくは、獅子に半分だけ賛成です」と言って、是非の判断を保留しています。
つまり、「よだかの星」や「ビジタリアン大祭」の作者は、もとより単純な弱肉強食を肯定しているわけではなく、いじめはそれがつきものの社会においては、単純に批判とか弾圧とかをされるべきものではないかもしれない…
無邪気な童話に思える「猫の事務所」で作者が一番言いたかった骨子はそこかもしれない…
多くを語らずとも、阿吽の呼吸、そこがまた日本社会における美風でもあります。
いじめは、スパルタの顰に倣うところの社会教育なのだ、そう私は思うのであります。
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