第25話 エピソード2 シウマイ弁当と卵焼き(1)
「楽になる方法はないかい?」
酸素チューブに繋がれた白髪の80絡みの男は、ベッドに横になったまま味気のない白い天井を見上げながら言った。
少年は、パソコンを打つ手を止めて顔を上げる。
柔らかそうな光沢のある黒髪に三白眼、少し尖った顎に白い肌、細い身体、市内でも有名な進学校のブレザーの制服を着ており、膝には小さなノートパソコンが乗っていた。
どこからどう見ても16、7の高校生だがその表情はどこか大人びており、達観した様子すら伺えた。
「楽になる方法?」
少年は、眉を顰める。
白髪の男は、力なく少年の方を見る。
その目はかつてとても大きく、色んな物を見て、取り込み、男に生きる夢や希望を見せていたのだろうが、今や光が失せ、固い目脂の膜が張っていた。
後で看護師を呼んで取ってもらおう、少年は口に出さずにそう思った。
「何で僕にそんなことを聞くんですか?」
少年が尋ねると男は、力なく口元に笑みを浮かべる。
「君なら知ってそうだと思っただけだよ。なんせ俺以外も何人も見送って来たんだろう?看取り人君」
看取り人。
それがこの少年のここでの呼び名だ。
ここはホスピス。
病気に侵された人が穏やかに最後を迎える場所。
そして彼は、その見届け人だ。
「僕は医師ではありません。ただのボランティアです」
「報酬は交通費とシュウマイ弁当だったか?」
男は、喉を鳴らして笑う。
看取り人は頷く。
「ですので貴方を楽にすることなんて出来ません。それだったら医師か看護師に」
「身体のことじゃねえよ」
男は、布団に包まれた胸を枯れ木のような手で叩く。
「もう麻薬やら鎮痛剤やらで身体に痛みなんてねえよ。ちょっと息苦しいのと怠くて起きれないだけだ」
一息で言葉を発したからか男は苦しそうに上を向いて短く息を吐く。
ちょっとなどと表現していたが酸素の供給がなかったらもう息をするのも困難なのだろう。
酸素を供給する機械が男を諌めるように唸り音を上げる。
「身体でないなら何を楽にするのですか?」
看取り人の質問に男は目脂に覆われた目を向けて自分の胸辺りを摩る。
「呼吸?」
「気持ちだよ」
男は、小さく息を吐く。
察しの悪さに呆れた動作なのだろうがそれすらも苦しそうだ。
「この騒つく気持ちを楽にして欲しいんだよ」
看取り人は、目を細める。
「ここに来てな。この味気ない天井を見ていると嫌でも色んなことが浮かんでくるんだよ。まるで映画のスクリーンだ。色んな思い出や形にならないはずの気持ちが映像になって浮かんできやがる」
看取り人は、天井を見上げる。
そこにあるのは、白樺の樹皮のようにふしだれた白い無機質な天井があるだけだ。
映像なんて欠片も浮かんでこない。
「それは・・・貴方に取って嫌なものなんですか?」
看取り人の問いに男は首を横に振る。
「いや、懐かしくていいもんだ」
看取り人は、顔を顰める。
男の言っていることの理解がまるで出来ない、そんな顔だ。
「若いな」
男は、喉を小さく震わせて笑い、天井を見る。
「俺はな。十五の頃から働き詰めだったんだ」
酸素チューブの音と一緒に声が漏れる。
「電気や照明の取り付けや配線の設置をずっとやり続けた。親方に殴られて、漏電で火傷して、ギャンブルで給料を溶かしてよ。ロクな思い出じゃないが今思えば輝いて見えるんだから不思議なもんだ」
目脂で固まった目が薄く細まる。
その目で本当に見えているのだろうか?
「では・・・何が心を騒つかせるのですか?」
男から表情が消える。
じっとただ天井だけを見つめる。
「俺は・・・あいつを1人で逝かせちまった」
その声は小さく、抑揚がないのに、どこか血が滲んでいるように感じた。
「あいつ?」
「俺の女房だよ。もう20年も前の話しだ」
男は、30歳で独立し、小さな会社を興した。
職人としての腕は買われていたので直ぐにお得意様が出来て軌道に乗ることが出来た。
そのタイミングで男は結婚した。
得意先の社長からの紹介。
美人ではないが可愛らしい顔をした女性。
男は一目で惚れてしまったと言う。
その後はとんとん拍子で話が進んで、1年後には結婚し、子どもを男の子ばかり3人も授かったという。
「幸せだった」
妻のため、子どもの為に精一杯働いた。
苦労なんて一つも感じなかった。
しかし、男は知らなかった。
大きな幸せの中には小さな矛盾が魚のように何匹も泳いでいることを。
男は、家族を幸せにしようと精一杯働いた。
それに報いるように仕事もたくさん舞い込んで会社も男自身も潤っていった。
しかし、反比例するように家族との関わりが薄まっていった。
毎日、遅くまで働き、地方や海外に行くことも増え、家に帰らなくなる日々が続いた。
食事も同じ卓で並んで食べることが無くなった。
気がついたら小さかったはずの子ども達が成人していた。
そして妻が病気になっていた。
「俺と同じ病気だ」
男は、乾いた唇を噛み締める。
「気が付いたら手の施しようがなかった。余命数ヶ月。なのに病院はずっと入院はさせておけないと言う。」
その頃から病院は急性期医療、回復期医療に切り替わり、長期の入院から自宅での医療、生活に切り替わっていっている。介護保険の導入が良い例だ。
「しかし、自宅で看るにしても俺は働いているし、子ども達も就職したばかり。とても妻の面倒なんて見れない。だから俺達はホスピスに預けることにした」
妻にそのことを話すとホスピスに入ることに同意してくれた。
『貴方たちに迷惑はかけれないから』
妻は、笑ってそう答えた。
その時の妻の顔色はまだ良くて病気だなんてとても思えなかった。
子ども達も泣きながら納得してくれた。
本当は家で一緒にいたいと言う思いがあったのだろうが、精一杯働く男の背中を見て育った子ども達は仕事に手を抜く、休むと言う発想を持たなかった。
男は、妻に次の休みは一緒にいるからな。大好きなアイスでも食べようと言い残して出張に出た。
それから3日後、妻の逝去の知らせがホスピスから来た。
眠るように亡くなっていたと言う。
余命は数ヶ月あったはずなのに・・・。
旅立つ姿は誰も見てない。
妻は、1人で旅立ったのだ。
看取り人は、パソコンのキーボードの上で拳を握る。
目脂で固まった男の目から涙が流れる。
「3日だ」
吐息と一緒に嗚咽が溢れる。
「たった3日を俺は一緒にいてやることが出来なかったんだ」
3日なんて仕事を調整すれば幾らでも空けることが出来たはずだ。長年の信頼関係を結んだ取引先なら事情を話せば理解してくれたろうし、それが出来ないなら部下に任せたってよかったのだ。
それなのに・・・。
「俺は何もしなかった。大切な妻を1人で死なせてしまったんだ」
男の涙が白いシーツを濡らす。
呼吸が荒く、短くなる。
看取り人は何も言わずに男を見る。
「それなのに俺には君が付いている。俺を1人で死なせないよう看取ってくれようとしている」
「息子さん達からの依頼です」
男の子ども達は皆、海外やここから離れた場所で家族と生活している。何かあったら直ぐに駆けつけるが間に合わないかも知れない。
その為の保険として、父親を1人にしない為に看取り人をお願いしたのだ。
「あいつらも後悔してるのさ。大切な母親を1人で逝かせてしまったことに・・」
男は、枯れ木のような手を持ち上げようとして落とした。
「俺の人生は恐らく幸せだ」
男の息が上がり始める。
短く短く刻まれていく。
「やりたい仕事が出来て、生活に困らないくらいの稼ぎを得て、ほとんど子育てなんかしてないのに慕ってくれる子ども達がいて・・幸せだ。こんな幸せなことなんてないはずなのに・・・俺は・・俺は妻を1人で逝かせてしまった」
男は、もう一度手を持ち上げる。
今度は、真っ直ぐ、光を浴びた若木のように伸びる。
「ごめんよ・・・ごめんよ・・」
切実な慟哭が狭い居室を漂う。
「奥様は・・・幸せだったと思います」
男の声が止まる。
顔がゆっくりと動き、目脂の固まった目が看取り人を見る。
「僕は奥様を知りません。どんな人だったかなんて分かりません。でも、きっと・・・」
看取り人の三白眼に強い光が灯る。
「貴方のような人と一緒に人生を送れたことをきっと喜んでいるはずです」
男の目脂に覆われた目が大きく開く。
枯れ木のような手が看取り人に向かって伸びる。
「あいつは・・・待っていてくれるかな?」
男の言葉に看取り人は頷く。
「ええっきっと。だから安心してください」
男の乾いた唇がゆっくりと釣り上がる。
「ありがとう」
男は、にっこりと笑う。
「ありがとう」
男の目の光が弱まる。
呼吸が小さく小さくなっていく。
看取り人は、何も言わずにじっと男を見続けた。
目から光が消える。
呼吸の音がしなくなる。
しかし、男の顔は笑っているように穏やかだ。
それからしばらくして男の子供たちがやってくる。
泣き声が歌のように居室の中に響き渡る。
看取り人は、パソコンを閉じて鞄にしまい、一礼して居室を去る。
「どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りします」
看取り人は、願うように短く呟いた。
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