最終話

 酒と肴があらかたはけたことを確かめ、梶浦が明るい声を上げた。


「大将、済まんな。楽しく飯を食うにはちぃと話が黒くなっちまった」

「いいって。クリスマスだから浮かれ話をしろってことでもないだろ」

「さっき梶さんが言ってたクリスマスキャロルって小説も、真っ黒けっぽいしなあ」


 浅野のフォローに梶浦がすかさず乗った。


「あらあ、説教くさいってだけじゃない。俺に言わせてもらえば、相当いやあな話さ」

「ほう? どうしてだ?」

「貧乏人にはまるっきり縁のない説教だからだよ」

「それもそうだ」


 ディケンズの筆致は、必ずしもキリスト教的博愛精神を高揚するようにはなっていない。


 スクルージのところに貧者救済の寄付を募りに来た紳士たちは、救済が必要な貧者ではなく裕福な者だ。寄付金集めを贖罪にすり替えるのは、金で徳を買うようなもの。下卑た行為だろう。

 重病の男の子は、神の祝福があろうがなかろうがすぐに亡くなるのだ。いっときの喜びで全ての苦難をちゃらにしろというのは、むしろ残酷じゃないのか?

 何もかも剥ぎ取られて無一物になる死後の姿は、スクルージだけではなく万人に共通だ。死で消滅するのは必ずしも肉体だけではない。魂魄の存在すら誰にも証明できていないのだ。あるのかないのかわからないものの永続など語るに落ちる。スクルージは、醜悪なビジョンに怯えて欺瞞に気づかなかっただけではないか。


 確かに、ディケンズはクリスマスストーリーの背後に当時の社会矛盾をこれでもかとべったり塗り込めている。だが、彼がえぐり出して見せた世相の歪みは今でも全く変わっていない。ディケンズがスクルージの改心を通して描いてみせた理想図は、ずっと絵空事のままだ。

 更に言うなら。ディケンズのぶちかました真っ黒な皮肉は、ぎりぎりで生をかこつている貧者になんの福音ももたらさない。持てる者が益々肥え、持たざる者がますます痩せ細る。その落差を怨嗟とともにあぶり出してはいるが、皮肉が通用しない面の皮の厚い連中には何の効果も影響もないのだ。


 ただし! 梶浦が脳裏で反駁する。


 即物的な富の偏りはいつまで経っても解消しないだろう。事実、いかなる国、主義、思想、信条、コミュニティにおいても存在し続けている。どれほど綺麗事を並べても、落差の高低がいくらか変わるだけで偏りは厳然と在るのだ。だが、金銀財宝を多く抱えている者が必ず幸福か?

 心の豊かさをどう考えるかは人それぞれだし、心に蓄える富は人様の懐に手を突っ込まなくても己の心がけ一つでいくらでも増やすことができる。叔父はその富を無尽蔵に埋蔵していた。実親の富は最初から枯渇していた。自分の富は最初はほとんどなかったが、未来の自分との会話を繰り返す度に少しずつ溜まっていった。

 ディケンズが本当に言いたかったのはそこなんじゃないだろうか。スクルージは改心したわけではなく、富を貯める場所を変えただけなのだ。銭は常に失われる心配をしなければならないし、あの世には持っていけない。だが心の富は最後の最後まで減る心配をしなくてもいい。その考え方に神仏云々は一切関係がない。


 一呼吸置いて、梶浦がぽんと話を逸らした。


「まあ、いいさ。あの小説は、因業な金貸しがちったあましになったっていうオチだ。オチは悪かないよ」

「それもそうか」

「で、俺の変な話はディケンズのと違ってうんとこさ地味なんだよ。俺は金貸しじゃないし、幽霊も出て来ない。改心したわけでもないし、施しもしていない」

「おう」

「ただ過去、現在、未来って部分はがっつり被ってるから、もう一つのクリスマスキャロルってとこかな。誰の何の得にもならんけど、損もしないだろ」

「はははっ」


 浅野が屈託なく笑った。


「いやいや、梶さんらしいよ」

「だよなあ。はっはっはあ」


 大将が、しゃあねえなという風に笑和した。クリスマスは大嫌いなんだが、まあ……こんなイブが一つくらいあってもいいんだろう。そう思い直して。

 串と箸を揃えて置いた梶浦が、背筋をしゃんと伸ばして大将と浅野を見比べる。


「でな」

「うん」

「俺は奇跡ってのは信じないが、この腕時計が連れてきたみたいな出来事はあったんだよ。そいつを奇跡と呼ぶか怪談と呼ぶかは、心がけ次第だと思うんだ」

「ああ」

「だから四年縛りの変なルールがそもそもどこから来たのか、とか。誰が過去と未来の俺を引き合せようとしたのか、とか。そもそも叔父はこの変な時計のことを知ってたのか、とか。そこらへんは深く突っ込まないで、奇跡ってことにしとくさ」


 三人が揃ってふうっと息をついた。


「もう一つ。今日でなんとかけりがついたから、俺がこれから楽しみにしてることがあるんだ」

「ほう? なんだ?」


 腕組みした大将に向かって、梶浦が満面の笑みを浮かべた。


「俺がこの先もずっと独りっていうビジョンは消えた。もうないんだよ」

「あっ!」


 飛び上がった二人を見て、照れた梶浦が頬を染める。


「俺は……俺はまだ諦めてないからな」

「やれやれ。梶さんにはしてやられたよ」

「ちぇ。そう来たかあ」


 同じ独り者同士だと思ってたのに。ぷっとむくれた大将を見て、コートを羽織った梶浦がこれでもかと持ち上げる。


「なあ、大将。俺は親には恵まれてない。親が作ってくれた飯ってのを食ったことがないんだ。だから、大将が作ってくれる旨い飯のありがたみがよくわかるんだよ。俺も陽ちゃんも、大将の飯で生き延びてきたみたいなもんさ」

「おいおいおい」


 腕組みを解いた大将が、慌ててぱたぱた手を振る。


「そらあ、褒めすぎだろ」

「いや、大将の飯は旨い。だからファンが多いんだよ。また明日寄るからな」


◇ ◇ ◇


 奢りだという大将に、それだと来づらくなるから割り勘にしようと勘定を払った酔っ払い二人は、メリクリではなくいつものようにごっそさんと一声残し、よたよたと店を出て行った。

 二人を見送ってから店内に戻った大将が、食器を片付けようとして思わず手を止めた。場違いなものがカウンターの上で輝いている。梶浦の持ってきた腕時計だった。


「こいつ……」


 大将が、梶浦の心中を思い遣る。今年でけりがついたと言っても、曰く因縁付きの腕時計の針が変な風に動けばその時に何が起こるか分からない。梶浦は、どうしても今晩だけは腕時計を見たくなかったのだろう。置き忘れたのではなく、預けられたのだ。

 ぎっちり時計を睨みつけていた大将が、腕時計に向かって容赦無く悪態をぶちかました。


「ったく! 俺はこってこての現実主義者なんだ。あんたを見るつもりも、あんたに振り回されるつもりもねえよ。俺に色気ぇ使わねえで他を当たってくれ!」


 腕時計の上にばさっと布巾を放り投げた大将は、顔を上げるなりどこにいるのかわからない幽霊だか神だか仏だかに向かってがあがあがなり立てた。


「どこの誰だか知らねえが余計なまねしくさって! だからクリスマスは嫌えなんだっ!」


 とは言え、大将はなぜか上機嫌で。そのあとずっとジングルベルを口ずさんでいた。



【 了 】

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