第四話

「俺が変てこな話を始める前に。ちぃと聞いといて欲しい別の話があるんだ」

「はあ? 別の話ぃ?」


 浅野が素っ頓狂な声を上げた。


「そう。そいつは小説。作り話だよ」


 浅野が大将と顔を見合わせる。梶浦が読書をするような柄には見えなかったからだ。実際、店で梶浦が本を読むような素ぶりなど一度も見せたことはない。浅野が恐る恐る確かめる。


「なあ、梶さん。本読むなんて趣味があったのかい?」

「ないなあ」


 どてっ。浅野がずっこける。梶浦が困ったような顔をして見せた。


「俺は学がないから、そもそも文章読むのが苦手なんだよ」

「じゃあ、なんでまた」

「社の若い連中が、たまたまその小説の話をしてるのを小耳に挟んだのさ」

「へえー。なんていう小説だい?」

「イギリスのディケンズっていう作家が書いた、クリスマスキャロルっていう小説なんだ。クリスマスには定番のお話ってことになるな」

「クリスマスキャロルねえ。聞いたことねえなあ」

「俺もだ」


 浅野も大将も本を読まないわけではない。ただ浅野は好みが宮部みゆきとか大岡昇平とかの時代小説で、洋ものは読まない。大将は作り話やまやかしが大嫌いで、読む本が実用書一辺倒。小説は苦手……というより嫌っていた。それ以前に、タイトルに『クリスマス』が入っている時点で論外だが。


「なあ、梶さん。それえ、どんな話なんだい?」


 興味津々で浅野が確かめる。答える前に、梶浦がさっき腕時計を出したコートのポケットから一冊の文庫本を引っ張り出した。えれえけばけばしいブックカバーだなと大将が覗き込むと、ケンタのクリスマスセールちらしを折ったものだった。呆れた大将が容赦なく突っ込む。


「まあ、なんとも油ぎって旨そうな本だな」

「ははは。がわはな。中身は煮ても焼いても食えないね」

「へえー」


 本をぱらぱらとめくった梶浦が脳裏で筋立てを整理し直し、説明を始めた。


「主人公は、スクルージっていう金貸しの引業じじいだ。これがまあ、絵に書いたみたいな嫌なやつでね」

「金貸しなんざ、どいつもこいつもろくなもんじゃねえ! 好人物の金貸しなんざ一人も見たことねえよ」


 大将が吐き捨てる。サラ金や街金は論外だが、銀行だって同じようなもの。態度はでかい、利息は高い、督促は厳しい。貧乏人どもめ、嫌なら借りるなだからな。くそったれ!

 大将の怨嗟に触らず、梶浦が説明を続ける。


「冷血。そう言ってもいいな。カネが第一で、それしかない。しかも儲けたカネを使わない。ただただカネを抱え込んでいるだけの、まさにカネの亡者さ」

「ふうん」

「そんなスクルージだから、余計なカネはびた一文使いたくないんだ。クリスマスに慈善事業の寄付金集めにきた男たちを追い返してる。知ったこっちゃないってね」

「俺も、寄付なんざしたくねえよ!」


 へそを曲げた大将が吠える。まあまあとなだめた浅野が、それでも大将に同意した。


「寄付かあ。こっちがしてもらいたいくらいだからなあ」

「まあな」


 話が逸れないよう、梶浦が説明を急いだ。


「スクルージにとって、客の来ないクリスマスはちっとも儲けにならない忌々しい日なんだよ。さっさと飯ぃ食って寝ちまおうと考えて、事務員の甥っ子に散々クリスマスの悪口を言ってから自宅に帰った」

「ほう」


 因業なやつは嫌いだが、クリスマス嫌いってとこは認めよう。そう思ったのか、大将が眉間の深い皺を少し緩めた。


「で、家に帰ったスクルージのところに、七年前に死んだはずのマーロウっていう協業者が化けて出るんだよ」


 梶浦が両手をだらりと胸の前に垂らす。


「クリスマスだっていうのに幽霊話かい」

「その、デ……なんとかっておっさんも趣味悪いな」


 聞き手の二人が揃ってくさした。


「まあ、カネにしか興味のない男のところに知らない幽霊が出たって、とっとと出てけって塩撒かれるだけだ。マーロウは、スクルージにメッセージを言い渡す伝令みたいなもんでね。大した役回りじゃない。そのあとに本家が来るんだよ」

「おいおい本家かよ。どっかの菓子屋みたいな幽霊だね」


 浅野がまぜっ返したものの、梶浦はにこりともしない。真顔で続きを話した。


「かつての友人として忠告する。これから来る幽霊の導きに従うんだぞってね」

「なんだなんだ、根性治せってかよ」


 権力振りかざすやつなんざ、大嫌いだ! 大将が吠える。だが、梶浦は動じない。


「導きったって、何か見せてくれるってだけさ。その幽霊自体はスクルージに何も出来ん。ただの幽霊だからな」

「ほう? 何ぃ見せてくれるってんだ!」

「自分の過去、現在。そして未来だよ」


 し……ん。二人が押し黙った。コンロの炭が爆ぜる小さな破裂音が店内にじわっと広がる。


「なあ。今俺が言ったのをよーく覚えておいて欲しい。これから俺が話すことに直に関わるんだ」

「お、おう」


 梶浦は二人に変な話をすると宣言している。その変な話が決して愉快じゃないということは、身の上から切り出したことで何とはなしにわかっていたものの、どうやら冗談抜きに変な話になりそうだ。

 大将は慌ててコンロを団扇で仰ぎ、浅野も乾き始めていた口を酒で湿らせた。


 梶浦はそのあと話の筋を語って聞かせたが、口調には熱がこもっていなかった。淡々とスクルージの見たものを挙げていく。

 過去の幽霊は、まだ夢と熱意に溢れていた若い頃のスクルージの姿を見せた。現在の幽霊は、病気で明日をも知れぬ容体の男の子がクリスマスを楽しく過ごしている姿を見せた。そして……何も語らぬ未来の幽霊は、全てを剥ぎ取られて無一物になっている自身のむくろを見せつけた。

 マーロウもきっと同じ運命を辿ったのだろう。死してなお己を蝕む後悔。その後悔をスクルージにさせるまいと案じたのであろう。スクルージは己の薄情と浅慮を悔い、心を改めてカネへの執着を緩めることにする。


 語り終えた梶浦が、眉を吊り上げて手にした文庫本を睨みつける。


「まあ、どうにもこうにも説教臭い話でな。俺は好きじゃないんだよ」

「もっともだ!」


 梶浦がその話を好きだと評したら、大将は発作的に梶浦を店から叩き出していたかもしれない。だが、梶浦が好きじゃないと切って捨てたことで機嫌を直した。

 一度口をつぐんだ梶浦が、文庫本を顔の前に掲げる。


「俺がこの本に興味を持ったのは、内容が気に入ったからじゃない。俺がこれから話すこととものすごく被るからなんだよ。だから若い連中の会話が聞き捨てられなかった。こんな百八十年も前の古臭い小説を、四苦八苦しながら読むはめになったのさ」


 まるで、恐ろしい呪符でもかざすかのように。ケンタのちらしのチキンが交互に二人に突きつけられた。


「もう一度言う。今俺がした話をよーく覚えておいてくれ」

「わかった」

「おう」


 ぬるくなってしまった猪口の酒をかぱっと煽った梶浦が、ふうっと酒臭い息を吐いた。


「まあ、なんだ。俺もスクルージのことなんか言えないよ。あの頃は最悪だった。信じられるものが何もない。かと言ってガキ一人じゃ何も出来ないし、作り出せない。八方塞がりで絶望感しかなかった。カネに執着できたスクルージの方が、まだずーっとましだったかもしれない」

「おいおい」

「流れとしては、スクルージと同じ方向に行きかけてたってことさ。叔父の腕時計を盗んだ時にな」

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