第三話

 少しだけ酒を含んだ梶浦が、ぎゅうっと顔をしかめた。


「旨い酒を飲みながらする話じゃなかったな。済まん」

「いや、酒の勢いがないと出来ん話もあるよ」


 コンロ越しに手を伸ばし、大将がぷしぷしとまだ煙を上げている焼きたての鳥串を梶浦の目の前にぞろっと並べた。


「梶さん。意地汚く串ぃこそぐんじゃねえよ」

「はははっ」


 ぽりぽりと首筋を掻いて。梶浦が続きを話し始める。表情は冴えないままだ。


「今でこそ、こうやって好きに旨い酒を飲み、旨い串を食える。自分で稼いだ銭をどう使おうと、俺の勝手だ」

「そうだな」

「でも、ガキの頃はそうはいかないのさ」

「叔父さん、ケチだったのかい?」


 浅野がひょいと口を挟んだ。梶浦が串の肉を頬張りながら否定する。


「いや、叔父は金銭感覚がかなりアバウトでね。俺が欲しいと言えばそのままくれた」

「へえー、太っ腹だな」

「叔父、はな」

「は?」

「財布の紐を握っていたのは叔母さ」

「あ……」


 浅野と大将が揃って顔をしかめる。


「叔母は普通の人だよ。俺を露骨に敵視することはなかったけど、厄介者の厄介な息子だからすごく警戒してたんだ。特に金銭関係はね」

「なるほどなあ……」

「俺には自由になるカネがほとんだなかった。大嫌いな親父と同一視されたくないから、法に触れるようなワルはしていなかったんだが、先立つものがないと何もできない。どうしても……もらってた小遣いじゃ我慢できなくなったんだよ」


 大将が、梶浦を見下ろしながらごくりと喉を鳴らした。


「……やっちまったのか」

「そう。それもよりによって、クリスマスイブにな」


 まるで懺悔するかのようにがっと両手を顔の前で組んだ梶浦が、膨らんだ拳で顔を隠した。


「叔父さんの息子。俺の従兄いとこの純ちゃんが、クリスマスに実家に帰ってくる。叔父と叔母は車で駅まで息子を迎えに行ったんだよ」

「その隙に……ってことかい」


 大将の詰問に、梶浦が即答える。


「そう。ただ、叔母は俺を信用していない。金目のものをしまっておく引き出しや物入れには全部鍵がかかってる。俺は開けられる引き出しを片っ端から開けて、中を漁るしかなかった」

「まあ、なんとちんけな」


 大将と浅野の呆れ顔を見て、苦笑した梶浦がぱたぱた手を振った。


「中坊のガキだからよ。そんなもんだろさ」

「じゃあ、空振りかい?」

「いや」


 真顔に戻った梶浦は、椅子にかけてあったコートのポケットから古い腕時計を引っ張り出した。それを二人からよく見えるようにと頭上に掲げ、腕バンドをちゃりっと鳴らした。


「梶さん、それ、見せてもらってもいいか」

「構わんよ」


 手についた油を前垂れで拭った大将が、受け取った腕時計をじっくり品定めする。


「ロンジンか! いい時計だが止まってるな。ねじぃ巻いても動かないのか?」

「ああ、壊れてるんだよ。その時も、今もね」

「直せないのかい」

「直せない。一度専門店で見てもらったんだが、ケースもムーブメントも微妙に歪んでるらしくてね。修理は物理的に無理らしい」

「そうかあ。もったいないなあ」


 梶浦が、男たちの手を一周して戻って来た腕時計をもう一度顔の前に掲げた。


「中坊のガキには、動かない時計なんかゴミと同じさ。こんなものしかなかったっていうがっかり感だけ。さっさと引き出しに戻して知らん顔すりゃあ良かったんだ」

「え? わかってて盗んじまったのか?」

「戻そうとした時に、叔父たちが帰ってきちまったんだ。慌てて引き出しを閉め、時計持ったまま自分の部屋に逃げ込んだ。その日の夜は針のむしろの上だったよ」

「だろうなあ……」


 梶浦が両手で腕時計を包み込む。


「確かに壊れた時計さ。修理ができないようなひどい壊れ方ならそもそも値がつかない。だけど、叔父はその時計に強い思い入れがあったんだろう。昔なら、給料が一年分まるまる吹っ飛ぶくらいの高額品だ。平凡なサラリーマンだった叔父にとって、掛け替えのない大事なものだったはず。だから壊れても取ってあったんだと思う」

「なるほどな」


 大将が、時を経ても褪せないシルバーの輝きに目を細めた。梶浦は、厳しい表情で腕時計を凝視し続けている。


「まあ。やらかしてしまった盗みを後悔して、そこから俺がガキモードを抜けた……そんな話なら、わざわざ今夜陽ちゃんと大将に聞いてもらうことはないよ。そんなのはどこにでもある崩れと生き方転換の話だ。珍しくもなんともない」

「うーん、そうかなあ」


 首を傾げた浅野を見て、梶浦が小さく苦笑を漏らした。


「俺のことなんか言えないよ。陽ちゃんも人がいいから」

「いやいや」


 なんだ俺には人がいいと言ってくれないのかと、内心がっかりしながら大将が串をぱたぱたと返していった。


「俺の生い立ちやらグレてバカやったガキの頃の話は、ほんの前振りなんだよ。これからする話にはほとんど関わらない」

「え?」


 狐につままれたような顔で、浅野と大将が同時に顔を上げた。梶浦はコンロの上に立つ薄い煙の向こうに何かを見通そうとしていた。壊れた腕時計をしっかり掲げたままで。


「なんで前振りに俺のガキ時代の話をしたか。この時計を、陽ちゃんと大将にしっかり見て欲しかったからなんだよ。これからする俺の話は嘘や作り話じゃない。証拠がこの時計なんだ。二人には、それを覚えといてもらいたい」

「おっしゃ、任せとけっ!」


 大将がぐいっと力こぶを作ってみせた。力技で覚えるってのもあるのかね、と。浅野がくつくつ笑っている。


「それと。大将には最初に謝ったが、俺の話はクリスマスにもろ絡む。これからの話にもいっぱい出てくる。それを承知してくれ」

「ったく、梶さんの面白そうな話を聞く代償がクリスマスかよ」

「まあ、ぶつぶつ言うなって。クリスマスだからめでてえめでてえはっぴーはっぴーなんて話にはならんだろさ」

「そうなんだよ!」


 突然大声を出した梶浦を見て、二人が息を飲んだ。


「まさにそうなんだ。クリスマス限定の、とんでもない、ありえない、まるっきりわけのわかんない話さ。俺以外の人にとっては、ね」


 普段全く見せない切羽詰まった険しい顔で、梶浦が掲げていた腕時計をゆっくりカウンターの上に置いた。

 一杯飲み屋にそぐわない高級腕時計の鈍い光沢が、カウンターの上に歪んだ光輪を刻む。時計の外観は全く歪んでいないのに、だ。


 梶浦が、ふうっと息をついてから半分目を瞑った。そして……声のトーンをぐんと落とし、低い声で話を切り出した。

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