さらば愛しき姫よ、英雄は旅立つ

竹部 月子

第1話 いとしのアンジェリカ

 パナス王国は、美しい海国です。

 北に背負ったロガラ山脈から、ゆったりと海へ下っていく街並みを、民は笑顔で行き交っています。


「釣れますか?」

 魚釣りをしていた子どもたちが振りかえると、防波堤の上でお姫様が小さく手を振っていました。

「アン様! もちろん大漁だよ。お城に持っていくからね」

「ありがとう」

 金の髪が潮風に遊び、青い瞳が細められると、誰もがぽうっと幸せな気持ちになります。

 アンジェリカは誰からも愛される美しい娘でした。民は心からの親愛を込めて彼女を「アン様」と呼びます。


 アンを愛しているのは、国民だけではありません。王様である父も、三つ年上の兄も、とても姫のことを大切に想っていました。

 

 母親はアンを産んでまもなく亡くなりましたが、王様は後添えをとらず、アンをおんぶしたまま仕事をしました。

 兄は本を読みながら積み木を並べてやり、ダンスの稽古がはじまると何時間でもつきあいました。

 使用人たちも、アンが興味を示したことは、仕事の手をとめて丁寧に教えました。街の大人たちだって、みんなそうです。


 そうしてたっぷりの愛情を受けて育ったアンは、パナス王国を深く愛する優しい女性に育ちました。

 亡き母に代わって女主人としての仕事を受け持ち、領地のすみずみまで足を運んで民の声に耳をかたむけます。

 パナスの人々はもっともっとアンの事が好きになりました。


 そんなアンが年頃になると、困ったことが起きました。結婚の申し込みが殺到したのです。

 この時大陸は、西側のディオモルト王国と東側のオーニア王国がにらみあいを続けている状態でした。

 南端に位置するパナス王国は小国ですが、民の心がまとまっていて良い国です。

 二つの国は、アン姫を嫁にもらって、自分の国をさらに有利にしたいと考えたのでした。


 美男子や、大金持ちが次々にアンに求婚しました。

 しかし、パナス国王はどの縁談にも決して首を縦に振りません。

 次々と断られるうちに、ついに二国の王子まで名乗りをあげました。


 アンに会うために、はるばるパナスまでやってきた二人の王子は、一目で姫を好きになりました。

「どうか私と結婚して、一緒に我が国に来て下さい」

 どちらの王子からも求婚されたアンは、申し訳なさそうに目を伏せます。

「ごめんなさい、私はどうしてもパナスを離れたくないのです」


 アンが故郷を離れがたいだけでなく、父も兄もパナスの民も、姫がいなくなってしまうことが耐えられませんでした。彼女はこの国の太陽のような存在だったのです。


 これを聞いたオーニアの王子は、顔を真っ赤にして怒り、自分の国に帰ってしまいました。

 しかし、ディオモルトの王子は求婚を断られた後も、パナスを去りません。それほどに、アンに強く心を惹かれていました。

 そして同時にアンもまた、この王子を好きになってしまっていたのです。

 アンは深く悩みました。姫が悩む姿を見た家族と国民も、同じくらい悩みました。


 悩んだ末に、王子が決断しました。

「ディオモルトの名を捨てます。この海で生きて、死ぬ覚悟を決めました。僕と結婚してください」

 アンは泣きながら王子にとびつきました。その姿を見た父と家臣たちも、二人を取り囲んで一緒に嬉し泣きしました。

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