11話 我が大道、征くは妄執の涯よ2

 その瞬間。無音の衝撃が、商家や駅の硝子窓を鳴らして過ぎた。

 かたかたと冬の一陣に紛れ、赫く濁る瞬きが視界へと散る。


 周囲の幾人かが薄く雲の立つ空を眇め、気を取り直して歩みを再開。

 廿楽つづらの駅前で出立を待っていた晶たちも、道過ぎる雑踏に紛れて青天を見上げた。


「晶くん」

「陽気の満ちる正午9ツに瘴気が混じるなら、原因は相当だな」

「出処は何処かな」


 瘴気に息衝くケガレは、陽気の区分である日中と相性が非常に悪い

 刹那の不穏も陽光に熔けたか、晶は出処の探知を諦めた。


 思い当たる節を求めて、遠く山稜だけの連翹山へと視線を遣る。


「単純に考えたら、瘴気溜まりの決壊だ。

 ……つい最近まで荒神堕ちだったろうに、随分と平和惚けしている」

「厳しく見てしまう気持ちは判るけど、防人でもないのに急場の即応は無理があるでしょ」

「そっちは仕方が無いさ。

 ――俺が云いたいのは向こうの方」


 晶の肩越しに視線を追い、その向こうに立つ相手の後背を咲は見止めた。


 先刻に襲い掛かった雨月陪臣の一人か。――晶を警戒するあまりか、ひるがえる羽織に揺らぐものは窺えない。

 不穏に動揺する周囲から浮き上がるその滑稽さを、晶は無感動に嘲笑った。


「他の人でも違和感程度は気付いているのに、俺一人で手一杯なんて。

 弛み過ぎだ」

華蓮かれんだって、中央は大体がこんなものだったでしょ。他人は放っといて、私たちはできる事をすれば良いわ」

「ああ。念のために準備はしておくか」

「……晶くん。今から九蓋瀑布くがいばくふを降ろしたとして、完了に何分必要?」


 視線も向けぬまま、咲は最も気になる点を舌に乗せた。


 ――玄麗げんれいの亀甲を象と鍛造された九蓋瀑布くがいばくふは、現世に在って最大最強の神器である。

 破壊は疎か、干渉すら赦さない絶対の矛盾。


 周天そらそのもの。最強であると同時に最大が誇る、圧倒的な質と量。

 降ろせば勝利は確定するが、その反面で心奧に納刀められない欠点を併せ持っていた。


 常に在る周天から引き摺り降ろすだけの時間。その欠点を咲も把握していたが、詳細となると晶だけしか判らない。


「もう降ろし始めているけど、後30分は掛る。

 瘴気溜まりが決壊しただけなら、俺たちが出張るのも筋違いだ、 、」


 晶がそう楽観を口に、足裏へ伝わる揺れに唇を引き締めた。


「……時間はなさそうね」「ちっ」


 ――拙くも陰陽師の端くれとしての本能が、警告を叫ぶ。

 舌打ち一つ。その場で屈んだ晶は、懐から携帯式の太極図を引き抜いた。


「――おい、何をしている!!」

「黙っていろよ。状況も判らんなら、その場で遊んでいた方が有意義だ」

「何だと!? 穢レ擬きもどきが、誰に向かって――」



 晶の行動に不信を覚えたのだろう。監視していた陪臣の一人が、足音も粗く駆け寄る。

 粗を捜そうと必死な相手を、晶の掌が押し止めた。


「この期に及んで俺しか見えてない辺り、防人としての力量が不足しているだろうが。愚図る暇があるなら、せめて邪魔はするな」

「信用できるか! 御当主の行方を隠し、雨月を掻き乱した大罪。せめて白日で裁、 、」


 血気盛んにがなる陪臣の喉元へ、咲が薙刀の切っ先を突きつける。

 眼光も鋭い咲の威勢に、相手の足が後退さった。


「――時間が無いの。動かす口があるなら、黙る才能程度も期待していいでしょう?

 これ以上ごねると云うなら、輪堂りんどう家が相手になるけど」

「い、いえ、その。輪堂りんどうの御令嬢に楯突こうなど、 、」


 晶たち2人の本気を悟ったか、踵を返した陪臣が倒けつ転びつ姿を消す。

 その背に一瞥を送る事すらなく、咲は晶へと目線を合わせた。


「何か判った?」

「瘴気の出処は連翹山の方向だから、昨日見た瘴気溜まりで間違いない。

 ――だけど、瘴気の濃度が異常に薄い。決壊どころか、これじゃ瘴気溜まりも発生しない結果しか弾いていない」

「誤差は?」

「含めても差が大きいんだ。……けど、瘴気溜まりを確認している以上、何か異常が起きていることは間違いない」


 太極図を懐へ仕舞い、立ちあがる。

 苦く晶が結論を出した瞬間、確かな地揺れが晶たちを襲った。


「何!?」「――連翹山だ」


 晶の声に、咲の視線が連翹山の方角へと向かう。

 山稜に近い中腹に沿って、茫漠と昇る噴煙。


 ――一拍の呼吸いきを置いて、半鐘が狂うほどに叩き鳴らされた。


 連翹山は、五月雨領さみだれりょうを治める雨月家の本拠地である。

 4千年の永きにさえ揺らぐ事の無かった御山の異常事態を目の当たりに、廿楽つづらの街中は大混乱に陥った。


 逃げる足を求め、廿楽つづら駅へと群衆が圧し寄せる。その混乱の反対へと、晶たちは急ぐ足を向けた。


「晶くん! 瘴気は少ないんじゃ」

「違う。結果が合っているなら、実際に有ったものを何か・・が喰ったって事になる。

 ――嗣穂つぐほさまの言葉を忘れていた」


 ――怪異の受肉には、相当量の瘴気が必要となります。

 それは数カ月前のこと。何も知らなかった頃の晶へと、嗣穂つぐほが告げた言葉。


 事実、怪異が瘴気溜まりを消費した後の沓名ヶ原くつながはらでは、穢獣けものすらない穏やかな日々が続いていると聞く。


 廿楽つづらの繁華を抜けた、連翹山へ続く田圃の畦道あぜみち。――鋭く晶が睨む先で、緊急を報せる赤の狼煙が立ち昇った。


「決壊したの?」

「――怪異が出現したんだ。それも連翹山なら、対象はかなり限られる」


 怪異へと変生する条件は一律に確認されていないが、少なくとも宿す精霊が上位の中でも上澄みである事が要求される。


 雨月の膝元である連翹山に、格の高い山野の主が棲みつくとも思えないから除外。

 残るは2人。神霊みたまか八家の宿す上位精霊ならば、充分に可能性は考えられた。


 ……ケガレとは、宿った精霊が狂うことで生まれる存在。

 それは、雨月房江祖母が晶へ告げた慰めの言葉である。


「俺が止めを刺した御厨みくりや至心か、姿の見えない雨月天山。

 ――御厨みくりや至心には清め水を掛けたから、残るのは致命傷を負っているとかいう天山だけだ」


 ―――嚇々カカッ、ッッッ!!


 晶たちの見上げる先で、今生を嗤う声なき声。

 ――逃げる山鳥だけが不気味に、青天を昏く染めた。


 ♢


 ――つまらない生。

 雨月天山をして己の人生を評すれば、この一言で事足りる。


 剣の才に対する自覚は早く、対峙すれば勝利は必至。

 幼い頃は神童と謳われ、――そして見切りをつけられた絶望も意外と早かった。


 剣の才覚は鋭く、確かな成長を続けている。

 ――問題は精霊力の行使だ。雨月天山が義王院流ぎおういんりゅうの初伝を修めたのは、天領てんりょう学院に入学する直前。


 偶に居ると噂されていた、精霊力の行使不全。

 天山自身の症状はそれほど深刻なものではないにせよ、精霊技せいれいぎの習熟は非常に遅かった。


 宿す精霊が上位であろうと、精霊力も練り上げられない持ち腐れの不具。

 燦然と輝く剣の才があろうとも、天山はこれまで劣等感に塗れて生きてきた。


 先代の雨月当主が急逝した事で、何もかもが不足したまま天山が雨月当主の座に座った時もそう。


 ――次代は。次代こそは必ず。

 精霊が宿らぬなど。己の未満を証明するような存在よりも、神霊みたま遣いこそが雨月の次代に相応しいのだ。


 ―――あの憎っくき穢レ擬きもどきに譲る位であるならば、雨月のものにしてやる。


 疾走る天山だったモノは、迫る木立へと太刀を一薙ぎにした。

 渦巻く瘴気が刃を象り、奔り抜けるまま樹木を上下に断つ。


 ―――嚇々カカァッ!!


 嘗てなく己の意志に従う精霊力・・・の感覚に、天魔は陶然と酔った。

 鼻骨の奥にへばりつく鼻腔の残骸が、生ある存在を嗅ぎ付ける。


 ―――旨イ肉。総て、儂ノものよ!!


 頬骨の奥で蠢く舌が、漏れる呼吸いきに混じって言葉を紡いだ。

 思考ですらない欲求欲動に従順と、天魔の足元で吹き溜まった雪が爆発。


 赫く腐る足跡を残す。その現実さえも置き去りに、天魔の躯は刹那の加速を得た。

 精霊技せいれいぎ、初伝、――現神降あらがみおろし。


 精霊力・・・を存分に蕩尽とうじんし、ひるがえる黒骨の腕が縦横に木立を切り裂くさま。

 圧倒的な全能感。地を跳ねる天山の眼下へと、戸惑う雨月陪臣共己の餌を納めた。

 ――精霊技せいれいぎ、中伝。


 ―――寒ァン月ッッ、落トシィッッ。


 総てを腐りつかせる赫い輝きが、雨月陪臣たちの只中へと堕ちる。

 流石というべきか、轟然と半身に朽ち堕ちた一人を残し、残りが飛び退く。


 視線の奥で立つ内臓を残した黒い骸骨に、それぞれが警告を叫んだ。


「化生じゃと!? 連翹の警戒をどうやって抜けた」

「狂骨。――黒い骨など、寡聞にき、 、ぃ、 、」


 瞬転。片方の陪臣の脇を赫く奔り抜け、斬閃がその頸を過ぎる。

 肺腑だけの残り息が途切れ、頭の落ちる湿った音が地面で跳ねた。


 ―――嚇々カカッ。肉。総テ儂ノ、雨月のモノヨ。


 言葉は不要とばかりに、躊躇いも無く骸骨が大きく口蓋を覗かせる。

 虚しか広がらないそこへ、無造作に圧し込まれる陪臣の頭部。


 ばり、がりもり。残った陪臣が茫然ぼうぜんと見るうちに、頭蓋が骸骨の口腔へと消えた。


 血風と瘴気を滲ませた骸骨を、新たに筋肉が覆い尽くす。

 その光景を目の当たりに、思わず陪臣は信じ難い確信を呟いた。


「 、 、御、御当主様、か、ぁ」

 ―――儂は当主などではない。


 その愚問を置き去りに、天魔の顎骨が陪臣の首を齧り取る。

 崩れ落ちる陪臣の身体を掴み、旺盛に広げた口腔へと圧し込んだ。


 最早、下品な響きすら残さず、陪臣たちを呑みこむ都度に蘇る天魔の躯。

 やがて、艶の戻った腕を確かめるように、天魔は天山だった頃の顔で周囲を見渡した。


 ―――善い。


 かすれる声は元に戻らないのか、それでも明瞭な声が青天に渡る。

 赫く精霊力・・・を練り上げる度、天魔は精霊の応える感覚こえを間近に覚えた。


 ―――もっとだ。もっと精霊力を練り上げろ。


 全能感に衝き動かされる侭、天魔は精霊力瘴気を練り上げる。

 堅く、難く、何処までも重質に。――やがて赫の濁光は、昏く澱の輝きを放ち始めた。


 ―――素晴らしい。これぞ志尊。儂の、儂だけに赦された神気・・の輝きよ。


 一振り。欲に嗤い崩れる天山の顔面が、不意に憎悪で歪んだ。

 精霊力瘴気が遠く捉えた、己の脅威となるであろうその気配。


 否、天山とかいう存在であった頃から、それは常に儂を陰で嘲笑ってきたのだ。

 ―――だが、それも過去の事よ。


 奴が得意気に見せびらかしてきた神気志尊を儂も得た。

 ……否。未だ足りぬ。未だ儂は、完成しておらぬ。


 雨月天山だったそれが、虚空を見渡した。

 残念ながら、連翹山の周囲にその気配はない。


 ―――儂の一人息子極上の餌。あれの神霊みたまを我が身と喰らえば、儂はきっと完成する。……だがその前に、


 にたりと嗤い崩れ、天魔は躯をひるがえした。裸同然であったその皮膚へと、瘴気の布を赫く羽織る。


 ―――抓み喰いといこうか。精霊無しの穢レ擬きもどきも、小腹の足しにはなるだろう。


 視えぬ視線の先。汚らわしいその気配に向けて、天魔は膝を屈めた。

 微温く残り雪が腐り落ちる中、爆発する音を残して天山が空の高くへと踊り出る。

 眼下に迫る連翹山の麓。そこに立つ少年少女の姿を視界へ納め、餓欲のままに天魔は大きく口を開いた。


 ―――嚇々カカッ、ッッッ!! 浄罰、誅滅っ。


 こだまする天魔の殺意が届いたか、見上げた晶と視線が絡み合う。


「天山!!」

 ―――不遜に吼えるな、穢レ擬きもどきがぁぁッッ。天山などと最早、下らぬ。儂が、儂こそが。



 振り翳す天魔の太刀で、凝る精霊力瘴気が赫く刃を象った。

 精霊技せいれいぎ、中伝、――弓張月ゆみはりづき


 ―――雨月よ!!


 雪崩れ落ちる瘴気の刃を、晶の精霊器が迎え撃つ。

 撃音。深く黒曜の輝きが瘴気の奔流に抗い、しかし勢いに敗けて圧し斬られた。


 それでも、晶は踏み込む勢いを止めることはない。

 呼気も短く天山の至近へと、その足をねじじり込ませた。


 精霊光と瘴気の滲む吐息に刹那、斬撃が幾重にも火花を散らす。

 次第に瘴気が晶の太刀を蝕み、限界から刀身に響く異音。


 明白あからさまに届く勝機の影に、天魔の口が涎を垂らした。


 ―――そぅら、どうした。何時もの嘲り嗤いは、何処へ行ったァッ!

「嘲り? 何を云ってやがる。嘲っていたのは、貴様らの側だろうが」

 ―――偽りを抜かすなッ。神無かんな御坐みくらという事実を隠し、裏で悦に浸るとは不遜の極みッ。


 互いの刃を鍔元で受け止め、競り合いに持ち込む。


 追いついた黒曜の輝きを、晶は精霊器へと総て注ぎ込んだ。

 腰を据えて、十字に刻むは太刀の軌道。

 義王院流ぎおういんりゅう精霊技せいれいぎ、中伝――。


「惑い弄げっっ!!?」

 ―――微温いわぁっ!


 鋭く踏み込む晶よりも疾く、天魔の太刀が逆袈裟に閃く。

 瘴気を纏う斬撃は重く、晶の精霊器は刀身の半ばから砕け散った。


 がら空きとなった晶の咽喉のど。必中を確信し、天山が刺突を繰り出す。

 白刃だった欠片が、陽光を散らして互いの視線を映した。


 愉悦に歪む天魔と諦めない晶。両者の眼差しが互いを射抜き、晶の掌が虚空へと踊った。

 ――心奧に納刀められた一振りを掴む。


「斜陽に沈め、」

 刹那を刻む攻防に、瀬戸際の勝利を掴む晶ののたま言。朱金の輝きが晶の吐息へと滲んだ。

「――落陽らくよう、 、柘榴ざくろォッ」


 どうせ撃ち敗けるならば、せめて精霊器を囮に。

 昏く燃え立つ太刀が一条、朱金の精霊力を宿して虚空を渡る。


 ―――貴さっ!


 ――斬。

 浄滅を象とする朱華はねずの神威が、勝利を確信した天山の右腕に食い込む。

 噴き上がる瘴気すらも抵抗を赦さず、灼闇の太刀筋は肉断つ音を残して抜けた。


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